盛長と千早姫

常磐津 大森彦七

福地源一郎(桜痴居士)作 明治三十年(1897)


 〈大森彦七盛長(もりなが)は南北朝時代の武将で、伊予国(愛媛県)砥部の豪族。湊川(みなとがわ)の戦いにおいて南朝側の大将楠木正成(まさしげ)を自決させた。その戦功により褒賞を受け、伊予の金蓮寺で猿楽の興行を催すことになった。
 時は北朝の建武三年(1339)春の暮、猿楽の興行場である金蓮寺の御堂の庭へ急ごうと夜中に屋敷を出立した盛長が、途中の山道で行き暮れている賤しい姿の女に出会い、うち連れて夜道を歩いている場面から始まる。〉

 頃は北朝建武三年春の暮、伊予の国の住人大森彦七盛長は、御堂の庭に急ごうと、まだ夜深きに出立し、たどる山路の道端の草むらで、淋しさを嘆く賤しいなり女を、いたわり連れ立つ夜の道。
 弥生も末の若葉ざかりに、白雪のような散り残りの花もおぼろに見える真夜中に、流れる雲も群れ立ち、水の音がこだまする中を、賤しい女が身も軽々と石を伝って川中に立つと、早瀬に盛り上がる浪に押し流されそうな様子である。

盛長「昨日の雨に水が増したか、小川といえどこの勢い、女の身で歩き渡るのは難しかろう。それがしが背負って差し上げよう」
姫 「それでは恐れ入りますが、仰せに甘えてお背中に」
盛長「さあ遠慮なくお乗りください」

 乙女を背負い盛長が漲り落ちる谷川の流れを渡るその折に、さっと吹きくる夜嵐で、空にきらめく北斗の光に、不思議なことに乙女の顔つきがたちまち悪鬼の姿と変わる。鬼の鉄杖ならぬ氷の刃で、盛長めがけて斬りかかる。女ながらに稀代の早わざ、かなたへ離れこなたへ飛び、その身軽さは稲妻か蝶、千鳥のよう。下弦の月影が水面に映り、岩に砕けてちらちらとする。さすがの盛長も驚いたが、もとより世に聞こえた無双の勇士なので、難なく乙女を取り押さえ、

盛長「女の身でこの盛長を、だまし討にしようとするのは何者だ」

 照る月影にその顔をうち眺めて、

盛長「御身の目元、鼻筋まで、正成どのに生き写し。疑いもなく楠家のご息女」
姫 「いかにも妾(わらわ)は楠河内守の娘の千早(ちはや)です。なにゆえに湊川の合戦で、父上に無理やり腹を切らせ、菊水の宝剣を奪い取って立ち去ったのです。その恨みを晴らそうと、待ち受けていた今宵の出会い」
盛長「あっぱれなお心持ち。とは言うものの御身の恨みを解かんためには、その日の戦のあらましを、盛長が語り申し上げよう」

 それではお聞きくだされと、盛長は威儀を正して座り直し、

盛長「さても建武二年の五月、正成どのは一族を引き連れて、朝日に輝く菊水の旗を翻し、堂々と湊川へ打って出て、海陸二手の足利勢を、引き受け引き受け攻め破り、風に木の葉を散らすように、敵を悩まし戦ったが、ひと村のある家に走り入り、息を休ませていらっしゃった。
 それがしがその様子を見て取り、いざ一戦交えようと押し寄せれば、正成どのは大将の鎧をお脱ぎになり、すでに最期のお支度をされていたが、さあ来いと立ち上がり、再び武具をお着けになろうとするご様子。これは勿体ないと押し止め、ご最期をお勧めいたしますと、お心静かに念仏を唱え、弟の正季(まさすえ)どのと差し違い、おいたわしくもご兄弟で、同じ枕にうち臥されたのです」

 父の最期の物語を聞くと涙も滝のように、むせび泣く小川の水さえ増して、胸に漂う切なさに、姫はお声を曇らせて、

姫 「その御物語を聞きますと、御身を父の敵だと恨んだのは妾の誤り。また次には、御身が預かる菊水の宝剣を手に入れて、弟の正行(まさつら)に与えようと思ったことも虚しい願い。故郷へ帰る雁たちの、一羽が残り恥ずかしことです。
 わが身は片撚りの苧環(おだまき)の、繰れども還らぬ朽ち糸が、乱れて絶える玉の緒の命と、かねて覚悟の上ですので、岩屋の内の渕の底にせめて亡きがらを隠し置き、恥を隠すのがこの身の言い訳。お暇申します大森どの」

 心に覚悟の死出の旅、力なくお立ちになるその有様の痛々しさ。盛長しばし待たれよと押し止め、

盛長「あいや待たれよ千早姫、御身の孝心義烈に感じ入り、菊水の宝剣をお譲りいたしましょう」
姫 「ええ」
盛長「楠家の息女千早姫に、この菊水の宝剣を譲ったところで何が悪かろう。鬼女のお面をこれ幸いに、楠判官正成どのの怨霊が現れ悪鬼となり、この盛長を苦しめて、宝剣を奪い去ったと世間に言いふらしましょう」と

 剣を取って差し出せば、姫は嬉しさはかりしれず、取り落した鬼女の面を再び着け、宝剣を取ってすっくと立ち上がり、

姫 「のう、我こそは楠判官正成の怨霊である。今こそ朝敵を調伏する剣を奪い立ち去るぞ」と

 はったと睨む鬼女の形相が、凄まじく見えた。

盛長「さては汝は楠の怨霊であったか。わが宝剣を返せ」
姫 「何を」

 また群れ立つ雨雲に、争う姿も月が沈み、暁近い明星がきらめく光にちらちらと、見え隠れする悪鬼の姿を、重盛が見失うと怨霊は消え失せた。


・『太平記』巻第二十三にみえる大森彦七盛長の話が元になっている。南北朝時代の南朝側の大将、楠正成は「湊川の戦い」で陸海二手から攻め寄せる北朝(足利尊氏・後醍醐天皇)側の軍勢を相手に戦うが勝機なきを悟り村の陋屋で自刃する。その時に来合わせたのが北朝側の武将大森彦七盛長で、盛長は疲弊した正成をあえて討とうとせず、名誉の自刃を勧めた。しかし楠木家の宝刀を奪ったことにより、正成の怨霊に付きまとわれる。
・「頃は北朝建武三年春の暮」と始まるが、湊川の戦いは建武三年五月のことであるから時代的に合わない。『太平記』によると、この出来事は湊川の戦いから六年後の暦応五年(1342)の話とされている。