茶道の歴史

茶道の歴史


 茶の木の原産地はインドのアッサム地方から中国南部の雲林・四川省にかけての三日月状の地帯(東亜半月弧)とされている。喫茶の習慣は2000年以上前から中国四川省付近で始まったと考えられているが、それが中国全体に大流行したのが唐の時代(618-907)で、760年頃には世界初の茶書「茶経」が陸羽によって著された。
 茶が日本に伝わったのもこの頃で、平安時代初期の弘仁6年(815)、琵琶湖遊覧の際に滋賀の梵釈寺に立ち寄った嵯峨天皇が住職の永忠から茶をふるまわれたとの記録が「日本後紀」にでている。その後、喫茶の習慣は寺院から朝廷へと広まり、朝廷の仏教行事(季の御読経)の際に茶がふるまわれるようになった。ちなみに、この頃の茶は、茶葉を蒸して固めた団茶だった。

 中国の宋の時代(960-1279)に始まった抹茶法(茶碗に茶の粉を入れて湯を差し、茶匙でかき混ぜる方法)を日本に伝えたのは、鎌倉時代の禅僧栄西だった。当時、抹茶は一種の医薬品と考えられていた。
 さて、鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて中国(宋・元)との貿易が盛んになると、唐物(からもの)と呼ばれる美術工芸品・書籍・薬品・織物などが輸入されるようになり、舶来の貴重品として尊重されるようになった。上流階級の人々の間では唐物の茶道具を用いた喫茶が大流行した。一方、庶民の間では人での多い場所に露店を構えて茶を飲ませる「一服一銭」や、茶道具一式を担い棒に吊るして移動しながら茶を売る「担い茶屋」などが現れ、喫茶の習慣が次第に一般の人々へと広まっていった。

 室町時代中期になると、禅僧一休宗純に学んだ村田珠光(しゅこう)が、茶の湯に禅の精神を導入し、「冷え枯れる」精神によって日本製の素朴な焼物の価値に光を当て、わび茶の思想の先駆者となった。
 室町時代末期には、堺の富裕な商家に生まれた武野紹鴎(たけのじょうおう)により、茶会の形式が整えられ、和歌や禅の要素が茶の湯に取り入れられた。この頃より茶会の様子や道具を記録した茶会記が著されるようになった。

 安土桃山時代を開いた尾張の大名織田信長は上洛後、京で流行していた茶の湯に心を奪われ、名物茶道具の収集を始めた(名物狩り)。また、家臣の功績により茶会の開催などを許可する御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)と呼ばれる政策をとったりもした。その信長の茶を支えるため、茶の湯に堪能だった堺商人たちが登用され、その中でも千利休(せんのりきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)の三人は天下三宗匠と呼ばれるようになった。

 本能寺の変で亡くなった信長の跡を継いだ豊臣秀吉は、特に利休を重用したため、彼の名は天下に知られるようになった。利休は天正13年3月に、秀吉とともに京都大徳寺において盛大な茶会(大徳寺大茶の湯)を催し、同年10月には秀吉が関白に任命されたのをきっかけに正親町(おおぎまち)天皇の御所で茶会(禁中茶会)を行い、天皇より利休居士の号を賜っている。
 天正15年10月には京都北野天満宮において、800名以上の参加者を数える大規模な茶会「北野大茶湯」が開催され、この席で秀吉は黄金の茶室を披露し、自ら亭主として客に茶をふるまったといわれる。しかし、その後利休と秀吉の関係は徐々に悪化していく。

 利休は「わび茶の完成者」と呼ばれるように、茶の湯における究極の美を追求するために余剰のものを次々と切り捨てていくストイックな姿勢を貫いていく。天正10年に建てた茶室「待庵(たいあん)」は、わずか二畳敷という狭さで、茶室の入り口は大人が屈まなければならないような躙口(にじりぐち)、周囲を荒い土壁で囲い、採光のための窓も極限にまで小さくされた。また茶道具もそれまでの高価な唐物に代え、茶碗師樂家初代の長次郎による宗易型と呼ばれる無地漆黒の茶碗を好み、花入も竹を揃っただけの簡素なものを創案した。一方、秀吉は黄金造りの茶室を見せびらかすような派手好みのたちだったので、二人の資質の違いが次第に際立ち、それが不和の原因となっていったと考えられる。
 後に秀吉は利休が再建した大徳寺三門の木像を不敬として利休に切腹を命じ、天正19年に彼は自刃した。

 利休亡き後に茶の湯の世界で活躍したのは利休七哲(利休弟子衆七人衆)と呼ばれる以下の武将や大名たちだった。
・蒲生氏郷(がもううじさと)
・細川三斎(ほそかわさんさい)
・高山右近(たかやまうこん)
・古田織部(ふるたおりべ)
・牧山兵部(まきやまひょうぶ)
・瀬田掃部(せたかもん)
・柴山監物(しばやまけんもつ)

 この中でも特に際立った個性で、利休に次いで「天下一茶人」と呼ばれるようになったのは古田織部だった。
 古田織部(1544-1615)は美濃出身の武将で、茶道では利休に師事し、その没後は独自の美意識に基づく茶の湯を展開した。例えば織部は茶室において、利休の採光を抑えた落ち着いたものと異なり、多くの窓を開けて明るく開放的な空間を考案した。また、利休は長次郎の黒や茶色を基本としたシンプルな楽茶碗を好んだのに対し、織部は歪んだ沓形で様々な文様が施された個性的な茶碗(織部焼)を創出した。織部は徳川二代将軍秀忠に茶法を伝授するが、後に罪を得て自刃する。

 金森宗和(1584-1656)は飛騨高山の大名の出だが、京都に出て主に公家・貴族に茶を伝えて「姫宗和」と呼ばれる優美なスタイルの茶道を創り出した。
 小堀遠州(1579-1647)は近江の大名で、若き時より古田織部に師事し、後に三代将軍家光に茶を献じ、織部に続いて「将軍家茶道師範」となり、大名にふさわしい格式ある武家茶道の流祖となった。彼の茶の湯は、わびの中に美しさを兼ね備えた「綺麗さび」と評された。また、遠州は当代随一の審美眼の持ち主とみなされ、彼が選んだ一連の茶道具は後に中興名物(ちゅうこうめいぶつ)と呼ばれて珍重されるようになった。
 片桐石州(1605-73)も大和小泉藩主の大名で、遠州に続いて新しい武家茶道のかたちを創り出し、後に四代将軍家綱の茶道師範となった。

 利休自身の茶の湯は、息子の千少庵を経て孫の千宗旦(そうたん)へと受け継がれた。宗旦は大徳寺で禅を学び、それを基本としてわび茶の精神を徹底させた。
 宗旦の息子たちのうち、三男の江岑宗左(こうしんそうさ:表千家)は紀州徳川家、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ:裏千家)は加賀前田家、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ:武者小路千家)は高松松平家の大名に仕え、三千家を立てた。また、門下の山田宗偏(やまだそうへん)は三河豊橋の大名小笠原家を経て江戸で茶の湯を広めた。

 江戸時代中期になると茶の湯をたしなむ人口が増えたため、それまでの小間の茶室での茶事を中心としたかたちから、一度に多くの人々の点前に対応できるような広間での稽古が必要となり、その結果「七事式」と呼ばれる、5人以上で八畳以上の広間で行われることが原則の七種類の式作法が考案された。
 江戸時代後期には茶会を催すことに加えて、茶道具を研究する大名茶人も出現し、その代表が出雲松江の七代藩主松浦不昧(ふまい)で、彼は自身の所持する茶道具を元に図入りの名物茶道具集「古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅ)」を出版し、茶道具の格付けを確定しようとした。
 幕末の近江彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ:後の幕府大老)は茶道の真髄の探求をめざし、「茶湯一会集」を著して「一期一会」の精神を強調した。

 明治時代に入ると政府の急激な欧化政策により、茶の湯を含む旧来の伝統文化は一時衰退の憂き目に会ったが、一方で新たな教育機関において礼法に代わって茶道が取り入れられ、主として女学校において礼儀作法および教養の涵養を目的として普及していった。
 また、明治初期に外国人を対象とした茶会が考案され、椅子とテーブルを用いた立礼(りゅうれい)と呼ばれる点前が明治5年(1872)の第1回京都博覧会で披露された。
 明治政府で外務卿などを務めた井上馨は奈良東大寺四聖坊の茶室「八窓庵」を買い取り東京の自宅に移築した。その完成披露(明治20年)には明治天皇の行幸を仰ぎ、維新後に衰退していた伝統文化の再生のきっかけをつくった。その後多くの政界・財界の有力者たちが数奇者(すきもの:風流人)として盛んに茶会を催すようになり、彼らが心血を注いで蒐集した美術品や茶道具は後に美術館の収蔵品の目玉となっていった。
 アメリカのボストン美術館中国・日本美術部長を務めた岡倉天心は「茶の本 The Book Of Tea」を英文で著し、欧米に茶道を中心とした日本文化の紹介に努めた。高橋箒庵(そうあん)は大正10年から当時の名物茶器を写真入りで紹介した「大正名器鑑」の刊行を開始し、茶の湯の世界を世間に広く紹介した。
 以後、茶道は日本文化の粋を集めた総合芸術のひとつとして、社会のさまざまな階層の人々に広まっていき、現在に至っている。