【旧石器時代】
今から約500万年前、地質学的には鮮新世の初期に、人類の最初の祖先はアフリカにおいて誕生したと考えられている。その後アフリカにおいて進化した人類は、ホモ・エレクトスの段階においてアフリカ大陸からアジア・ヨーロッパ地域へと進出していった。彼らは原人と呼ばれ、アジアにおける北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)や、かつてピテカントロプスと呼ばれたジャワ原人(ホモ・エレクトス・エレクトス)がこれに当たる。ホモ・エレクトスはアジア大陸に広く分布したが、後に日本列島となる地域には到達しなかったとみられている。
鮮新世の次の更新世は氷河時代に当たり、地球上で寒冷な氷期と温暖な間氷期とが交互に訪れ、そのたびに海面の上昇と下降が繰り返された。この時代は日本列島はまだアジア大陸と地続きで、大陸の東の縁にあったが、その後の地殻変動により次第に大陸から切り離され、今から1万年ほど前の完新世に入った頃に、宗谷・津軽・対馬などの海峡によって大陸から切り離された。
今から約20万年前にアフリカにおいて現在の人類であるホモ・サピエンス(新人)が誕生した。ホモ・サピエンス以前の人類には旧人と呼ばれるネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシスまたはホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス)があり、彼らはヨーロッパ大陸から西・中央アジアにかけて生息していたが、東アジアには進出しなかった。
更新世の間にホモ・エレクトスやネアンデルタール人は絶滅したが、約7万年前にその一部がアフリカを出てユーラシア大陸全体に広がり、オセアニア・南北アメリカ大陸にまで進出したホモ・サピエンスは氷河時代を生き延び、現在生存している唯一の人類種(ホミニド)となった。
アフリカを出てユーラシア大陸を東に向かったホモ・サピエンスの集団は約5万年前に東アジアに到達したと考えられている。更新世の日本列島は、氷期に海岸線が大きく後退して大陸と地続きになっており、大陸からナウマンゾウ・マンモス・オオツノジカなどの大型動物が渡ってきたが、人類もこれらの群れを追って日本列島に移住してきたと思われる。
1949(昭和24)年に群馬県岩宿(いわじゅく)で、更新世後期の関東ローム層から打製石器が発見されたことをきっかけに、全国各地の更新世の地層から各種の石器が発掘され始め、更新世時代の日本にも旧石器文化(先土器文化・無土器文化)が存在したことが確認された。
【縄文時代】
約1万年前から完新世に入ると気候は温暖化し、氷河も溶けて海水面が上昇し、日本列島は海峡によって完全に大陸と切り離された。大型動物に代わってシカ・イノシシ・ウサギなどの小型の動物が増え、森林や湖沼の多い環境の中で食料も豊富になった。
このような環境の変化につれて人々は土器を伴う新たな文化を生み出した。最古の土器は約12,000年前のものと推定されている。初期に作製された、さまざまな形と文様を持ち、低温で焼かれた厚手の黒褐色ないし茶褐色の土器は縄文土器と呼ばれ、その時代の文化は縄文文化と呼ばれる。
縄文文化は新石器時代に属し、土器の製作・使用のほか、打製石器と並んで磨製石器が用いられるようになり、弓矢・骨角器なども作られた。
縄文時代の人々は、湧き水のある台地の周辺部などに竪穴式住居の集落を形成した。集落の背後には豊かな森があり、その近くに環状または馬蹄形の貝塚ができた。また、女性をかたどった土偶が作られ、成人を示す抜歯や、死者を折り曲げて葬る屈葬などの習俗が行われた。
【弥生時代】
紀元前6000〜5000年頃に中国大陸の黄河中・下流域に始まった農耕は、紀元前4世紀頃に日本列島に伝わってきた。始めに九州北部で水稲耕作と青銅器・鉄器を特徴とする農耕文化が起こり、紀元前後には関東地方から東北地方南部へ、紀元2世紀頃には東北地方北部にまで及んだ。鉄は朝鮮半島からの輸入が主体だったが、日本でも中国地方の山地などで砂鉄の採取が行われるようになった。
この時代の土器は高温で焼かれた薄手で硬い茶褐色のものが主体となり、その土器は弥生土器と呼ばれ、その時代の文化は弥生文化と呼ばれる。弥生土器は用途に応じて壺(貯蔵用)、瓶(かめ:煮炊き用)、高坏(たかつき:盛り付け用)、甑(こしき:蒸し器)などが作られ、機織りも始まった。
住居は、数個の竪穴住居や平地住居に、主に穀物を貯蔵する高床倉庫が付属する形式がみられ、また住居群を濠や溝で囲む環濠集落も現れた。弥生社会では集落内や集落間に貧富の差が生じ、身分の別が起こった。中期以降は、一つの水系を単位とする地域集落をまとめる必要から、強大な権力を持つ首長が出現するようになった。
中国の史書「漢書」地理志によると、紀元前後1世紀の日本は倭と呼ばれ、100余の国々に別れ、朝鮮半島北部に置かれた漢の楽浪郡(らくろうぐん)に定期的に使者を送っていたという。
「後漢書」東夷伝には、紀元57年に倭の奴(な)の国王が後漢の光武帝のもとに使者を送り、印綬を与えられ、107年にも倭国王らが生口160人を時の皇帝に献じたとある。これらから、弥生時代中期の日本は、小国に別れ、それぞれ中国と通交していたと考えられている。
2〜3世紀の弥生時代後期になると倭の社会にも変化が起こり、九州では銅矛・銅戈が、瀬戸内海沿岸では平形の銅剣が盛んに作られるようになり、近畿地方ではわが国独特の形状を持つ銅鐸が作られ、中国地方にも広まっていった。
3世紀初め、中国では後漢が滅び、代わって魏・呉・蜀の三国時代となると、朝鮮半島では韓族の力が増し、楽浪郡から独立する動きをみせていた。
「魏志」倭人伝によると、同じ頃に倭も国内が乱れ、何年にも渡って国々が攻めあった後、卑弥呼という女性を連合王国の王に立て、乱を収めたという。卑弥呼を女王とする邪馬台(壱)国は30カ国ほどを勢力下に置く連合王国であり、後漢末期に楽浪郡の南に設けられた帯方郡を経由して魏と通交した。朝鮮半島北部を勢力下に置いていた公孫氏が滅びると、卑弥呼は239年に魏に使節を送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などを授けられた。
卑弥呼の死後、倭国は再び乱れたため、宗女の壱与を女王に立てることで再び戦乱は収まった。壱与が魏に朝貢した記事を最後に、しばらくの間中国の史書から倭国に関する記述は姿を消す。
【古墳時代】
3世紀後半、日本では近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が作られ始めた。3世紀後半から7世紀までは、強大な権力を持つ特定の首長の墳墓である古墳が盛んに築造されたため、この時期は古墳時代と呼ばれる。
4世紀頃の前期古墳は、その多くが前方後円墳という特異な外形を持ち、大和がその中心であった。4世紀末から5世紀にかけての中期古墳になると、数も著しく増え、東北地方南部から九州地方南部にかけて広く分布するようになった。
4世紀初め、中国では魏・呉・蜀の後を受けた晋が北方民族の侵入を受けて江南に移り、朝鮮半島では北部の高句麗が楽浪郡を滅ぼし、南部では4世紀中頃、馬韓から百済、辰韓から新羅が興ってそれぞれ国家を形成した。しかし、半島南部の伽倻(かや:加羅)と呼ばれる地域だけは小国分立の状態が続いた。大和の王権はこの地を足場に4世紀後半から百済と通交し、新羅を抑えて高句麗とも対立し、とくに4世紀末以後、高句麗と激しく戦った。
「宋書」倭国伝によると、5世紀には讃・珍(弥)・済・興・武と呼ばれる倭の五王が中国南朝の宋に次々に使者を送ったとされている。朝鮮半島や中国との交渉が盛んになると、大陸から多くの人々が日本に渡ってきた。5世紀までには秦氏(はたうじ)・漢氏(あやうじ)の渡来があり、5世紀末から百済が高句麗に圧迫されると、さらにこの地域の人々が渡来し、彼らを渡来人(帰化人)と呼ぶ。
大和王権の国内統一が進むと、5世紀末から6世紀にかけて、中央の豪族たちは大王(おおきみ)の下で朝廷を構成し、各地の豪族たちも朝廷の統治組織に組み込まれていった。朝廷を構成する豪族は、氏人(うじびと)を氏上(うじのかみ)が率い、大王から彼らの身分を表す氏(うじ)・姓(かばね)が与えられた(氏姓制度)。
朝廷の有力豪族には、畿内の地名を氏の名とし臣(おみ)の姓を持つ葛城(かつらぎ)氏、平群(へぐり)氏などや、朝廷での職務を氏の名とし連(むらじ)の姓を持つ大伴(おおとも)氏・物部(もののべ)氏などがあり、その中でも国政の中心となった者は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)と呼ばれた。これらのもとに造(みやつこ)・首(おびと)などの姓を持つ伴造(とものみやつこ)、さらに史(ふひと)・村主(すぐり)などの姓を持つ伴があり、その下に伴造や伴に率いられ、労役や貢納に従う多くの部民(べみん)がいた。
地方豪族は君(きみ)・直(あたえ)などの姓を持つ国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)などに編成された。
倍(べ)とは、朝廷や大王・王族・豪族に従い、これに労役を奉仕したり品物を納めたりする一団の人々をいう。朝廷内でさまざまな生産に携わる品部(しなべ)、大王や王族の宮に仕え宮の経費を負担する小代(こしろ)・名代(なしろ)、豪族の経済を支える部曲(かきべ)と呼ばれる農民などがあった。
各地方には朝廷が土地を支配するために設けた屯倉(みやけ)と、豪族の土地である田荘(たどころ)があり、屯倉はやがて土地・建物・生産者を含む組織を指すようになった。
大和王権による全国支配が進む中で、5世紀後半から6世紀前半にかけて、吉備・筑紫・武蔵などで国造の反乱が起こった。中でも筑紫国造磐井(いわい)は新羅と結んで大規模な反乱を起こし、朝廷はその鎮圧に苦慮した。
6世紀になると、中国南朝の新しい文化が百済経由で日本に伝えられ、儒教や医・易・暦などの学術とともに仏教も伝来した。しかし、日本と関係の深かった百済は高句麗・新羅に圧迫され、加羅諸国も新羅に次第に統合されていき、562年、大和朝廷はついに任那(みまな)の最後の拠点を失った。
【飛鳥時代】
蘇我氏は6世紀頃から飛鳥の地に進出し、その地の帰化人の知識・技術を用いて朝廷の財政・生産を担い、しだいに朝廷内に勢力を伸ばしていった。
蘇我氏は二人の娘を欽明天皇の妃とし、それらの妃が産んだ皇子・皇女を次々に即位させて外戚(がいせき:母方の親戚)の地位を確立した。その後、この二人の系統の間で皇位継承の争いが起こったが、そのさなかに大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)は587年に政敵の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、また592年に崇峻天皇を暗殺した。
この政情不安なときに推古天皇が初の女帝として即位し、その甥の聖徳太子(厩戸皇子:うまやとのみこ)が皇太子として摂政となり、馬子とともに実際の政治に当たった。聖徳太子は603年に冠位十二階の制を定め、氏姓制度と異なり個人の功労に応じて官位が与えられた。翌604年には憲法十七条が制定され、「天皇記」「国記」などの歴史書が編纂され、やがて「大王」に代わって「天皇」という称号が用いられるようになった。
589年、隋が中国を統一すると、朝廷は607年に小野妹子を隋に遣わした。翌年、隋が裴世清(はいせいせい)を来日させると、再び妹子を送るとともに、高向玄理(たかむきげんり)・僧旻(みん)・南渕請安(みなみぶちのしょうあん)ら多くの留学生・学問僧を遣わした。
618年、隋に代わって唐が興り、645年に高句麗に向けて遠征を行うと、朝鮮半島に緊張が高まった。
国内では蘇我市の権勢がますます増大し、馬子の後に蝦夷(えみし)が大臣となり、皇極天皇の時には蝦夷の子入鹿(いるか)が聖徳太子の子山背大兄王(やませのおおえのおう)を攻め滅ぼした。これに対し、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は豪族中臣鎌足(なかとみかまたり:後の藤原鎌足)と図り、645年、武力による政変を起こし、蝦夷・入鹿を倒した(乙巳の変:いっしのへん)。
すぐに孝徳天皇が立てられると、中大兄皇子が皇太子、鎌足が内臣(うちつおみ)となって実権を握り、僧旻と高向玄理を国博士に任じて政策を立案させ、大化という年号を定めた。これに始まる一連の改革を大化の改新と呼ぶ。
翌646(大化2)年、4か条からなる改新の詔(かいしんのみことのり)が出され、公地公民制、行政区画の制定と軍事・交通の整備、戸籍・計帳の作成と班田収授、新たな税制の設定などが告知された。
その後朝廷内部で不和や分裂が続き、都は難波(なにわ)へ移ったが、中大兄皇子は不和となった孝徳天皇を見捨てて飛鳥へ帰ると、天皇は難波の都で病没し、その後に天皇の子有間皇子(ありまおうじ)が謀叛を企てた廉で処刑された。孝明天皇の後を受けた斉明天皇は、宮廷造営の土木工事や、阿倍比羅夫(あべのひらふ)らによる蝦夷遠征を行ったため、政情は安定しなかった。
その頃朝鮮半島では新羅が統一を進め、唐と結んで660年に百済を滅ぼした。その後も抵抗を続ける百済の豪族たちが日本に救援を求めてきたため、朝廷は朝鮮半島に軍を送ったが、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島での地位を完全に失った。668年に高句麗が滅びると、朝鮮半島は新羅によって統一された。
中大兄皇子は新羅や唐の攻撃に備えて、大宰府に水城(みずき)と山城を築き、対馬と筑紫に防人(さきもり)を置いた。さらに667年に都を近江の大津宮(おおつのみや)に移し、西日本各地に城を築いた。翌年に皇子は即位して天智天皇となり、我が国初の令(りょう)である近江令(おうみりょう)を定めた。670年には全国に渡る戸籍として初めて庚午年籍(こうごねんじゃく)を作った。
天智天皇が亡くなると、672年にその子大友皇子(おおとものおうじ)と天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)との間に皇位継承を巡る争いが起き、畿内や各地の地方官・豪族らを巻き込む大きな内乱が勃発した(壬申の乱:じんしんのらん)。戦いは大海人皇子側の勝利に終わり、翌年皇子は飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位して天武天皇となった。
天武天皇は大臣を置かず、皇子たちとともに政治を行い、豪族を新たな支配体制に組み込むために、684年に八色の姓(やくさのかばね)を定め、また律令や国史の編纂にも着手した。
次の持統天皇はこれを受け継ぎ、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行するとともに、藤原京の造営を進め、694年にここに都を移した。
続く文武天皇の701(大宝元)年には、刑部親王(おさかべしんのう)・藤原不比等(ふひと)らの手により大宝律令(たいほうりつりょう)が制定され、ここに日本は律令国家としての形を整えた。この頃より天皇の位が父子の直系に受け継がれる原則が成立し、国号も「日本」が用いられるようになった。
【奈良時代】
天武天皇が夭逝すると、その母元明天皇が即位し、710(和銅3)年、平城京に遷都した。政府はその前後より支配領域の拡大に努め、8世紀初めには東北地方で陸奥国と越後国を分けて出羽国を置き、出羽柵(でわき)・多賀柵(たがき:後の多賀城)が設けられた。九州南部では日向国を割いて大隅国を設け、種子島なども領土に編入した。708(和銅元)年に武蔵国から銅を産出すると、年号を和銅と改め、和同開珎(わどうかいちん)という銭貨を鋳造し、蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を発して銭貨の流通を図った。
白村江の敗戦後中断されていた遣唐使は702(大宝2)年に復活し、日唐間に安定した交流が続いた。
8世紀初めになると朝廷で藤原氏の権勢が増大してきた。藤原鎌足の子不比等(ふひと)は婚姻によって皇室との結び付きを強め、勢力を伸ばした。不比等の死後、長屋王(ながやおう)は皇族勢力を代表して藤原氏を抑えようとしたが、不比等の4人の息子たちの策謀により自害させられた(長屋王の変)。
不比等の娘光明子(こうみょうし)が聖武天皇の后となり、四子は権力を握ったが、疫病により相次いで没し、皇族出身の橘諸兄(たちばなもろえ)が政権を握った。これに対し、藤原広嗣(ひろつぐ)が太宰府で叛乱を起こしたが鎮圧された(藤原広嗣の乱)。
この間、長屋王のもとで722(養老6)年、百万町歩の開墾計画が立てられ、翌年には三世一身法(さんぜいいっしんのほう)が施行された。さらに橘諸兄のもとで743(天平15)年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が施行された。
藤原広嗣の乱に際して平城京から抜け出した聖武天皇は、山城の恭仁(くに)、摂津の難波、近江の紫香楽(しがらき)へと遷都を繰り返し、社会不安が深刻化していった。そのため、仏教の力により政治・社会の動揺を鎮めんと、741(天平13)年に国分寺建立の詔、743(天平15)年に盧遮那(るしゃな)大仏造立の詔が出された。都がやがて平城京に戻ると、東大寺において大仏造立の事業は継続され、10年後に大仏開眼供養が行われた。
藤原仲麻呂は橘諸兄の死後、不比等が編纂した養老律令を施行し、政敵橘奈良麻呂を倒し、淳仁天皇から恵美押勝(えみおしかつ)の名を賜って政治の実権を握ったが、考謙天皇の信任を得た僧道鏡(どうきょう)と対立し、これを除こうとして兵を挙げたが敗死した(恵美押勝の乱)。
弓削(ゆげ)氏の出である道鏡は称徳天皇の時代に異例の法王に任じられ、政治の実権を握って仏教政治を行った。その後、豊前の宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を皇位に就けようとする事件が起こると、藤原桃川(ももかわ)や和気清麻呂(わけのきよまろ)らがこれを阻み、称徳天皇の死後に光仁天皇が即位すると、道鏡は下野国に流された。
【平安時代】
光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は、新たな政治基盤を確立すべく、寺社など旧勢力の強い奈良から、水陸交通の便利な山城の地に都を移すことを考え、まず長岡京へ、次いで平安京へ遷都した(794:延暦13)。
天皇は律令体制の立て直しに力を注ぎ、徴兵による全国の軍団の殆どを廃止し、郡司の子弟を健児(こんでい)に採用して国司の役所である国衙(こくが)を守らせた。また、班田収授を励行し、公出挙や雑徭を軽減して農民の負担を軽くした。国司の交代も、勘解由使(かげゆし)を置いて監査するなど、地方官を厳しく取り締まった。
奈良時代末より激しさを増してきた蝦夷(えみし)の反乱に対しては、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて北上川の中流域までを平定させ、ここに胆沢城(いざわじょう)を築き、鎮守府を多賀城からこの地に移した。
桓武天皇の後を継いだ平城(へいぜい)天皇、嵯峨天皇も引き続き律令政治の改革をめざした。しかし、810年(弘仁元年)、平城上皇が復位と平城京への復都を企てて失敗した薬子の変(平城上皇の変)が起こると、嵯峨天皇は政務上の機密を守るために蔵人頭(くろうどのとう)をおき、藤原冬嗣をこれに任命した。次いで都の治安を維持するために検非違使(けびいし)が設けられた。
823(弘仁14)年、太宰府の管内に口分田やそのあまりの田の1/6を割いて公営田(くえいでん)が設けられ、その後官田・諸司田などが設けられた。また、それまでの格式が整理され、弘仁格式にまとめられた。
嵯峨天皇の死後、藤原氏の北家が急激に勢いを伸ばし、藤原冬嗣は皇室との姻戚関係を深めた。冬嗣の子、良房は太政大臣に任ぜられた後、858(天安2)年に清和天皇が幼少で即位すると、その外祖父として事実上政治を掌握した。
承和の変で伴健岑(これみね)・橘逸勢(はやなり)らの有力氏族らの勢力が退けられ、応天門の変(866:貞観8)年が起こり、時の大納言伴善男が処罰されると、伴(大伴)氏と紀氏の勢力が中央政界から追われた。その結果、良房が正式に摂政となり、天下の政治を執り行うことになった。
良房の養子基経は、次に立った陽成天皇の伯父であり、右大臣として摂政の任に当たり、さらに太政大臣に任ぜられると、陽成天皇を廃して光孝天皇を位に就けた。光孝天皇はその功に報いるため、基経を関白の地位に就け、政治を執り行わせた。
藤原基経が亡くなると、光孝天皇の後を継いだ宇多天皇は摂政・関白を廃し、菅原道真を登用して自ら政治を取り仕切った。道真は基経の子時平と並んで昇進し、醍醐天皇のときには時平が左大臣、道真が右大臣となったが、901(延喜元)年、道真は時平の策謀により大宰府に左遷された。
醍醐天皇の時代には、衰退しつつあった国司や戸籍の制度を守る努力が払われ、延喜格式(法典)や「日本三代実録」(国史)の編纂が行われた。
この頃、地方政治を担う国司の中に、任地先の国衙に目代(もくだい)を派遣し、自らは国司の俸禄だけを手にしようとする者が現れた(遙任:ようにん)。一方、在国の国司で最上位のものは受領(ずりょう)と呼ばれ、任国を私領化して多くの富を蓄えるようになった。
この受領支配に対し、在地の豪族は中央の貴族・寺社と結び、荘園を開いて租税を収めなかったため、次第に受領は貴族・寺社とするどく対立するようになっていった。
やがて目代のもとで、地方豪族から登用された在庁官人が国政の実務を握るようになり、在地勢力が伸張しはじめた。
有力な地方豪族のなかには、弓矢を持って戦い、配下に家子(いえのこ)や郎党(ろうとう)を率いて武士化するものが現れた。朝廷や貴族は、地方武士を「侍(さむらい)」として奉仕させ、宮中を警備する滝口の武士に任じたり、諸国の追捕使(ついぶし)や押領使(おうりょうし)に任命して、地方の治安維持を分担させたりした。
地方武士の動きは、特に東国で激しく、桓武平氏の高望王(たかもちおう)は上総の国司として関東に下ると、その一族はそのまま土着して地域の支配者となった。
平将門(たいらまさかど)は承平年間、土地や租税をめぐって国司・郡司と対立し、他の豪族たちと手を結んで939(天慶2)年、国府に対する反乱をおこした(将門の乱)。将門は常陸・下野・上野を国府を攻め落とし、自ら「新皇(しんのう)」と称した。
同じ頃、西国でも伊予の国司として赴任したまま土着した藤原純友が、瀬戸内海の海賊を率いて各地を襲撃し、940(天慶3)年には山陽道・南海道の国々を襲い、ついに大宰府を攻め落とした(純友の乱)。
これらの地方の反乱は、東国では平貞盛と藤原秀郷が、西国では源経基らの武士により平定され、その結果源平二氏が勢力を増すきっかけとなった。
醍醐天皇の後、藤原時平の弟忠平が太政大臣として摂政や関白に任ぜられたが、村上天皇は忠平の死後摂関を置かず、親政を行った。しかしその後は藤原北家の中でも忠平の子孫だけが摂関に任じられるようになり、969(安和2)年、左大臣源高明が地位を追われる(安和の変)と、摂関が常設されるようになった。
摂関の地位をめぐっては忠平の子孫同士の争いが続き、やがて藤原道長が4人の娘を次々に天皇・皇太子の妃とし、朝廷で勢力をほしいままにした。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇はみな道長の外孫で、道長の子頼通もこの3天皇の時代、約50年にわたり摂政・関白を務めた。
摂政・関白は、令制の左・右大臣や太政大臣の職務と関わりなく、その上位に位するものとなり、もっぱら天皇の外戚に当たるものが任じられた。天皇が幼少のときは摂政となり、成人の後は関白となるのが慣例となり、摂関に就くものは藤原氏の氏長者(うじちょうじゃ)という私的な地位も兼ねるようになった。
一方、地方では政治が混乱する中で各地の武士団が荘園や公領を足場に大きく成長し、それらをまとめる有力者が武士の棟梁と呼ばれた。
承平・天慶の乱の後、関東では桓武平氏が勢力をふるい、1028(長元元)年には平忠常の乱が起こった。これを平定した清和源氏の源頼信は、それをきっかけに関東に勢力を伸ばした。
頼宣の子頼義と、その子義家はさらに奥州に進出し、陸奥・出羽の豪族安倍氏を前九年合戦、清原氏を後三年合戦で滅ぼし、その結果義家は関東・奥州の武士団と広く主従関係を結び、源氏の東国での基盤を築いた。また奥州では義家に協力した奥州藤原氏が勢力を得、清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の3代に渡り平泉を中心に栄えた。
関東で勢力を失った桓武平氏は、伊勢・伊賀両国に基盤を築き、中でも平正盛・忠盛は荘園寄進を通じて朝廷への進出を図り、西国の受領に任じられ、西国を中心に勢力を伸ばした。
関白藤原頼通の娘に皇子が生まれなかったため、ときの摂関家を外戚としない後三条天皇が即位し、自ら政治を執った。1069(延久元)年の荘園整理令により、不法な荘園を禁止したため、荘園を経済的基盤としていた摂関家は大きな打撃を受けた。
続く白河天皇も親政を行い、1086(応徳3)年に幼少の堀川天皇に譲位した後も上皇としてその御所に院庁(いんのちょう)を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政の道を開いた。上皇は中・下級貴族や近親者などを院近臣(いんのきんしん)や院司(いんじ)に取り立てて政治的基盤とし、源氏・平氏の武士を北面の武士や検非違使に任じて軍事的基盤とした。
上皇の地位は天皇による任命の手続きを必要としないため、法と慣例にこだらわない上皇個人の意志による専制的政治が可能となった。この体制は鳥羽・後白河上皇を含め、ほぼ1世紀に渡って続いた。
上皇たちはみな仏教に篤く帰依し、寺院や自らの御所・離宮建立の費用を作るため、一国の経済的収益を皇族や特定の貴族に委ねる知行国制(ちぎょうこくせい)が広がった。知行国主は子弟や近親者を国守(くにのかみ)に任じて経済的収益を握り、荘園も専制的権力を持つ上皇のもとに集まってきた。
上皇の厚い信仰を得て勢力を伸ばした大寺院は、下級僧侶や荘園武士を僧兵に組織し、国司と争ったり、朝廷に強訴を繰り返すなどして次第に院の権力を脅かすようになった。このことは、寺社勢力の実力行使を防ぎ、上皇の身辺を警護することで力を伸ばしてきた源氏や平氏の武士たちが中央政界に進出するきっかけとなった。
鳥羽法皇が1156(保元元)年に亡くなると、朝廷内の政治的主導権や荘園の支配権をめぐって内乱が起こり、後白河天皇・藤原忠通方が、東国の源義朝や西国の平清盛らの武力によって、源為義の勢力を頼んだ崇徳上皇・藤原頼長方を打ち破った(保元の乱)。
その後院政を始めた後白河上皇に二人の近臣、藤原通憲(信西)と藤原信頼の対立から、1159(平治元)年に再び内乱が勃発した。この戦乱で平清盛は源義朝を倒し、後白河院政を背景に武家の棟梁としての実力と地位を得、平氏全盛の基礎を固めることができた。
平氏は諸国の武士団の組織化に力を尽くしながら、多くの荘園や知行国を手に入れて富を蓄え、また日宋貿易に力を入れて瀬戸内海航路を整え、大輪田泊(おおわだのとまり:現、神戸港)を修築した。
清盛はついに太政大臣となり、一族で高位高官を占め、娘徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となった。しかし旧勢力の反発も強く、1177(治承元)年に藤原成親(なりちか)らが後白河法皇を動かして平氏打倒を図るも事前に発覚して失敗に終わった(鹿ヶ谷の陰謀)。清盛は1179(治承3)年に法皇を押し込め、多数の貴族の官職を奪い、全国の半ば近い知行国を手に入れた。
1180(治承4)年、清盛が孫の安徳天皇を位に就けると、その専制に不満を抱いた後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が平氏打倒の兵を挙げた。それに呼応し、伊豆では源頼朝が、信濃では源義仲が挙兵し、さらに近江や四国・九州などで平氏に反発する武士団が次々に蜂起した。
頼朝は独立心の旺盛な東国の武士団を結集し、挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧した。
平氏は都を福原(現、神戸市)に移し、反乱勢力に備えたが、富士川の戦いに敗れると都を戻して畿内の支配体制を固めた。一方、鎌倉に根拠地を置く頼朝は、1183年、朝廷との折衝で東国支配権を認めさせた。
清盛の死後、勢力が衰えた平氏は安徳天皇を奉じて西走した。頼朝は弟の範頼・義経に平氏追撃を命じ、各地に東国武士団を配置してゆき、平氏が長門の壇ノ浦の戦いで滅亡した1185(文治元)年には、ほぼ全国の軍事支配権を握った。
この間、頼朝は平家没管領(もつかんりょう)を朝廷から与えられ、これらを併せて関東御領(ごりょう)を成立させ、知行国を朝廷に求め、4カ国の知行国を得た(関東知行国、関東御分国)。これらの荘園、公領の経営と御家人らの裁判のために公文所(くもんじょ:後の政所まんどころ)や問注所(もんちゅうじょ)を設け、その長官である別当や執事には朝廷の下級役人である大江広元・三善康信を任じた。こうして頼朝は、東国武士団の力と朝廷の権威・統治技術を利用して幕府の基礎を固めていった。
【鎌倉時代】
1185(文治元)年、平氏の滅亡によりほぼ全国の軍事的支配権を握った源義朝は、没収した平氏の土地(平家没管領)を朝廷から与えられ、これらを併せて関東御領を成立させ、また知行国を朝廷に求めて4カ国の知行国を得た(関東知行国)。
平氏滅亡後、後白河法皇が義経に頼朝の追討を命じると、頼朝は大軍を以て朝廷に迫り、守護・地頭を諸国の荘園・公領に置くことを認めさせ、東国武士団をこれらに任命した。その後頼朝は義経をかくまった廉で奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成すると、1192(建久3)年、征夷大将軍に任命され、ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。
頼朝は武士団における主人と従者(家人)の主従関係を幕府の根本に据え、将軍は御家人と呼ばれる従者に御恩を与え、御家人は将軍に奉公する制度を整えた(封建制度)。
守護・地頭の設置は、諸国においては国司と守護、荘園においては荘園領主と地頭の二重支配が行われることになり、地位や経済力の向上した武士団と国司・荘園領主らとの間に土地をめぐる争いがしばしば引き起こさた。幕府は政所や問注所などの政治機構の整備を図ってこれに対処したが、やがて朝廷との関係を重く見る将軍頼朝と、守護・地頭の権利を主張する御家人との間に対立が生じるようになった。
頼朝の死後、有力御家人は将軍の持つ多くの権限を制限し、さらに有力御家人による合議によって政治や裁判を行おうとするようになり、頼朝の妻政子の父北条時政がその中心となった。
時政は将軍頼家を廃して実朝を立て、自ら政所の長官となって実験を握った。この地位は執権と呼ばれ、以後代々北条氏がこの職を独占した。
時政の子義時が執権となると、次第に勢いを取り戻してきた朝廷において、後鳥羽上皇が広大な天皇領を手に入れ、強力な院政を敷いた。将軍実朝が甥の公暁(くぎょう)に暗殺されると、それを機会に上皇中心の政治を求め、1221(承久3)年に京で幕府打倒の兵を挙げたが、危機感を抱いて結束した東国御家人に打ち破られた(承久の乱)。
乱後、幕府は後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流し、京都に六波羅探題を置いて、朝廷の監視と京都内外の警護、西国御家人の指揮に当たらせた。上皇方に付いた貴族・武士らの所領を没収し、その地に新たに地頭(新補地頭)を置き、それ以前からの地頭(本補地頭)と併せて地頭制度が完成し、幕府の全国支配が達成された。
義時の子泰時が執権に就くと、摂関家から迎えられた藤原頼経が将軍に任ぜられた(藤原将軍)。泰時は政治や裁判を執権と有力御家人から構成される評定衆(ひょうじょうしゅう)によって行う体制を築き、執権を補佐する連署(れんしょ)には北条氏一族を当てることで執権政治を完成させた。1232(貞永元)年に御成敗式目(貞永式目)51か条が定められた。
泰時の政策は孫の執権時頼に継承され、裁判の公正と迅速化を図る引付衆(ひきつけしゅう)が置かれたが、同時に北条氏に敵対する勢力は滅ぼされていった。藤原将軍に代わって皇族将軍の崇高親王が迎えられると、北条氏による独裁体制がいっそう強まった。
13世紀後半、モンゴル帝国の皇帝となったチンギス・ハンの孫フビライが大都(北京)に都を置いて元を建国すると、南宋を圧迫し、日本に対しても朝貢を求めてきた。時の執政北条時宗がこれを無視すると、フビライは日本侵攻を決意した(元寇:蒙古来襲)。
1274(文永11)年、元は高麗の軍勢を併せて対馬・壱岐に侵攻し、博多湾に上陸した。元軍の勢いに、日本軍の主力は一時大宰府に退いたが、元軍は海戦に対する不慣れさや内部対立から兵を引き上げた(文永の役)。
1281(弘安4)年にフビライは再度大軍を日本に派遣したが、博多湾一帯に築かれた防御用石塁や大量に動員された武士の抵抗に悩まされ、そこに大暴風雨も重なり、大損害を受けて敗退した(弘安の役)。
幕府はその後、3度めの来襲に備えて異国警護番役を強化するとともに、西国の支配力を強め、九州の政務などを行う鎮西探題(ちんぜいたんだい)を置いた。しかし幕府は御家人たちの活躍に対して十分な褒賞を与えることができなかった。
一方、幕府の政治は御家人の協力を基盤とした執権政治から、北条氏の家督を継ぐ得宗(とくそう)家による専制政治へと移っており、得宗家の家人である御内人(みうちびと)の勢力が強まっていた。時宗の死後、有力な御家人安達泰盛が御内人の代表である内管領(うちかんれい)に滅ぼされると、得宗専制政治は頂点を迎えた。
中小の御家人は分割相続によって次第に領地が細分化され、生活が苦しくなっており、領地の質入れや売買が行われるようになっていた。それに対して、幕府は永任の徳政令や嫡子の単独相続などで対応を図った。
他方、畿内周辺では新興武士が発展してきた流通経済に乗って富を蓄え、有力な農民と争って武力で荘園を荒らしたりしたため、荘園領主や幕府とも対立するようになり、悪党(あくとう)と呼ばれた。
14世紀になると西国では悪党の動きが次第に大きな広がりを見せ始めたが、幕府では得宗専制政治が極度に進んでいた。そのころ朝廷は実権を失い、後嵯峨天皇の後に持明院統と大覚寺統の2つの皇統が対立していた。幕府は朝廷に対し、両統が交互に皇位に就く両統迭立(りょうとうてつりつ)を提唱したが、西国の高い経済力と、寺社や悪党の勢力を背景とし、両統迭立に不満を持つ後醍醐天皇が、天皇中心の政治の復活を目指し、正中の変(しょうちゅうのへん)と元弘の変(げんこうのへん)の二度にわたり討幕計画を起こした。計画はいずれも失敗に終わったが、これをきっかけに畿内周辺の寺社勢力や悪党勢力、北条氏に反発する御家人たちが立ち上がった。
後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよし/もりながしんのう)や河内の武士楠木正成(くすのきまさしげ)らの執拗な抵抗が続く中、幕府は反乱を鎮圧するために名門御家人の足利高氏らを派遣したが、高氏は途中から御家人を率いて幕府に背き、六波羅探題を攻め落とした。
関東の有力御家人新田義貞も周辺の御家人を引き連れて鎌倉に攻め入り、高時以下の北条氏一族を滅ぼし、1333(元弘3)年に鎌倉幕府は滅亡した。足利高氏はその功により、後醍醐天皇の名尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と名を改めた。
【室町時代】
後醍醐天皇は天皇親政の理想のもとに、摂政・関白を廃し、意欲的な新しい政治をめざした(建武の新政)が、中央に記録所と幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)を置き、地方に国司と守護を併せ置いたように、その体制は公武両政治を折衷したものだった。
一方、新政府に参加した御家人は武家政治を望んでいたため、新政府は公武諸勢力のさまざまな要求に対応できず混乱した。
1335(建武2)年、北条高時の子時行が反乱を起こすと(中先代の乱:なかせんだいのらん)、その鎮圧のために鎌倉に向かった足利尊氏は、それを機会に武家政治の再興を図り、新政府に反旗を翻した。
翌年、尊氏は京で持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を立て、建武式目を定めて施政方針を示し、1338(暦応元)年には征夷大将軍に任命されて室町幕府を開いた。
一方、後醍醐天皇は大和南部の吉野に逃れて皇位の正当性を主張したため、この後朝廷は吉野の南朝と京都の北朝に分かれて対立することになった(南北朝時代)。
南北両朝間の対立は、南朝側の北畠親房(きたばたちかふさ)らが東国や九州で抗戦を続けたために長引き、幕府内部では尊氏の執事高師直(こうのもろなお)と弟の直義(ただよし)が対立し、ついに全国的な動乱が引き起こされた(観応の擾乱:かんのうのじょうらん)。
農村の領主となった中小の地頭・御家人や新興武士らは地域的な広い結びつきを強め、荘園侵略を繰り返し、その時時の情勢に応じてさまざまな勢力と結びつき、動乱にいっそうの拍車をかけた。
その中から国ごとに置かれた守護が次第に大きな力を持つようになり、幕府による守護の権限の強化を背景に、地方在住の武士(国人:こくじん)らを家臣として勢力を伸ばした(守護大名)。
1352(文和元)年に半済令(はんぜいれい)が発布され、守護が一国の荘園・公領の年貢を半分を得るようになると、守護はこれを国人に分け与える制度を作り、支配権をいっそう強化した(守護領国制)。尊氏はその傍ら、足利氏一門を諸国の守護に配置し、幕府の体制固めを図った。
尊氏の孫義満は、1392(明徳3)年に南北両朝の合体を実現させ、南北朝の動乱を終息させるとともに、守護大名を抑えて幕府の全国支配を完成させた。室町幕府は諸国における守護の領国支配体制の上に築かれていたため、将軍を補佐し将軍と守護大名の間を調整する管領(かんれい)という役職が最も重視された。管領は足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の3家から選ばれ(三管領)、侍所の長官(所司:しょし)は山名・赤松・一色(いっしき)・京極(きょうごく)の諸家の中から選ばれた(四職:ししき)。
義満は朝廷や寺社への支配を強めて太政大臣となり、京都の行政・裁判権などを朝廷から受け継ぐと、その力と権力によって守護大名の勢力を削ることに努めた。明徳の乱において、六分一衆(ろくぶんのいちしゅう)と呼ばれた山名氏が倒され、応永の乱においては領国6カ国を持つ大内義弘が倒された。
地方機関としては鎌倉に鎌倉府、九州に九州探題などが設置された。鎌倉府は関東8カ国に伊豆・甲斐を加えた10カ国を統轄し、その長官は鎌倉公方と呼ばれ、足利尊氏の子基氏の子孫が世襲し、その補佐役の関東管領(かんとうかんれい)には上杉氏が歴代その職に就いたが、独立性が強く、しばしば幕府と対立・抗争した。
14世紀後半に元が倒れ、明が建国されると九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人らによる海外貿易が盛んになった。彼らの一部は海賊的な行動に走り、倭寇(わこう)と呼ばれ恐れられた。
倭寇の活動を恐れた明は私貿易を禁止し、日本に倭寇の取り締まりを求めてきたため、義満は1401(応永8)年に九州探題に倭寇の制圧を命じ、明との国交を正式に開いた。
日明貿易は私貿易と区別するために合札(あいふだ)の勘合(かんごう)が用いられた(勘合貿易)。
勘合貿易の実権は、やがて幕府から大内氏や細川氏の手に移った。大内氏は博多商人、細川氏は堺商人と結んで激しく争い、ついに1523(大永3)年に寧波(ニンポー)で両者が衝突し(寧波の乱)、大内氏が貿易を独占するようになった。
高麗を倒した李成桂(りせいけい)が建国した李氏朝鮮とは、対馬の宗氏(そうし)を介して国交が開かれ、1510(永正7)年の三浦の乱に至るまで、順調に貿易が続けられた。
15世紀前半に、中山王国の尚氏(しょうし)が南山・中山・北山の3王国を統一して建国した琉球王国は、東アジア諸国間の中継貿易により栄えた。
足利義満の死後、義持が将軍に就くと守護大名の勢力が増し、将軍自らが後継者を決められないほどになった。弟の義教がくじ引きで跡を継ぐと、その直後の1428(正長元)年に京都近郊の農民たちによる正長の土一揆が起こった。
その後義教は将軍権力の強化と守護大名勢力の弱体化を図り、鎌倉府の足利持氏を攻めて自害させた(永享の乱)。義教の圧政は守護大名の反感の買い、1441(嘉吉元)年、播磨の守護大名赤松満祐に殺害された(嘉吉の乱)。その直後にも徳政一揆が起き、幕府はやむなく徳政令を出すことになり(嘉吉の徳政一揆)、幕府の権威は低下した。
義教の死後、幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は将軍義政の後継をめぐる、弟義視(よしみ)と義政の妻日野富子の嫡子義尚(よしひさ)との争いを中心に、諸守護大名の後継問題で抗争を繰り広げた。指導力を失い、権威が失墜した幕府に家督争いの解決は望めず、二大勢力は東西に別れてついに戦闘状態に入った。戦闘は1467(応仁元)年から11年に渡って続き(応仁の乱)、戦場となった京都は荒廃し、幕府・貴族・寺社の没落・衰退が決定的となった。諸国の荘園・公領は在国の守護代や国人に実権を奪われかねず、それを危惧した守護大名が京都から引き上げたことで応仁の乱はようやく終結を迎えた。
1485(文明17)年には南山城の国人が宇治の平等院で集会を開き、同地で抗争を続けていた守護大名畠山氏の政長(まさなが)と義就(よしひろ)の両軍を国外に退去させ、約8年に渡る自治が行われた(山城の国一揆)。諸国にはこうした国一揆や土一揆が頻発し、また主君を実力で倒す家臣が次々と現れ、世は下剋上の風潮を強めていった。
応仁の乱後、諸国には実力によって領域を支配する大名が次々に生まれ、互いに争いを続けた。彼らは戦国大名と呼ばれる。
戦国大名の魁となった北条早雲(伊勢宗瑞:いせそうずい)は、関東で鎌倉公方から分裂した下総の古河公方(こがくぼう)と伊豆の堀越公方(ほりごえくぼう)の抗争に乗じ、まず堀越公方を滅ぼして伊豆を奪うと相模に進出して小田原を本拠地とし、その子孫が関東の大半を支配する基盤を築いた。
16世紀半ばには越後の守護上杉氏の守護代長尾景虎は主家の上杉氏を継いで上杉謙信と名乗り、関東に進出し、甲斐から信濃へと勢力を伸ばしていた武田信玄(晴信)としばしば戦った。
戦国大名のうち、守護大名自身が国人や守護代を抑えて戦国大名に成長したのは東国の武田・今川、九州の大友・島津ら少数に限られており、その多くは国人や守護代から成り上がった者たちだった。戦国大名たちは約100年に渡って戦乱を繰り返すうち、次第に全国統一への道を歩んでいった。
戦国大名の領国は分国(ぶんこく)と呼ばれ、その統治の第一目標は富国強兵であった。大河川の治水・灌漑により平野部の開拓と農業生産の安定・増大が図られ、産業の開発にも力が注がれた。経済の中心として城下町が建設され、道路が整備されて宿駅・伝馬制度が整い、関所も撤廃された。
領内の国人から地侍に至るまで、すべての武士を家臣団に編入する強兵策も採られ、惣村の直接支配と荘園制度の解体が図られた。各分国では独自に分国法(家法)が定められ、家臣団と農民とが厳しく統制された。
戦国の世が始まる頃、1488(長享2)年に加賀では一向宗(浄土真宗)の宗教組織に基づいた一向一揆により守護大名の富樫氏が倒され、農民たちはその後約1世紀に渡り合議に基づく一国支配を行った。やがて一向宗は惣村の形成が進んだ東海・近畿地方にも広がり、近畿地方の坊主・武士は石山本願寺の司令によって一向一揆を起こして大名と争った。
京都では、応仁の乱後に町の復興を担ったのは日蓮宗徒の商人が中心となった町衆(まちしゅう)であった。彼らはいくつかの町の連合である町組をつくり、これを自治組織の単位として町掟を定め、月行事(つきぎょうじ)という指導者を選び、京都を支配する幕府や管領の細川氏に対抗し、周辺から押し寄せてくる土一揆から町を自衛するなどの自治的運営にあたった。
また、伊勢の桑名や安濃津などの港町・宿場町、宇治・山田のような門前町に自治組織を持った都市が各地で誕生した。貿易の要港であった堺は細川氏と、博多は大内氏と手を組んで日明貿易を行い、富み栄えた。堺では会合衆(かいごうしゅう)、博多では年行司(ねんぎょうじ)が中心となり、次第に領主の支配から独立して自治市政を行うようになった。
1543(天文12)年、九州の種子島にポルトガル人を乗せた1隻の中国船が流れ着き、これをきっかけにポルトガル人は毎年のように貿易船を九州の諸港に派遣するようになった。後にはスペイン人も肥前の平戸に来航し、日本との貿易に加わった。貿易は肥前の平戸・長崎、豊後の府内(現、大分市)などで行われ、南蛮貿易と呼ばれた。
種子島に漂着したポルトガル人から、島主の種子島時尭(ときたか)は鉄砲を買い求め、家臣にその製法を学ばせたのが鉄砲伝来の始まりとなった。鉄砲の影響は大きく、戦国大名は争って鉄砲を求め、それまでの騎馬隊を主力とする戦法は、銃を持った歩兵隊を中心とする戦法に切り替わった。
イエズス会創立者の一人であるフランシスコ・ザビエルは、1549(天文18)年に鹿児島に到着し、各地を回って布教の準備をした。その後宣教師が相次いで来日し、熱心に布教を行ったので、キリスト教は西日本を中心に広まり、信者数は数十万人に及んだ。貿易を望む大名は進んでキリスト教を保護し、中には洗礼を受けてキリシタン大名と呼ばれる者もあった。大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の3大名は、宣教師ヴァリニャーニの勧めで、1582(天正10)年に少年使節をローマ教皇のもとに送った(天正遣欧使節)。
【安土桃山時代】
激しい戦国争乱の中で室町幕府の支配力は完全に失われ、戦国大名の中には京にのぼって朝廷や幕府の権威を借りて全国に号令しようとする者が現れた。
尾張の織田信長は1560(永禄3)年、上京を企てて進撃してきた駿河の今川義元の大軍を尾張の桶狭間の戦いで破り、1568(永禄11)年には自ら京にのぼって足利義昭を将軍に立てた。その後、比叡山延暦寺や石山本願寺と戦って寺院勢力を抑え、1573(天正元)年には信長の命令に従わなくなった将軍義昭を京から追放し、ここに室町幕府は滅亡した。
信長は次いで近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、1575(天正3)年、甲斐の武田勝頼を三河の長篠合戦で破った。まもなく信長は交通の要地である近江に安土城を築いて全国統一の拠点とし、城下に多くの商工業者を集め、楽市・楽座の制により商人が自由に営業できるようにすることで領国内の経済力を高めた。
1582(天正10)年、信長は武田氏を滅ぼした後、中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)。
信長が本能寺で倒れたとき、家臣の羽柴秀吉は備中の高松城で毛利氏の軍と対戦していたが、直ちに和を結んで軍を返し、京都の西、山崎の戦いで明智光秀の軍を破った。次いで翌1583(天正11)年には、信長の重臣であった柴田勝家を近江の賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継者の地位を確立した。
同年、秀吉は石山本願寺跡に壮大な大阪城を築き始めた。1585(天正13)年には長宗我部元親を降伏させて四国を平定し、1587(天正15)年には九州の大半を領地としていた島津義久を従えた。また、この間に秀吉は関白・太政大臣となり、朝廷から「豊臣」の姓を与えられた。1590(天正18)年には関東の大部分を領有していた小田原の北条氏を滅ぼし(小田原攻め)、さらに伊達政宗ら東北の諸大名もことごとく服従させて全国統一を成し遂げた。
1588(天正16)年、京都の聚楽第(じゅらくてい)に後陽成天皇を迎え、その機会に諸大名に秀吉への忠誠を誓わせるなど、自らの武力と朝廷の権威を背景に諸大名を圧倒した。秀吉の直轄地(蔵入地:くらいりち)は約200万石余に及び、京都・大阪・堺・伏見・長崎などの重要都市を直轄して財政的基盤を固めた。
秀吉は中央から役人を派遣し、全国に渡ってほぼ同一の基準で耕地や宅地の面積・等級を調べ、それを耕作者とともに検地帳(水帳)に登録した(太閤検地)。これにより秀吉は全国の土地を確実に把握し、大名の配置換えも容易になり、近世封建制の基礎が固まった。
また、1588(天正16)年に刀狩令を出して農民から全ての武器を没収し、1591(天正19)年に身分統制令を出し、武士・農民・町人などの身分や職業を固定する方策を進めた。秀吉の晩年には、側近である石田三成らの五奉行、有力大名の徳川家康を始めとする五大老の制度がようやく軌道に乗りだし、支配組織が安定した。
秀吉はキリスト教の拡大に対して警戒心をいだき、1587(天正15)年の九州出兵の際に博多でバテレン追放令を出し、宣教師の国外追放と布教の禁止を命じた。このとき大名のキリスト教信仰も禁止され、信仰を捨てなかった明石城主の高山右近は領地を没収されたが、一般の武士や庶民の信仰は禁止されなかった。
秀吉は外交面でも積極的で、倭寇を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助した。さらに、明の征服を企て、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導を求めたが、朝鮮がこれに応じなかったため、2度に渡って朝鮮出兵を試みたが、激しい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3)年、秀吉の死により全軍は撤兵した。
三河の小大名だった徳川家康は、今川氏滅亡後に遠江・駿河を併合して次第に勢力を伸ばし、豊臣秀吉の下で五大老のひとりとなった。1590(天正18)年、秀吉を助けて小田原の北条氏を滅ぼした家康は、秀吉から関東の地を与えられて江戸に本拠地を移し、約250万石の大大名となった。
秀吉の死後、後を継いだ秀頼は幼少だったため、家康が次第に政治の実権を握るようになった。そのため、五奉行のひとり石田三成は小西行長らと図って家康を退けるために兵を起こしたが、家康は1600(慶長5)年に美濃の関ヶ原の戦いでこれを破り、三成方についた大名は処刑されたり領地を没収されたりした。
【江戸時代】
1600(慶長5)年、東軍を率いて、豊臣側に立つ石田三成らの西軍を破り、全国の大名の頂点に立った徳川家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。
家康は将軍職をわずか2年で子の秀忠に譲り、自らは大御所(おおごしょ)として政治の実権を握った。しかし、一大名に格下げされながらも、未だに隠然たる権威を持つ豊臣秀頼の存在を危惧した家康は二度に渡って大坂城を攻め(大坂冬の陣・夏の陣)、1615(元和元)年についに豊臣氏を滅ぼした。
江戸幕府の制度は2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代にほぼ整い、対外的には鎖国体制が固まった。この制度は将軍(幕府)と大名(藩)が強力な領主権を持って土地と人民を支配することから幕藩体制と呼ばれる。
将軍は旗本(1万石未満だが将軍に謁見できる、約5000人)、御家人(将軍に謁見を許されない、約1万7000人)という直属の家臣団を抱え、諸大名を遥かに凌ぐ強大な軍事力を持った。財政面でも、幕府領(天領)と呼ばれる将軍の直轄地が400万石に達した他、江戸・京都・大坂・長崎などの重要都市や、佐渡・伊豆・但馬生野(たじまいくの)・石見大森(いわみおおもり)などの金・銀山を直轄にして貨幣の鋳造権を握った。
幕府の職制では、譜代大名が老中・若年寄などの要職に就き、旗本は町奉行・勘定奉行などの役職に就いたが、主な役職には2名以上を任じて月番交代で政務を取らせ、権力の独占を防いだ。
将軍に臣従した1万石以上の領地を持つものを大名と呼び、大名がその家臣や領国を支配する組織および領域を藩と呼んだ。大名には親藩(しんぱん)・普代(ふだい)・外様(とざま)の別があり、親藩は御三家など徳川氏一門の大名、譜代は初めから徳川氏の家臣であったもの、外様は関ヶ原の戦いの前後に徳川氏に臣従した大名である。初期には200人足らずだった大名は、中期以降は260〜270人になり、それぞれ独自の支配を進めていたので、幕府は大名の配置に意を配り、特に外様大名の動きを警戒した。
豊臣氏が滅んだ1615(元和元)年、幕府は大名の居城を1つに限ることを命じ(一国一城令)、武家諸法度を定めて大名の行動を制限し、これに違反する者には改易(領地没収)・減封(領地削減)・転封(国替え)などの厳しい処分が下された。3代将軍家光のときから参勤交代が加えられ、幕府の統率力がいっそう強まった。
将軍は形式上、天皇から任命されるため、幕府は朝廷に対して表向きは敬っていたが、実際には皇室の領地(禁裏御料:きんりごりょう)は極めて少なく、1615(元和元)年には禁中並公家諸法度(きんちゅうならびくげしょはっと)を制定して天皇・公家の行動に規制を加え、さらに京都所司代を置いて皇室を厳しく監視した。
寺社は寺社奉行により統制され、寺院は宗派ごとに本山・末寺の組織を作らせ、寺院法度を定めて規制した。キリスト教禁教策のひとつとして寺請制度を設け、すべての人々をいずれかの寺の檀家とし、変更は許さなかった。
幕藩体制を維持していくためには、いわゆる士農工商と呼ばれる身分の別が立てられ、武士が四民の最上位に置かれ、苗字・帯刀の特権が許された。農民は租税の担当者として重視されたが、そのため生活の規制も厳しく、都市に住む職人や商人は社会的には低い身分にも関わらず、統制は比較的緩やかだった。四民の下には「かわた・ひにん」と呼ばれる賤民身分が置かれた。
家康の外交方針は和平主義であり、1600(慶長5)年にオランダ船リーフデ号が豊後に漂着すると、家康はオランダ人ヤン・ヨースデン、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を江戸に招いて外交・貿易の顧問とした。その後、オランダ人・イギリス人たちに平戸商館の開設と自由な貿易が許された。
スペインに対しては、スペイン領メキシコに京都の商人田中勝介を派遣して通商を求めた。仙台藩主伊達政宗は家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペインに派遣し、メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達しなかった(慶長遣欧使節)。ポルトガル人は中国のマカオを根拠地として中国産の生糸(白糸)を長崎にもたらして巨利を得ていたが、1604(慶長9)年に糸割賦(いとわっぷ)制度により生糸の輸入が統制されたため、糸割賦仲間と呼ばれる特定の商人に利益が集中した。
海外に赴く商人たちには将軍の朱印を押した渡海許可状(朱印状)が与えられ、海賊でないことが証明された(朱印船)。朱印貿易が盛んになると日本人が次々に海外へ進出し、東南アジアの各地に日本町と呼ばれる自治街が作られ、中には山田長政のようにシャムのアユタヤ朝の王室に重用される者も現れた。
1609(慶長14)年には対馬藩主の宗氏が朝鮮と己酉条約(きゆうじょうやく)を結んで国交を回復し、将軍の代替わりには朝鮮から慶賀の使節(通信使)が来日するようになった。同年、薩摩の島津氏が琉球に出兵して支配下に置いたが、名目上は明の朝貢国にしておき、琉球を通じて明・清の産物を輸入した。
家康はキリスト教に対しては禁教政策をいっそう強め、1613(慶長18)年には全国にキリスト教禁止令を出した。そのため、海外貿易も次第に制限されるようになり、イギリスはオランダとの貿易競争に敗れて平戸から引き上げ、スペインとの関係も1624(寛永元)年に断ち切られた。1633(寛永10)年には、日本人の渡海は朱印状の他に老中奉書という別の許可状を受けた奉書船に限られることになった。そして1635(寛永12)年には日本人の海外渡航と国外の日本人の帰国が全面的に禁止され、鎖国政策が強化された。
これに対し、天草・島原地方のキリスト教徒たちは領主の徹底した禁教政策に反抗して立ち上がり、1637(寛永14)年から翌年にかけて、天草四郎時貞を総大将として島原半島の原城跡に立てこもり、幕府側と半年近くも戦ったが、やがて武器や食料が尽きて敗北した。
その後幕府による禁教政策はいっそう苛烈となり、1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を禁止し、キリスト教徒が多かった九州北部では踏絵を行わせ、全国にわたって寺請制度を設けて宗門改めを実施し、キリスト教に対して厳しい監視を続けていった。
この結果、朝鮮・琉球以外ではオランダ船と中国船のみに来航が許され、寄港地も長崎一港に限られた。平戸のオランダ商館は長崎の出島に移された。中国船の来航も制限され、1688(元禄元)年に中国人の居住地も長崎の一区画(唐人屋敷)のみとされた。
1651(慶長4)年に3代将軍家光が亡くなり、11歳の家綱が後を継ぐと、その直後に兵学者の由比正雪(ゆいしょうせつ)が幕府に不満を持つ牢人を集めて幕府転覆を企てる事件が起こった(由比正雪の乱:慶長の変)。その後幕府はそれまでの武力による強圧的な政策を翻し、法令・制度を整えて幕府に服従させる文治政治への転換を図った。
4代将軍家綱には継子がなかったため、館林藩主であった弟の綱吉が5代将軍となった。綱吉の治世は元禄時代と呼ばれ、経済や文化が大いに栄えた。学問を好んだ綱吉は、学問の隆盛に務める一方、生類憐れみの令により禽獣の保護を厳しく励行させたために庶民の反感を買った。
1657(明暦3)年に明暦の大火が起こると、その復旧事業に多額の金銀が費やされ、5代将軍綱吉が盛んに寺社の造営を行ったため、幕府の財政は極めて窮乏した。そこで綱吉は、勘定吟味役(後の勘定奉行)萩原重秀の意見を用いて貨幣の改鋳に踏み切った。金が8割以上も含まれていた慶長小判の質を落とし、金を6割以下に減らした元禄小判が大量に発行され、財政危機は一時的に救われたが、物価の上昇により庶民の激しい不満を呼び起こすことになった。
6代将軍家宣と7代将軍家継父子の時代はわずか7年ほどだったが、その間幕政に参加して将軍を補佐したのは朱子学者の新井白石だった(正徳の治)。白石は貨幣の質を元に戻した小判(正徳金:しょうとくきん)を発行したが、この政策は長続きせず、後には再び悪質の貨幣が鋳造されるようになった。また、彼は江戸城の門構えや将軍・大名の礼服を改め、朝廷との融和を図るために新たに閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設するなどした。白石は長崎貿易も制限し、1715(正徳5)年に海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を出し、中国船とオランダ船の船隻数や貿易額に限度を設けた。
18世紀初め、7代将軍家継が幼年で亡くなると、和歌山藩主の徳川吉宗が後を継いだ。その頃幕府や諸藩は財政難に苦しみ、旗本・御家人・藩士らの窮乏は甚だしくなっていたため、吉宗は幕府の権威を高め、幕政を引き締めるべく改革に乗り出した(享保の改革)。
吉宗は厳しい倹約令を出して贅沢を廃し、積極的な収入増加を図って新田開発を奨励し、殖産興業にも力を入れた。また、大岡忠相(ただすけ)を登用し、公事方御定書(くじがたおさだめがき)を作らせ、これを裁判の基準とした。金銀貸借に関する訴訟は取り上げず、当事者間の話し合いで処理するように指令した(相対済し令)。また、吉宗は評定所の前に目安箱を置いて広く庶民の声を聞く一方、幕領の年貢引き上げも行ったので農民の不満が募り、百姓一揆が次第に増えていった。
吉宗の子家重、次いでその子家治が10代将軍になると、600石の小身から身を起こし、ついに老中にまで上り詰めた田沼意次(おきつぐ)が権勢を振るうようになった(田沼時代)。
意次は幕府の財政を救うため、大商人たちの経済力を利用して積極的な政策を取った。幕府直営の座を設けて銅や鉄の専売を行い、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上・冥加金を徴収し、俵物と呼ばれる海産物を増産して中国に輸出するなどして幕府の増収を図った。しかし意次が新しい計画を立てると、その利権を巡って業者が暗躍し、公然と収賄が行われるなど、モラルの乱れが目立ってきた。
18世紀には様々な災害が起こり、凶作・飢饉がしばしば襲った。1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模一帯の田畑に大被害があった。1732(享保17)年には西日本一帯にウンカが発生して稲作が打撃を受け、1万人をこす餓死者が出た(享保の大飢饉)。このような災害に加え、領主の年貢が重くなり、農民の生活が破壊されてゆくと、百姓一揆が各地で頻発した。
田沼時代の1783(天明3)年には浅間山の大噴火があり、これに伴って東北地方を中心に冷害が続き、多くの餓死者を出した(天明の大飢饉)。各地では百姓一揆が起こり、1787(天明7)年には江戸・大坂などで打ちこわしが起こった(天明の打ちこわし)。このように全国が騒動の渦に巻き込まれているさなかに、田沼意次は在職中の失政の責任を問われて老中を罷免され、領地を没収され失脚した。
1787(天明7)年、8代将軍吉宗の孫に当たる白河藩主松平定信が老中になり、11代将軍家斉の補佐役として幕政改革に乗り出した(寛政の改革)。
定信はまず田沼政治の一掃に取り掛かり、意次が始めた営利事業の大部分を取りやめ、旗本・御家人を救済するために、彼らに対する札差の賃金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)を発布した。農村復興のために、都市に出稼ぎに来ている農民たちを出身地に返すように勧め、都市の浮浪者や無宿者を江戸石川島の人足寄場に収容し、職業訓練を行った。先の飢饉に鑑み、社倉や義倉を各地に設けて米穀の貯蔵を勧め(囲米:かこいまい)、江戸では町費の一部を積み立てて火災や飢饉の際の救助に当てた(七分積金:しちぶつみきん)。
一方定信は言論を厳しく統制し、1790(寛政2)年には朱子学以外の学問を禁じた(寛政異学の禁)。1792(寛政4)年に林子平が「海国兵談」を出版して海防の必要を説くと、定信は彼を処罰したが、その直後にロシアの使節ラクスマンが蝦夷地の根室に来て日本と通商を求める事件が起こったため、定信は自ら相模や伊豆の海岸警備の状況を視察するなどして海防に力を入れるようになった。
現在の北海道・千島・樺太は蝦夷地と呼ばれており、その大部分はアイヌが居住する地域で、わずかに北海道の西南の一部が松前氏の所領となっており、松前氏は幕府からアイヌと交易する権利を認められていた。
田沼時代の頃からロシア船が蝦夷地の近海に現れるようになり、ラクスマン来航の後、1804(文化元)年にレザノフが長崎に来航して日本との通商を求めた。ロシアの接近に驚いた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検を行い、蝦夷地を幕府の直轄地として北方警備を厳重にした。
1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入し、乱暴を働く事件が起こった(フェートン号事件)。その後もイギリス、アメリカの捕鯨船が日本近海に現れるようになったため、幕府は1825(文政8)年、異国船打払令(無二念打払令)を出し、1837(天保8)年に、漂流日本人送還と通商交渉のために江戸湾入口に来航したアメリカの商船モリソン号を撃退する事件が起こった(モリソン号事件)。
松平定信が在職6年でにわかに老中を罷免されると、19世紀初めの文化文政期(化政時代)に11代将軍家斉が自ら政治を執り、天保年間に子の家慶に将軍職を譲った後も政治の実権を握り続けた(大御所時代)。家斉の側近には優れた人物がおらず、政治は腐敗し治安も乱れた。天保年間には凶作が続き、農村でも多くの餓死者が出た(天保の大飢饉)。都市部でも食料が不足し、百姓一揆や打ちこわしが各地で起こるようになった。
畿内でも米が不足していたが、幕府は救済手段を取らないばかりか、上方の米を江戸へ廻送させようとしたため、この処置に憤った大坂町奉行の元与力で著名な陽明学者の大塩平八郎は、1837(天保8)年、豪商を襲って金や米を奪い、貧民に分配しようとして失敗した(大塩の乱)が、この事件はたちまち全国に伝わり、越後柏崎では国学者生田万(よろず)が乱を起こすなど大きな反響を呼んだ。
1841(天保12)年に大御所家斉が死去すると、後を受けた老中水野忠邦(ただくに)は天保の改革を断行して幕府権力の強化に努めた。忠邦は厳しい倹約令を出して贅沢を禁じ、風俗の取締を強化した。娯楽、演劇、出版にまで統制が及び、人々の間に不満が募っていった。忠邦は商工業者の株仲間による価格統制が物価上昇の原因と考え、株仲間を解散させて自由競争を行わせたが、商品流通はかえって悪化した。農村再建のためには人返しの法を出して農民の出稼ぎを禁じた。また、上知令(じょうちれい)を発布して江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府領(天領)にしようとしたが、これには激しい反対が起こり、忠邦は2年余りで失脚した。
この頃、長崎を通じて海外の事情を知り、新しい文化を取り入れだした西南の雄藩はいち早く藩政の改革に乗り出した。
薩摩藩では調所広郷(ずしょひろさと)が中心となって藩の多額の借金を解消し、琉球貿易や砂糖の専売によって財政を立て直し、下級武士の登用、洋式砲術の採用、機械工場の設立などを進めて藩の力を強めた。
長州藩でも村田清風が中心となって負債の整理と財政建て直しを行い、洋式の軍備を取り入れ、下級武士を登用するなどして藩政改革に努めた。その他、佐賀藩・土佐藩などでも才能のある藩士が藩の実権を握り、新しい制度を積極的に取り入れていった。
1853(嘉永6)年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーの率いる4隻の軍艦が江戸湾入口の浦賀沖に姿を現し、横浜に上陸したペリーは開国と通商を求めるアメリカ大統領の国書を幕府側役人に手渡した。強硬な態度で交渉に当たったペリーは、翌年に回答するという幕府の約束を受け入れていったん退去した。
このとき老中主席阿部正弘は慣例を破ってこれを朝廷に報告し、諸大名・幕臣にも意見を求め、国を挙げて難局に対処しようとした。ペリーに続いてロシアの使節プチャーチンも来航し、開国を求めると、これを聞いたペリーは翌1854(安政元)年1月、再び軍艦7隻を率いて来航し、強く開国を迫った。諸大名・幕臣らの反対意見にも関わらず、幕府はアメリカの強硬な開国要求に屈服し、同年3月に日米和親条約(神奈川条約)を締結した。次いで幕府はイギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年以上続いた鎖国体制は終わりを告げた。
1856(安政3)年、アメリカ総領事ハリスが下田に着任した。ハリスは江戸に出て将軍に謁見し、幕府と通商条約の交渉に入ったが、日本国内では攘夷の気運が高まり、幕府は交渉の引き伸ばしを図った。しかし清国がアロー戦争で英仏連合軍に敗れたのを機会に、ハリスは幕府に強く条約調印を迫ると、幕府は老中堀田正睦(まさよし)を京都に派遣し、朝廷に条約調印の勅許を求めた。朝廷の反対にも関わらず、大老に就任した井伊直弼(なおすけ)は自らの判断により、勅許のないまま、1858(安政5)年6月、日米修好通商条約に調印した。1860(万延元)年、幕府は条約批准書交換のために外国奉行新見正興(しんみまさおき)を主席全権としてアメリカに派遣し、勝海舟を艦長とする幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)がこれに随行した。幕府は引き続きオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五カ国条約)。
外国との貿易が進むと、金の銀に対する交換比率の違いから大量の金貨が海外に流出し、輸出による生糸や茶などの国内物資の不足と物価上昇と相まって国内経済は混乱し始めた。
欧米諸国との国力の差を痛感した幕府は西洋の学問や技術、軍備などを積極的に採用するようになったが、勅許を得ずに通商条約を結んだことが国内の対外危機意識を深め、反幕府の気運が急激に高まった。
その頃13代将軍家定は病弱な上に子がなく、後継者の決定を迫られていた(将軍継嗣問題)。薩摩藩主島津斉彬(なりあき)・越前藩主松平慶永(よしなが)らは人望のあった一橋慶喜(よしのぶ:水戸藩主徳川斉昭の子)を後継に推したが、大老井伊直弼は譜代大名らの支持を得て、幼年であった紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を14代将軍(家茂:いえもち)に据え、一橋派の公家・大名・藩士らを厳しく弾圧した(安政の大獄)。このとき長州藩の吉田松陰や福井藩の橋本左内ら多くの有能な人物たちが処刑された。
幕府の強硬姿勢は反対派の憤激を掻き立て、1860(万延元)年、井伊直弼は江戸城への登城中に桜田門の近くで水戸浪士らに襲撃され暗殺された(桜田門外の変)。
専制的な政治に大きな打撃を与えられた幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて力を回復しようと図り、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁するなど、公武合体政策を進めた。しかし、急進的な尊皇攘夷論者たちの非難を浴び、信正は1862(文久2)年水戸浪士に襲われて負傷し、辞職に追い込まれた(坂下門外の変)。
こうした中で薩摩藩の島津久光は朝廷と幕府に働きかけ、公武合体の立場から幕政改革を求めた。これを受けて幕府は一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に任じ、京都に京都守護職を新設して会津藩主松平容保(かたもり)を当てた。
1862(文久2)年には神奈川に近い生麦で薩摩藩士がイギリス人を殺傷し(生麦事件)、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃した(薩英戦争)。急進派の動きに押された幕府が諸藩に攘夷決行を命じると、長州藩が下関の海峡を通る外国船を砲撃した。しかし朝廷内では保守派の公家が会津藩と結び、1863(文久3)年8月、武力を用いて三条実美(さねとみ)ら急進派公家と長州藩の勢力を朝廷から残らず退けた(八月十八日の政変)。長州藩は翌64(文治元)年、池田屋事件をきっかけに京都に攻め上ったが、薩摩・会津両藩は協力してこれを打ち破った(禁門の変、蛤御門の変)。こうして朝敵となった長州藩は、幕府の征討(第1次長州征討)を受けることになった。同じ頃、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊は、長州藩の行なった外国船砲撃の報復として下関に攻撃を加えた(四国連合艦隊下関砲撃事件)ため、窮地に陥った長州藩は四国連合軍に和を請い、また幕府にも恭順の態度を示した。
その後長州藩では高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの下級藩士が中心となって軍事力を強め、藩論を攘夷から討幕へと転換させた。また、薩摩藩では西郷隆盛・大久保利通らの下級藩士が藩政の実権を握り、次第に反幕府の姿勢を強めていった。薩英戦争や四国艦隊の下関砲撃で欧米列強の実力を身をもって知った両藩は、軍事力の充実を目的としてイギリスに接近していった。イギリスの駐日公使パークスは幕府の国内統治能力に疑問をいだいており、対日貿易発展のために、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待をかけるようになっていた。
一方、フランス公使ロッシュは軍事改革の面で幕府を援助しており、幕府は1865(慶応元)年に再び長州征討(第2次)を宣言した。しかし薩摩藩は翌年、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で薩長同盟を結び、幕府の出兵命令に応じなかった。長州藩は、農民・町人をも加えた奇兵隊などの諸隊を動員して、各地で幕府軍を打ち破った。そのさなか、将軍家茂が病死したため、幕府は戦闘を中止した。
1867(慶応3)年、東海地方や京阪地方一帯に伊勢神宮の御札が降ったとの噂が流れ、多くの男女が「ええじゃないか」と唱えて乱舞した。
家茂の死後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍に就いたが、幕府の力はすっかり衰えていた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力を合わせて国内を改革する必要を強く感じていた(公議政体論)。彼らの働きかけにより、前土佐藩主山内信豊(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するように進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867(慶応3)年10月14日、朝廷に大政奉還を申し出た。
しかし同じ頃、薩長両藩の武力倒幕派は岩倉具視(ともみ)ら急進派の公家と手を結んで討幕の密勅を得た。彼らの主導により、同年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、江戸幕府は滅亡した。幕府や摂政・関白などは廃止され、それに代わって総裁・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職が置かれた。
新政府は成立当日の夜の小御所会議で激論の末、徳川慶喜を新政府に加えないこと、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決定したが、旧幕府側はこの措置に反発した。
【明治時代】
1868(明治元)年1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に、京都近くで武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利した新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍を進めた。新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟との交渉により、同年4月、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された。一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが、次々に新政府軍に敗れ、同年9月、激しい戦闘の末、会津藩も降伏した。
翌1869年5月には、旧幕府の海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚(たけあき)らが、五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争と呼ばれる一連の戦いは終わり、国内は新政府のもとに統一された。
新政府は封建支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制を築くことを基本方針とした。
1868(明治元)年3月に五箇条の御誓文が定められ、公議輿論の尊重や開国和親などの政治理念が宣言された。一般庶民に対しては五榜の掲示が掲げられ、政体書が発布されて官制が整えられた(御一新:ごいっしん)。
1869(明治2)年、政府は諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし、藩主はそのまま知藩事(地方官)に任命されて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。そのため木戸孝允・大久保利通らの政府実力者たちは、1871(明治4)年に薩長土3藩から御親兵(ごしんぺい)を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に廃藩置県を断行した。全ての藩知事を罷免して東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県を治めさせることにより全国を政府の直接支配に置いた。同年、解放令が発布され、四民平等政策により身分の別が廃された。
1873(明治6)年、は陸軍卿山県有朋を中心に政府は徴兵令を公布したが、農民の間にはこれに反対する一揆(血税一揆)も起こった。1876(明治9)年には華族・士族に対する家禄支給を停止し、それに代えて金禄公債を支給し、それを年賦で支払うことにし(秩禄処分:ちつろくしょぶん)、これにより大部分の士族が急速に没落していった。
また、政府は田畑永代売買の禁令を解き、地価を定めて地券を発行し、地主・自作農の土地所有権を認め、1873(明治6)年に地租改正条例を公布し、地租を一定率に固定して現金で納付させることにした。
政府は開国和親の方針により諸外国との外交を進め、1871(明治4)年に岩倉具視を大使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣し(岩倉使節団)、不平等条約の改正を目指したが成功しなかった。
朝鮮に対しては、欧米諸国の進出を危惧した政府は開国を強く迫ったが朝鮮はこれに応じなかった。そのため、西郷隆盛・板垣退助らによる征韓論が政府内で有力となったが、1873(明治6)年に欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らはこれに強く反対したため、西郷らは政府を退き野に下った。その後、1875(明治8)年に朝鮮沿岸で測量中の日本軍艦が江華島において砲撃を受け(江華島事件)、これをきっかけに日本は朝鮮に圧力をかけ、翌年日本に有利な日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。
清国に対しては、1871(明治4)年に対等な日清修好条規を結び、1874(明治7)年には琉球島民が台湾で殺害されたことを理由に台湾に出兵し(征台の役)、1879(明治12)年には琉球藩を廃して沖縄県の設置を強行した(琉球処分)。ロシアに対しては、1875(明治8)年に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。
明治政府の近代化のための変革はあまりに急激で、国情を無視した点も少なくなく、また政府の要職は薩摩・長州など雄藩出身の一部の政治家によって占めれていたことなどから、政府に対する不満も急激に高まっていった。
征韓論に敗れて辞職した板垣退助・後藤象二郎らは1874(明治7)年、民選議院設立の建白書を提出し、立憲政治の確立を主張すると、自由民権運動が広がっていった。政府は1875(明治8)年の大阪会議により、漸次立憲政体樹立の詔を出すことでこれに対応したが、一方では新聞紙条例や讒謗律の制定により、反政府的な言論活動を取り締まった。
1874(明治7)年、江藤新平は郷里の佐賀で不平士族の首領となって反乱を起こした(佐賀の乱)が、政府軍により鎮圧された。1876(明治9)年には熊本で敬神党(神風連)の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と一連の不平士族による反乱が続いた。
1877(明治10)年、政府を辞職後、郷里鹿児島で私学校を指導していた西郷隆盛が4万の士族を率いて政府に対する反乱を起こした(西南戦争)。政府は軍を総動員して全力を上げて反乱の鎮圧に当たり、8ヶ月に渡って九州各地で激戦を重ねた後、ようやく勝利を得た。この戦争のさなかに木戸孝允は病没し、西郷は戦死し、翌年には大久保利通が不平士族に暗殺され、明治維新の最高指導者たちが相次いで世を去った。
民選議院設立を建白した後、板垣退助は郷里の高知に立志社を設立し、自由民権の思想を広めた。1879(明治12)年には府県会が開かれ、地方の有力者が議員に選ばれ、各地に民権派の政治結社(政社)が設立された。1880(明治13)年、全国の民権派代表が大坂に集合して愛国社大会を開き、河野広中・片岡健吉を代表として国会期成同盟を結成し、政府に国会開設を請願した。
一方政府は自らの主導による立憲政治の実現に着手したが、イギリスを模範とする議会中心の政党政治を主張する大隈重信と、ドイツ流の君主の権限が強い憲法の制定を主張する岩倉具視ら対立した。その頃政府は開拓使官有物払い下げ事件により世間の非難を浴びていた。
政府は深まる内部の対立を打開するため、ドイツ流の憲法を作る方針を固め、大隈参議を辞職させ、1881(明治14)年に国会開設の勅諭を出して1890(明治23)年に国会を開くことを約束した(明治十四年の政変)。その結果、伊藤博文を始めとする薩長派中心の政権が確立することになった。
この直後、板垣退助を党首とする自由党が結成され、翌1882(明治15)年には大隈重信を党首とする立憲改進党が発足した。この流れの中で、1870年代末から1880年代初めにかけて、民間人や政府関係者らが自らの憲法案を起草し始めた(私擬憲法)。政府は自由民権運動を厳しく取り締まる一方、民権派の活動家を官吏に取り立てるなどして民権運動の切り崩しを図った。民権派内部でも次第に内部対立が目立ち始め、一部の急進派は直接行動に出るようになった。1882(明治15)年に福島県で道路造成事業に反対する農民や自由党員らが検挙された福島事件を始め、加波山事件、秩父事件など東日本各地で自由党員らによる暴発事件が続発した。これらの事件の影響で統制力を失った自由党は解散し、立憲改進党もほとんど活動を停止したため、自由民権運動は一時衰退することになった。その後民権派は政府に対抗する政党を作るために大同団結運動を起こし、1887(明治20)年の条約改正問題を機会に対等条約の実現、地租軽減、言論・集会の自由を求めて政府に迫ったが、政府は保安条例を発して多くの運動家を東京から追放した。
明治十四年の政変を通じてドイツ流の君主権の強い憲法制定を目指した政府は、1882(明治15)年、憲法調査のために伊藤博文らをヨーロッパに派遣した。帰国後、伊藤らは1884(明治17)年に華族令を制定し、貴族院を作るための制度を整えた。次いで1885(明治18)年、これまでの太政官制に代えて内閣制度を制定し、政府の強化と能率化を図り、伊藤が初代内閣総理大臣に就任したが、閣僚の大部分が薩長出身者だったため、反対派からは藩閥政府と非難された。
伊藤は井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らとともに、ドイツ人顧問ロエスレルらの助言を得て、憲法の草案作りに取り掛かり、憲法草案は1888(明治21)年に新設された枢密院(伊藤博文議長)で審議された後、1889(明治22)年2月11日に発布された(大日本帝国憲法)。憲法の発布により、天皇中心の国家体制が確立されるとともに、国民の権利と自由が認められ、国政参加の道が開かれた。憲法に続いて民法・商法などの諸法典も作成された。
民権派が議会開設を目指し、大同団結運動によって政府に対抗する政党勢力(民党)の再建を進めたのに対し、政府は超然主義を唱え、不偏不党の立場で政治を行う方針を打ち出した。1890(明治23)年に最初の衆議院議員総選挙が実施され、第一回帝国議会(第一議会)が開かれると、立憲自由党と立憲改進党を主力とする民党が衆議院の過半数を占めた。彼らは内閣と対立したため、第1次松方正義内閣は衆議院を解散し、激しい選挙干渉により民党を抑えようとしたが、こうした強硬策は成功しなかった。その後、1892(明治25)年に成立した第2次伊藤内閣の時に政局の安定化を求めて政府と自由党が次第に歩み寄り、協力して政治を運用するようになった。
明治政府の大きな目標の1つは、幕末以来の欧米諸国との不平等条約を改正し、関税自主権の確立(税権)回復と領事裁判制度の撤廃(法権回復)を実現することであった。
1878(明治11)年、外務卿(後の外相)寺島宗則によるアメリカとの税権回復交渉が失敗すると、後を継いだ井上馨は欧化政策を取り、交渉に当たったが、その改正案には政府内外から強い反対が起こり、1887(明治20)年に井上は辞職した。国別に改正交渉を進めた大隈重信外相は1889(明治22)年にアメリカ・ドイツ・ロシアとの間に新条約を調印したが、大審院における外国人裁判官の任用を巡って反対が起こり、大隈が黒鍵主義者に襲われて負傷したため、交渉は中断され条約は発効しなかった。青木周蔵外相による交渉は1891(明治24)年に起こったロシア皇太子襲撃事件(大津事件)により挫折した。
その後、東アジアにおけるロシアの勢力拡張を警戒したイギリスが日本との条約改正に応じるようになり、1894(明治27)年、外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉を進めさせ、日英通商航海条約の調印に成功した。1911(明治44)年、外務大臣小村寿太郎は関税自主権の全面回復に成功し、長年の課題であった条約改正をついに実現した。
明治初年、朝鮮を開国させた日本は、朝鮮を属国とみなしていた清国と対立するようになった。1882(明治15)年の壬午軍乱(じんごぐんらん)をきっかけに、朝鮮国内では清国寄りの保守派(事大党)が勢力を強めた。
1884(明治17)年の清仏戦争で清が不利になると、日本と結んで国内改革を進めようとする金玉均らの改革派(独立党)が、日本の支援のもとに漢城(現ソウル)でクーデターを起こしたが、清国軍の出動により失敗した(甲申事変:こうしんじへん)。翌年、日本は伊藤博文を天津(てんしん)に送り、清国全権李鴻章との間に天津条約を結び、日清両国は互いに撤兵し軍事顧問を送らないことなどを定めて武力衝突を回避した。
1894(明治27)年、朝鮮で大規模な農民反乱(甲午農民戦争、東学党の乱)が起こると、清国は朝鮮政府の要請でその鎮圧を理由に出兵した。第2次伊藤内閣はこれに対抗して直ちに朝鮮に軍隊を派遣した。同年7月、ついに日清両軍は衝突し、8月、日本は清国に宣戦布告した(日清戦争)。
政府と政党が協調し、挙国一致で戦争に臨んだ日本に対し、清国は国内での政治的対立が止まずに十分な戦力が発揮できず、戦争は日本の圧倒的勝利のうちに終わり、1895(明治28)年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章との間で日清講和条約(下関条約)が結ばれた。この条約により、清国は日本に対し、①朝鮮の独立、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両(テール)の支払い、④杭州・蘇州・重慶・沙市の開港を認めた。この結果、日本は海外に植民地を持つことになったが、日本の大陸進出を警戒するロシアは、ドイツ・フランスと共に日本に遼東半島の返還を勧告した(三国干渉)。日本政府はこれにやむなく従ったが、国内ではロシアに対する反感が高まった。
日清戦争後、政府と民党は手を握り、第2次伊藤内閣が清国からの巨額の賠償金を基に軍備拡張・産業振興など積極的な戦後経営に乗り出すと、衆議院第一党の自由党は内閣との提携を宣言した。続いて首相となった松方正義は進歩党(立憲改進党の後身)と結んで第2次松方内閣を組閣した。
しかし、1898(明治31)年に第3次伊藤内閣が地租増徴案を議会に提出すると、自由党と進歩党はこれを否決し、同年、両党は合同して憲政党を結成した。伊藤博文は内閣総辞職に際し、山県有朋ら他の元老たちの反対を押し切って、憲政党の最高指導者であった大隈重信と板垣退助に後継内閣の組閣を託した。こうして大隈重信を首相、板垣退助を内相とする日本初の政党内閣(第1次大隈内閣、隈板内閣)が成立した。内閣発足直後の総選挙でも憲政党は衆議院で約8割の議席を占めたが、藩閥勢力の圧迫や憲政党の内部分裂により、4ヶ月ほどで内閣は崩壊した。
大隈内閣の後を受けた第2次山県内閣は、憲政党(旧自由党系)の協力により地租増徴を実現させ、選挙権を拡張したが、一方で軍部大臣現役武官制を定めるなど、政党の影響力拡大を抑えようとした。
1900(明治33)年、政党結成に意欲を示しだした伊藤博文が自ら総裁となって憲政党を中心に結成した立憲政友会を基礎して、第4次伊藤内閣を組閣した。立憲政友会は西園寺公望(さいおんじきんもち)・星亨(ほしとおる)・原敬(はらたかし)らを幹部とし、その後長く衆議院第一党の地位を占めて日本の代表的政党に発展した。
日清戦争により、「眠れる獅子」と恐れられていた清国が日本に敗れてその弱体ぶりを明らかにすると、欧米列強はこぞって清国に進出し始めた。清国内では列強の侵略に対して内政改革や外国人排斥の動きが起こった。
1900(明治33)年、「扶清滅洋」を唱える義和団を中心とした外国人排斥の暴動が激化し、清国政府もそれに同調した。列強は暴動鎮圧のために共同で清国北部に出兵し、日本もその一員に加わった(義和団事変、北清事変)。翌年、清国政府は列強との間に北京議定書を調印し、巨額の賠償金支払いと列強の軍隊駐留を認めた。
ロシアはこれをきっかけに大軍を派遣して満州を占領し、事変終了後も撤兵せずに朝鮮半島にも影響を強めてきた。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改めたが、国内では親日派と親ロ派が対立して政争が続いていた。日本国内ではロシアと協調して事態を収めるか、イギリスと結んでロシアと対抗するか、意見が分かれたが、第1次桂太郎内閣は、1902(明治35)年に日英同盟協約を結び、立憲政友会の協力を得てロシアに対抗すべく軍備拡張を進めた。民間においてもロシアへの反感が高まり、多くの有力新聞が対露主戦論を叫んで政府の対露姿勢を弱腰だと糾弾した。日本政府はロシアに対し、満州を日本の利益範囲外とする代わりに、朝鮮に対する日本の軍事的・政治的支配権を認めさせようとしたが、交渉は成立しなかった。
ロシアとの交渉に行き詰まった日本は、1902(明治37)年に開戦に踏み切った(日露戦争)。日本は日英同盟協約を後ろ盾とし、巨額の戦費を賄うためにイギリス・アメリカなどで外債を募集し、国家予算の数年分に相当する約17億円を調達して総力を上げてロシアと戦った。一方ロシアは皇帝の専制政治に対する反対運動の高まりで国内が分裂しており、十分な戦力を発揮することができなかった。
0905(明治38)年1月、日本陸軍は激戦の末、ロシアの海軍基地旅順(りょじゅん)を占領し、3月奉天の戦いで勝利を収めた。同年5月、ヨーロッパから回遊してきたロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が日本海海戦で打ち破るなど、戦局は日本に有利に展開した。しかし、経済的にも軍事的にも戦争継続が困難と判断した日本政府は、日本海海戦勝利の直後、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトに和平の仲介を依頼した。
こうしてアメリカのポーツマスにおいて、日本全権小村寿太郎外相、ロシア全権ヴィッテらが出席して講和会議が始まり、1905(明治38)年9月、日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれた。ロシアは日本に、①韓国における日本の支配権の全面的承認、②旅順・大連の租借権および長春・旅順間の鉄道権益の譲渡、③南樺太の割譲、④沿海州の漁業権などを約束したが、賠償金の支払いは拒絶した。
講和条約の内容は国民の間に不満を呼び、多くの新聞が政府を攻撃して講和条約廃棄・戦争継続を主張して国民を煽り、多数の群衆が政府高官邸・交番・警察署・講和支持派の新聞社などを襲撃する事件が起こった(日比谷焼打事件)。政府は戒厳令を発布し、軍隊を出動して暴動を鎮圧した。
アジア人の新興国家が白人の大国を打ち破った日露戦争は世界に大きな衝撃を与えた。それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響を及ぼしたが、一方で日本は列強の植民地政策を真似て、東アジアにおける勢力拡大に腐心するようになった。日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約を結んだ日本は、韓国を保護国として統監を置き、韓国の外交・内政・軍事の実権を次々と手に入れた。韓国では、韓国軍の解散に反対する義兵運動を展開するなど、激しく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動してこれを鎮圧した。
1909(明治42)年、前韓国統監伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家に暗殺されると、日本政府は1910(明治43)年に韓国併合を行い(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府を置いて植民地支配を始めた。また、1906(明治39)年には旅順に関東都督府を置くとともに、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立し、南満州の経営を進めていった。
その頃、満州の鉄道権益や、10万人に及ぶ日本人移民に対する白人の警戒心などから、それまで協調的関係を保ってきたアメリカとの間に対立が芽生え始め、日露戦争後にはカリフォルニア州などで日本人移民排斥運動が高まった。
【大正時代】
20世紀初頭のヨーロッパではドイツが積極的な世界政策を進め、ロシア・フランス・イギリスの三国協商側と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟側との対立が顕になってきた。
1914年6月、ボスニアのサラエボでセルビア人によるオーストリア皇太子暗殺事件が起こると、同年7月、オーストリアがセルビアに宣戦し、8月にはロシア・フランス・イギリスがセルビア側に、ドイツがオーストリア側に立って参戦し、第一次世界大戦が勃発した。
日本は日英同盟を理由に1914(大正3)年8月、ドイツに宣戦し、山東半島のドイツの軍事基地青島(チンタオ)やドイツ領南洋諸島の一部を占領した。
これに先立つ1911年、中国では辛亥革命が起こり、翌年には南京を中心に孫文(そんぶん)を臨時大統領とする中華民国が成立し、清王朝は滅亡した。しかし国内にはなお旧勢力が各地に分立し、軍閥の実力者袁世凱(えんせいがい)が孫文を退けて大統領となり、北京に政権を樹立した。
第2次大隈内閣はこの混乱に乗じ、1915(大正4)年、中国の袁世凱政府に中国における日本の権益を大幅に拡大する内容の二十一カ条の要求を提出し、最後通牒を発してその大部分を承認させると、中国国内ではこれに反発して排日気運が高まった。
その後日本は、寺内正毅内閣のとき、袁世凱の後を継いだ北方軍閥の段祺瑞(だんきずい)政権に莫大な借款を与えて日本の影響力を強めようとした(西原借款)。1917(大正6)年にはアメリカとの間に石井・ランシング協定を結び、中国の領土保全・門戸開放と中国における日本の特殊権益の承認とを確認し合った。
連合国の一員だったロシアでは、1917年3月、ロシア革命が起こって帝政は倒れた。同年11月にはレーニンの指導により、世界初の社会主義政権(ソビエト政権)が誕生し、翌年ドイツ・オーストリアと単独講和を結んだ。これに衝撃を受けた連合国は、1918年、シベリアに取り残された連合国側のチェコスロバキア軍救援を理由に、シベリアに出兵した。アメリカから共同出兵を要請され、日本も大軍をシベリア・沿海州・北満州に送り、革命を阻止しようとした。しかし日本は連合国の撤兵後も駐留を続けて内外の避難を浴び、1922(大正11)年にほとんど成果を上げることなく撤兵を余儀なくされた。
日露戦争後、藩閥・官僚勢力を後ろ盾とした長州出身の陸軍大将桂太郎と、衆議院第一党の立憲政友会総裁の西園寺公望とが交互に政権を担当し、政局は安定していた(桂園時代)。しかし1912(大正元)年、第2次西園寺内閣が財政事情の悪化から陸軍の要求する2個師団増設を承認しなかったため、陸軍の抵抗を受けて総辞職すると、代わって第3次桂内閣が成立した。これを藩閥勢力や陸軍の横暴とみなした立憲国民党の犬養毅、立憲政友会の尾崎行雄らは「閥族打破・憲政擁護」を唱えて倒閣運動を起こした(第一次護憲運動)。これに対し、桂は自ら政党(後の立憲同志会)を組織して議会の反対を抑えようとしたが成功せず、総辞職に追い込まれた(大正政変)。
次いで薩摩出身の山本権兵衛が立憲政友会を与党として組閣し、軍部大臣現役武官制を撤廃するなどの改革を行ったが、海軍の高官たちによる収賄事件であるジーメンス事件が原因となって1914(大正3)年に退陣し、大隈重信が立憲同志会の支持を受け、第2次大隈内閣を成立させた。
第一次世界大戦が起こると、連合国側はこの大戦を民主主義と専制主義との戦いと意義付けたが、これが世界的に民主主義的風潮を呼び起こし、日本にも大きな影響を与えた。東京帝国大学教授の吉野作造が民本主義を唱え、民衆の利益と幸福を目的とした民意による政治運営を説き、広く言論界の支持を集めると、元老・藩閥・軍部などによる特権的勢力に対する世論の反発が強まり、大正デモクラシーの気運が国内にみなぎってきた。
第一次世界大戦が長期化すると、ヨーロッパ諸国の東アジア市場への輸出が減少し、代わって綿糸・綿織物などの日本商品が市場を独占した。また、世界的な船舶需要の激増により造船・海運業が飛躍的に発展し、化学工業や電力事業もめざましく発展した。その一方で国内ではインフレ傾向が続き、1918(大正7)年になると米価が急上昇した。同年夏、富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止するための運動を起こすと、それが全国にたちまち波及し、各地で大規模な米騒動が起こるようになった。寺内正毅内閣は軍隊を出動して騒動を鎮圧したため、世論の非難を浴びて退陣した。
寺内内閣が総辞職すると、1918(大正7)年、衆議院第一党の立憲政友会総裁の原敬が元老の推薦で総理大臣となり、陸軍・海軍・外務大臣を除く全閣僚を立憲政友会党員から選んで本格的な政党内閣を組織した(平民宰相)。原内閣は1919(大正8)年に選挙法を改正して選挙権を拡大したが、小選挙区制のもとで絶対多数の議席を確保した立憲政友会の強力な政治運営は多数党の横暴と世間からみなされ、原は1921(大正10)年に暗殺された。
翌1920(大正9)年には、大戦中の好景気から一転して深刻な不況に見舞われ(戦後恐慌)、次いで1923(大正12)年の関東大震災が起こり日本経済は大打撃を受けた。大震災では東京・横浜の下町がほとんど壊滅し、死者・行方不明者は10万人以上、被災者は340万人以上に達した。被災地域には戒厳令が敷かれたが、大混乱のさなかに「朝鮮人暴動」の流言が広まり、住民の自警団などにより多数の朝鮮人が虐殺された。
大正時代には労働運動・社会運動が活気を取り戻した。1912(大正元)年に労使協調的な労働者組織として鈴木文治を中心に発足した友愛会は大戦後に拡大・急進化し、1921(大正10)年に日本労働総同盟と改称して労働争議や労働組合の組織化を指導した。1920(大正9)年には日本初のメーデーが行われ、1922(大正11)年には日本農民組合が結成された。
女性運動の面では、1911(明治44)年に平塚明(はる:らいてう)らが青踏社を結成し、雑誌「青鞜」を創刊して女性解放を主張したのを皮切りに、1920(大正9)年には平塚明・市川房枝を中心に新婦人協会が発足し、婦人参政権獲得運動が始まった。被差別部落の人々による部落解放運動も盛んになり、1922(大正11)年にはその全国組織である全国水平社が創立され、その後1955(昭和30)年の部落解放同盟に発展した。
1920(大正9)年には各派の社会主義者たちが集まって社会主義同盟が発足した。大杉栄らの無政府主義(アナーキズム)と共産主義とが対立したが、1922(大正11)年には密かに結成された日本共産党が、革命を目指す非合法活動を開始した。また、国家主義的立場から国家の改造を図ろうとする運動も現れ、北一輝・大川周明らは急進的国家主義者や青年将校に大きな影響を与えた。
1918年11月に第一次世界大戦がドイツ側の敗北に終わると、アメリカ大統領ウィルソンの提案した十四ヵか条の平和原則を基に、翌1919年、フランスのパリで連合国とドイツとの平和会議が開かれ、日本も西園寺公望らを全権として派遣した。この会議で民族自決の原則により東欧諸国などの独立が認められたため、朝鮮でも同年、民族独立を求める運き(三・一独立運動)が高まったが、日本は軍隊を出動させてこれを鎮圧した。
パリ平和会議の結果、日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承、国際連盟の委任による赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の統治が認められたが、中国ではこれに反発して、大規模な反日民族運動(五・四運動)が展開された。
1919(大正8)年、パリ平和会議で調印されたヴェルサイユ条約により、ヨーロッパではヴェルサイユ体制と呼ばれる新たな国際秩序が成立し、1920年には世界初の常設的国際平和機構として国際連盟が発足し(アメリカは不参加)、日本は常任理事国に選ばれた。
第一次世界大戦後、国際政治の主導権を握ったアメリカは1921(大正10)年に各国に呼びかけてワシントン会議を開き、日本は海軍大臣加藤友三郎・駐米大使幣原喜重郎らを全権として派遣した。この会議ではまず、日本・アメリカ・イギリス・フランスが太平洋の島々の安全保障を取り決めた四カ国条約を結び、日英同盟協約は廃棄となった。翌年、この4ヵ国にイタリアを加えた5ヵ国間にワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の一定期間建造中止や国別の保有比率などが定められた。また、この5ヶ国に中国など4ヶ国を加えて九ヵ国条約が結ばれ、中国の主権・独立・領土保全の尊重、中国に対する機会均等・門戸開放の原則が取り決められた。そして国際協調の方針に沿い、日本は中国に山東半島の権益を返還することになった(ワシントン体制)。
1920年代には世界的にも国内的にも国際協調の機運が高まり、日本は国際連盟の有力国として国際協調に努め、1924(大正13)年に加藤高明内閣の外務大臣に就任した幣原喜重郎を中心に、特にアメリカとの協調関係の維持に力を注いだ(幣原外交)。1925(大正14)年には日ソ基本条約を結び、革命以来初めてソ連との国交を樹立した。
原内閣の後を継いだ立憲政友会の高橋是清内閣が、党内の対立により半年余りで退陣すると、その後3代にわたって非政党内閣が続いた。
1924(大正13)年、貴族院勢力を基礎に清浦奎吾内閣が成立すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派はこれを激しく攻撃し、第二次護憲運動を展開したため、清浦内閣は衆議院解散により対抗したが、同年の総選挙で護憲三派が衆議院の絶対多数を占めたため、ついに退陣を余儀なくされた。選挙で第一党となった憲政会の総裁加藤高明は護憲三派の連立内閣を組閣した。
1925(大正14)年、加藤内閣のもとで衆議院議員選挙法が改正され、いわゆる普通選挙法が成立し、25歳以上の男性は納税額に関係なく選挙権を与えられたが、女性の参政権はまだ認められなかった。一方では同じ議会で治安維持法が成立した。
加藤内閣以後、1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊するまで政党内閣が続き、立憲政友会と憲政会(後の立憲民政党)の二大政党が交代で政権を担当し、政党政治が「憲政の常道」とみなされるようになった。
【昭和時代(前)】
1920年代には中国情勢に大きな変化が起こり、1924年、孫文が国共合作の方針を打ち出した。その後を継いだ中国国民党の蒋介石(しょうかいせき)が広東(現、広州)を勢力基盤として1926年から全国統一をめざし、国民革命軍を率いて北伐を開始し、翌年にはその勢力は長江流域に及んだ。その頃日本では、憲政会の若槻礼次郎内閣(幣原外相)により対中国不干渉政策が取られていたが、軍部・野党・国家主義団体・実業家などから「軟弱外交」と非難されるようになった。
国内では1920年代を通じて不況が続き、1927(昭和2)年には関東大震災の際に決済不能となった震災手形の処置をめぐる多くの銀行の不良貸付が表面化し、取り付け騒ぎが起こって銀行の休業が続出した(金融恐慌)。このとき台湾銀行は、第一次世界大戦中に急成長したが戦後恐慌の影響で倒産寸前になっていた鈴木商店に対する多額の不良債権を抱えており、若槻内閣はこれを救済するために緊急勅令を出そうとし、枢密院で否決されたために総辞職に追い込まれた。これに代わって成立した田中義一内閣(立憲政友会)は3週間の支払猶予令(モラトリアム)と日本銀行からの非常貸出によって金融恐慌を鎮めた。
この時代に産業界では企業の独占・集中が進み、三井・三菱・安田・住友の四大財閥が大きな力を握るようになった。特に銀行の産業界支配が強まり、いわゆる金融資本が形成された。大銀行を中核とした大財閥は多くの産業部門を傘下に収めて多角的経営を行うコンツェルンを形成して経済界を支配するとともに、政党との結びつきを強めて政治への発言力を増していった。
1927年、中国で反共クーデターを強行した蒋介石が南京に国民政府を樹立し、北伐を再開すると、日本の権益が侵害されることを恐れた田中内閣は日本人居留民保護を名目に、1927〜28(昭和2〜3)年、3回にわたる山東出兵を行い、北伐阻止を図るとともに、満州の実力者張作霖(ちょうさくりん)を利用して日本の権益の維持・拡大に努めた。
この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)の中には、張に代わって日本の傀儡となる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。しかし張作霖の子張学良(ちょうがくりょう)は国民政府の傘下に入り、満州での日本の権益拡大は困難となった。
一方、田中内閣は欧米諸国とは協調路線を貫き、1928(昭和3)年には不戦条約を結んで国際紛争の平和的解決の方針を明らかにした。同年に行われた普通選挙による最初の総選挙では、相次いで結成された無産政党が衆議院で8議席を得た。この選挙で共産党の動きが活発化したため、田中内閣は選挙直後、治安維持法を発動して多くの共産党関係者を検挙した(三・一五事件)。
田中内閣が張作霖爆殺事件の処理に失敗して退陣すると、1929(昭和4)年に浜口雄幸内閣(立憲民政党)が誕生した。浜口内閣は井上準之助蔵相のもとで、緊縮財政と産業合理化によって物価引き下げと国際競争力の強化を図り、1930(昭和5)年1月には金輸出解禁を実施した。しかし前年(1929年)にアメリカで始まった恐慌が世界に広がり(世界恐慌)、輸出は振るわず、外国から安い商品が流入して大量に金が海外に流出する結果となり、経済は混乱した(昭和恐慌)。1931(昭和6)年、政府は不況に対して重要産業統制法を制定し、カルテルの結成を助長したが、これが1930年代後半における統制経済の先駆けとなった。
1930(昭和5)年、イギリスの提唱によりロンドン海軍軍縮会議が開かれると、浜口内閣は元首相若槻礼次郎らを全権として送り、ロンドン海軍軍縮条約に調印して、日・米・英3国間で海軍の補助艦保有量の制限を取り決めた。これに強い不満をいだいた海軍は、「統帥権の干犯」として内閣を攻撃し、国家主義団体や野党の立憲政友会もこれに同調し、同年、浜口首相は右翼青年に狙撃され、それがもとで亡くなった。
1930年代に入り、中国の反日民族運動の高まりから満州における日本の権益に対する危機感がつのると、陸軍の間には軍事力によって事態を打開しようとする気運が高まった。
1931(昭和6)年9月18日、関東軍は奉天近郊の南満州鉄道の線路を自ら爆破し(柳条湖事件)、戦争のきっかけを作って奉天付近の中国軍への攻撃を開始した(満州事変)。第2次若槻内閣は「事変の不拡大」を内外に声明したが、関東軍はこれを無視して軍事行動を拡大した。かねてより「満蒙の危機」を強く国民に訴えていた多くの有力新聞は、満州事変後直ちに日本軍の行動を讃え始め、軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論を作り出した。若槻内閣は軍部を抑えることができず、1931(昭和6)年12月に内閣総辞職に追い込まれた。
半年ほどで満州の主要地域を占領した日本軍は、1932(昭和7)年3月、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政(後に皇帝)に据え、満州国の建国を宣言させた。日本のこの行動は不戦条約および九ヵ国条約に違反するものとして国際的な非難を浴びた。
1931(昭和6)年に起こった三月事件・十月事件では、軍部の急進派が政党内閣を倒し、軍事政権を樹立しようと計画したが、未遂に終わった。1932(昭和7)年2〜3月には、前蔵相井上準之助・三井合名会社理事長団琢磨(だんたくま)らが国家主義団体の構成員により暗殺された(血盟団事件)。次いで5月、海軍青年将校を中心とする一団が首相官邸などを襲い、犬養毅首相を射殺した(五・一五事件)。その結果犬養内閣は倒れ、政党内閣の時代が終焉した。
犬養の後を継いだのは、穏健派とみられていた海軍大将の斎藤実(まこと)で、斉藤は軍部・官僚・政党・貴族院などの各勢力から閣僚を選び、いわゆる挙国一致内閣を組閣した。
中国政府は満州事変を日本の武力侵攻であるとして国際連盟に訴え、1932(昭和7)年に国際連盟はリットン調査団を派遣して実情を調査させた。同年10月、斉藤内閣が日満議定書を結んで満州国を正式に承認した直後、リットン報告書が公表され、それに基づいて1933(昭和8)年2月、国際連盟臨時総会が満州を占領している日本軍の撤退などを求める勧告案を圧倒的多数で可決すると、同年3月、日本はついに国際連盟脱退を通告し(1935年発効)、世界から孤立化する道を歩みだした。
満州事変以後、国家主義の影響が深まると、共産主義や自由主義の学問や思想に対する取り締まりが強化された。1933(昭和8)年、京都帝国大学教授の滝川幸辰(ゆきとき)はその自由主義的刑法学説のために休職処分となり(滝川事件)、1935(昭和10)年には美濃部達吉のいわゆる天皇機関説が国体に反するとして激しく攻撃された(天皇機関説問題)。時の岡田啓介内閣は公式に天皇機関説を否定して国体明徴声明を出し、美濃部は著書を発禁処分とされ、貴族院議員辞任に追い込まれた。
この頃陸軍内部では皇道派と統制派の派閥対立から緊張が高まっていたが、1936(昭和11)年2月26日、皇道派系の急進的な陸軍青年将校が千数百名の兵士を率いて反乱を起こし、内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清ら要人を殺害し、首相官邸・警視庁などを占拠した(二・二六事件)。戒厳令が出され、反乱は間もなく鎮圧されたが、陸軍当局はその指導者を処刑し、陸軍内部の統制を確立するとともに、事件後の広田弘毅内閣に圧力をかけ、軍部大臣現役武官制を復活させるなど、政治の主導権を握り始めた。
1930年代にはドイツでヒトラー率いるナチス党が独裁政権を確立し、イタリアではムッソリーニが指導するファシスト党が政権を獲得していた。国際的孤立化を深めていた日本はこれらの国々に接近し、1936(昭和11)年、国際的な共産主義活動への対抗を旗印に日独防共協定が成立し、翌年にはイタリアがこれに参加し(日独伊三国防共協定)、枢軸陣営が形成された。
日本は次第に中国北部にも勢力を伸ばし、この地方の軍閥に力を貸して、国民政府の影響から切り離そうとしていた。中国では国民政府と共産党の内戦が続いていたが、1936年に張学良が蒋介石を監禁して抗日への転換を迫った西安事件をきっかけに、内戦を停止して日本に抵抗する気運が高まってきた。
1937年(昭和12)年7月7〜8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突が起こった(盧溝橋事件)。続いて上海でも日中両軍が衝突し、戦火は中国中部にも広がった。日本が次々と大軍を送って戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗したため、事変は宣戦布告のないままに、本格的な日中戦争に発展した。
同年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。その際、日本軍は非戦闘員を含む多数の中国人を虐殺して国際的に大きな非難を受けた(南京事件)。
1938(昭和13)年1月、第1次近衛文麿内閣は、参謀本部の反対にも関わらず、今後は「国民政府を対手(あいて)とせず」という声明(近衛声明)を出し、自ら和平の機会を断ち切った。また、近衛内閣は戦争の目的が「新東亜秩序」の建設にあることを声明し、国民政府の有力者の一人である汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から脱出させ、1940(昭和15)年に南京に新政府を作らせた。しかし重慶を首都にした国民政府は共産党と協力し、米・英・ソなどの援助を受けて粘り強く抗戦を続けた。アメリカは1939(昭和14)年7月に日米通商航海条約の破棄を通告し(1940年1月失効)、対日経済制裁を強めた。
政府は長期化する戦争に対し、国力の全てを傾注すべく国民精神総動員運動を始めるとともに、1938年(昭和13)年には国家総動員法を制定し、議会の承認なしに物資や労働力を戦争遂行のために全面的に動員できるようになった。
軍事費は年々増大し、1938(昭和13)年には一般会計歳出の約4分の3を占めるに至った。1939(昭和14)年には国民徴用令が公布され、民間人が軍需産業の労働力として動員された。また、職場で労働者と経営者が一体となって戦争に協力するための産業報国会が結成され、1940(昭和15)年には大日本産業報国会に統合され、労働組合は解散させられた。民需品の生産や輸入は厳しく制限され、1940〜41(昭和15〜16)年には生活必需品が次々と切符制・配給制となり、農家には米の供出制度が実施された。
1938年にはヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢力拡張がますます盛んになり、オーストリアを併合し、チェコスロバキアの一部も自国領とした。1939年8月、ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶと、当時ソ満国境で張鼓峰事件(1938年)、満州・外蒙古の国境でノモンハン事件(1939年)と、ソ連と軍事衝突を起こしていた日本はこれに大きな衝撃を受け、平山騏一郎内閣は方向を見失って退陣した。
ソ連との不可侵条約の秘密付属協定で東欧の勢力分割を取り決めたドイツは、1939年9月1日、ポーランド侵攻を開始した。これに対し、ポーランドと同盟を結んでいた英・仏は、9月3日、ドイツに宣戦布告し、ヨーロッパを戦場とする第二次世界大戦が始まった。一方ソ連は、ドイツとの秘密協定により、ポーランドの東半分、バルト3国などを侵攻し、支配下に置いた。
第二次世界大戦が始まると、阿部信行内閣は「対戦不介入」を宣言し、続く米内光政(よないみつまさ)内閣もこの方針を受け継いだ。しかし1940年5月から6月にかけて、ヨーロッパでドイツが大勝利を収めると、日本国内では陸軍を始め多方面から、この好機にドイツとの提携を強化しようとする気運がにわかに高まった。そしてその力を後ろ盾に、東南アジアを日本の勢力圏に取り入れ、石油・ゴムなど重要物資獲得のために米・英との衝突を覚悟しても、さらに南方に進出すべしとの声が強くなった。
国内ではナチス・ドイツに習い、近衛文麿を擁立して強い政治指導力を持つ全体主義的な一国一党組織を作ろうとする新体制運動が盛んになった。1940(昭和15)年7月、対独提携と南進政策に消極的だった米内内閣が陸軍の圧力で倒れると、第2次近衛内閣が成立した。同年10月には近衛を総裁とする大政翼賛会が発足し、諸政党は解散して議会は無力となった。
学校教育の面でも、1941(昭和16)年から小学校が国民学校に改められ、軍国主義教育が採られるようになった。
近衛内閣は外相松岡洋右を中心にドイツ・イタリアとの交渉を進め、1940(昭和15)年9月、日独伊三国同盟条約を締結した。これと前後して、米英など連合国側の中国援助ルート(援蒋ルート)を断ち、東南アジアに勢力圏を確立すべく、日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ北部)に進駐し、日本の南進政策が開始された。さらに近衛内閣はソ連との国交調整を図り、1941(昭和16)年4月、日ソ中立条約を締結した。
日米関係は悪化の一途をたどったが、1941(昭和16)年4月からワシントンで日米交渉が始まり、戦争回避の努力も続けられた。
1941年6月、独ソ戦争が始まると、日本はソ連との戦争に備えて関東軍特種演習の名目でソ連との国境近くの北満州に大軍を動員するとともに、同年7月、南部仏印(フランス領インドシナ南部)進駐を始めた。アメリカはこれに対抗して在米日本資産の凍結、対日石油輸出の禁止を断行し、イギリス・中国・オランダと協力して日本に対する経済封鎖を強めた(ABCD包囲陣)。日本国内では陸軍が対米開戦論を主張し、慎重だった海軍も次第にこれに同調するようになった。
1941(昭和16)年10月、日米交渉の行き詰まりにより第3次近衛内閣が退陣すると、代わって陸軍の実力者東条英機(とうじょうひでき)が内閣を組織した。同年11月、アメリカは日本に対しきわめて強硬な内容のハル・ノートを提示し、日米開戦は不可避となった。
同年12月8日、日本海軍はアメリカの海軍基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍はイギリス領マレー半島に上陸し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告した(太平洋戦争)。続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦し、第二次世界大戦は全世界に広がった。
開戦後半年ほどで、日本は香港・マレー半島・シンガポール・フィリピン・オランダ領インド(現、インドネシア)・ビルマ(現、ミャンマー)など、東南アジアのほぼ全域を占領した。日本は、欧米の植民地支配からアジアを解放し、「大東亜共栄圏」を作るという戦争目的を掲げ、旧植民地支配者に対する民族運動を奨励した。1943(昭和18)年には、占領地域の代表者を東京に集めて大東亜会議を開くなど、戦争への協力を求めたが、占領地域では次第に反日気運が高まっていった。
日本国内では戦争初期の大勝利が呼び起こした熱狂的興奮の中で、政府・軍部に対する国民の支持が高まると、東条内閣はこの機会を捉え、1942(昭和17)年4月、衆議院議員総選挙を実施した。これは政府系の団体が定員だけの候補者を推薦する翼賛選挙で、自由立候補も認められたが、選挙の結果当選者の8割以上が推薦候補だった。当選者は翼賛政治会に組織され、戦争遂行のための国内体制がいっそう強化された。
厳しい言論統制のもとでジャーナリズムも全て戦時色に塗りつぶされ、国民は生活必需物資の欠乏に悩まされながら、挙国一致で戦争遂行に協力させられた(「欲しがりません勝つまでは」)。
日本の真珠湾奇襲攻撃はアメリカの国論を沸騰させ、アメリカは挙国一致で日本との戦争に突入した。西海岸諸州に住む10万人以上の日系アメリカ人は強制収容所に収容され、市民権を持つ日系二世の中には合衆国に対する忠誠の証として、志願して米軍兵士となるものもあった。
1942(昭和17)年6月にミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、急速に戦争は日本側に不利となった。翌年にはアメリカを中心とする連合国側の本格的な反攻が始まり、ガダルカナル島の敗退を始め、各地で日本軍の後退が続き、1944(昭和19)年7月には南洋諸島中の重要軍地基地サイパン島が陥落した。これを機会に、国内では東条内閣が総辞職に追い込まれたが、これに代わった小磯国昭(こいそくにあき)内閣のもとで戦争はなお継続された。
国内では労働力不足が深刻となり、学徒勤労動員や徴用により中学生以上の男女学生・生徒や中高年者までもが軍需工場に駆り出された。朝鮮人や中国人も強制的に日本に連行され、厳しい労働に従事させられた。朝鮮・台湾にも徴兵令が敷かれ、現地の人々も徴兵されて日本軍に加わった。
1943(昭和18)年、文化系学生・生徒の徴兵猶予が停止となり、いわゆる学徒出陣が始まり、翌年夏以降、空襲の危険を避けて大都市の学童たちが次々と地方へ疎開した(学童疎開)。戦局の悪化にも関わらず、政府・軍部は国民に真相を知らせず、ジャーナリズムはしきりに米英に対する敵愾心を煽った(「鬼畜米英撃滅」)。
1943(昭和18)年11月、連合国側では米英中の3国首脳がカイロ宣言を発し、日本とあくまでも戦い抜くことや日本の植民地を独立または返還させることなどを明らかにした。
1944(昭和19)年末以降、アメリカ軍機による本土空襲が本格化し、1945年(昭和20)年3月の東京大空襲を始めとして、相次ぐ空襲で全国の主要都市はほとんど壊滅した。同年3月、アメリカ軍が沖縄に上陸すると、住民を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられ、6月には日本軍が全滅し、沖縄はアメリカ軍により占領された。
ヨーロッパでも1943年9月にイタリアが連合国に降伏し、45年5月にはドイツも降伏した。
鈴木貫太郎内閣は1945(昭和20)年6月、中立関係にあったソ連とを仲介として和平工作に着手したが、すでに同年2月、ローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3国首脳は密かにヤルタ協定を結び、日露戦争で失った領土の回復や千島の獲得などを条件に、ドイツ降伏後の2〜3ヶ月後にソ連が対日参戦することを取り決めていた。同年7月、米英ソ3国首脳は再びポツダムで会談し、その機会に米英中(後、ソ連も参加)でポツダム宣言を発し、日本に降伏を呼びかけた。
日本はこれを黙殺する態度をとったが、アメリカが同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、8月8日にはソ連が日ソ中立条約を侵犯して対日宣戦を布告し、満州・千島などに侵入を開始したため、日本政府もついに意を決し、昭和天皇の裁断という異例の形をとって8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日に天皇自身がラジオ放送を通じて国民にこれを明らかにした。そして9月2日には、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で日本は連合国との間で降伏文書に調印した。こうして6年にわたる第二次世界大戦は枢軸陣営の敗北によって終結した。この戦争における日本人の死者・行方不明者は軍人・民間人合わせて約300万人、被災者合計約875万人と推定されている。なお、戦後ソ連に降伏した日本兵ら約60万人がシベリアやモンゴルなどに連行され、強制労働に従事させられ、約6万人が死亡した。
【昭和時代(後)】
敗戦により日本は連合国軍の占領下に置かれたが、それは実質的にはアメリカの単独占領だった。占領軍の大部分はアメリカ軍であり、アメリカ大統領により任命された連合国軍最高司令官マッカーサーは東京に総司令部(GHQ)を設置し、絶大な権力を振るって対日占領政策を進めていった。占領政策決定機関として米英中ソなど11ヶ国からなる極東委員会がワシントンに、最高司令官の諮問機関として米英中ソ4ヶ国からなる対日リ議会が東京に設けられたが、影響力は少なかった。
アメリカの対日占領政策の基本方針は、日本の軍事能力を徹底的に破壊し、そのために国内体制を民主化することにあった。敗戦とともに成立した東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣がそうした課題に対応できずに退陣した後、GHQは占領政策に対する批判を厳しく取り締まりながら、1945年(昭和20)年10月、幣原喜重郎内閣に対して、①婦人の開放、②労働者の団結権の保証、③教育の自由主義化、④圧政的諸制度の廃止、⑤経済の民主化の五大改革司令を発し、非軍事化と民主化の政策を推し進めさせた。
1946(昭和21)年1月、昭和天皇は人間宣言を行い、自ら天皇の神格を否定した。同月、GHQは軍国主義者・超国家主義者とみなされる各界の旧指導者たちの公職追放を指令した。1947(昭和22)年3月、平和主義と民主主義を基本理念とする教育基本法、六・三・三・四制の新教育制度を定めた学校教育法が制定され、4月から実施された。
二度にわたる農地改革の結果、それまで農村を支配してきた寄生地主制は一掃された。財閥解体は三井・三菱などの財閥の資産凍結に始まり、1947(昭和22)年制定の独占禁止法や過度経済力集中排除法により、巨大企業の分割が行われた。
敗戦後、日本は深刻な経済危機にみまわれ、凄まじい勢いで進むインフレーション対策として、政府は1946(昭和21)年2月、金融緊急措置令を発布して預金の凍結などで物価上昇を抑えようとしたが、効果はなかった。1945(昭和20)年は史上稀に見る凶作だったため、食糧不足は深刻化し、食料配給も遅配が続き、餓死者も出た。海外からの引揚者は、国内でも定職や住居を見つけるのが困難だった。
1945(昭和20)年、労働組合法の制定により労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が保証されると労働運動は活発化し、1946(昭和21)年には労働関係調整法、翌年には労働基準法が制定されると、労働条件は大きく改善された。1947(昭和22)年に官公庁の労働者を中心に二・一ゼネストが宣言されたが、GHQの命令により中止された。
民主化の流れの中で、旧立憲政友会系統の日本自由党、旧立憲民政党系の日本進歩党、旧無産政党諸派を統合した日本社会党、非合法化が解かれた日本共産党が結成・再建されるなど、政党も復活し活動を再開した。1946(昭和21)年、女性の参政権が認められた最初の衆議院議員総選挙では日本自由党が第一党となり、総裁吉田茂(よしだしげる)を首班とする政党内閣が14年ぶりに復活した。
日本国憲法の制定は占領下の諸改革の中心だった。初め幣原内閣により作成された憲法改正案は明治憲法の手直しに過ぎなかったためGHQに拒否され、GHQは国民主権や戦争放棄の原則を盛り込んだ新憲法案を自ら作成して日本側に提示した。そこで政府はGHQ案を基に新たに草案を作り、帝国議会の審議を経て、1946(昭和21)年11月3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保証の原理に基づく日本国憲法が公布され、翌年5月3日から施行された。
新憲法とともに制定された地方自治法により、都道府県知事や市町村長は住民の直接選挙で選ばれることになった。また、1947(昭和22)年には民法が改正され、戸主制度は廃止され、男女同権が認められた。
1947(昭和22)年4月、日本国憲法公布後初の総選挙では野党の日本社会党が第一党となり、同年5月、新憲法に基づく第一特別国会で社会党委員長の片山哲(かたやまてつ)が総理大臣に指名され、社会・民主・国民協同3党の連立内閣を組閣した。しかし社会党内の左右両派の対立が原因で、翌年2月に内閣は退陣した。これに次いで民主党の芦田均(あしだひとし)が同じ3党連立内閣を作ったが、昭和電工疑獄事件で8ヶ月足らずで退陣した。その間、政党の離合集散が続き、1948(昭和23)年、民主自由党の第2次吉田内閣が成立し、翌年1月の総選挙で絶対多数の議席を得て、長期安定政権を確立した。
1945年に戦後の国際平和・協力機関として発足した国際連合において、アメリカとソ連は協力しつつ中心的役割を担ったが、次第に両国は自由主義陣営と社会主義陣営の中心となって対立を深め、両陣営間の対立(冷たい戦闘:冷戦)が始まった。中国では1949年、共産党が内戦に勝利し、北京に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立し、台湾に逃れた国民党の中華民国と対立した。
こうした国際情勢の中で、アメリカは自由主義陣営における日本の役割を重視し、日本経済の再建と自立を求めるように方針を転換した。1948(昭和23)年12月、GHQはインフレ抑制のため、予算の均衡・徴税の強化・物価の統制など経済安定九原則の実行を日本政府に指示した。さらに翌年のドッジ・プランによる財政緊縮と、シャウプ勧告による税制改革が実施され、1949(昭和24)年4月、1ドル360円の単一為替レートが設けられた。こうした政策によりインフレは収拾され、経済再建の基礎が築かれたが、同時に不況も訪れて中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が増大した。
1950(昭和25)年、朝鮮半島で北朝鮮軍が北緯38度線を越えて韓国に侵攻を開始した(朝鮮戦争)。国連の安全保障理事会は北朝鮮を侵略者として武力制裁を決議し、アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国側に立って参戦した。一方、北朝鮮側には中国が人民義勇軍の名で加わり、激しい戦闘が繰り返された末、1953年7月、板門店で休戦協定が結ばれた。
戦争勃発直後にGHQの指令により、日本では警察予備隊(後の自衛隊)が発足して自衛力の強化が図られ、多くの共産主義者が官公庁や言論機関から追放された(レッド・パージ)。朝鮮戦争で国連軍の補給基地となった日本にはにわかに好景気が訪れた(朝鮮特需)。
アメリカの対日講和の動きは朝鮮戦争勃発で急速に具体化し、第3次吉田内閣もこれに応じて早期講和の実現を図った。国内の左派勢力は社会主義国も含めた全面講和を主張したが、保守・中道政党や財界では自由主義諸国とのみの単独講和により早期の国際社会復帰を目指す意見が優勢だった。
1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで開かれた講和会議に吉田茂首相が全権として出席し、同年9月8日、米英など自由主義陣営48ヶ国とサンフランシスコ平和条約を締結した。平和条約は1952(昭和27)年4月28日に発効し、連合国による占領は終わり、日本は主権を回復して国際社会に復帰した。平和条約と同時に日米安全保障条約(安保条約)が結ばれ、日本国内およびその周辺に引き続きアメリカ軍が駐留し、極東の平和維持に必要な場合などには出動できるようになった。また、日米行政協定により、日本は駐留軍に基地(施設・区域)を提供した。次いで日本は中華民国、インドとの間に平和条約を結び、1950年代には次々と独立した東南アジア諸国と賠償の支払いを取り決め、無償の経済援助などを行った。
1948(昭和23)年10月の第2次吉田内閣成立以来、政局は安定し、政権はその後長く保守政党によって担当された。吉田内閣はアメリカからの再軍備要求を最小限に抑えつつ経済発展を図り、国力に見合った自衛力の漸増を進めた。警察予備隊は保安隊を経て、1954(昭和29)年、MSA協定によりアメリカからの軍事・経済援助と引き換えに、陸海空からなる自衛隊に改組された。また、政府は1952(昭和27)年、左右の過激な活動を取り締まる破壊活動防止法を制定した。
これに対し、革新勢力はこうした動きを「逆コース」として反対し、石川県内灘(うちなだ)や東京都砂川(すながわ)などでアメリカ軍基地反対運動を進めた。1954(昭和29)年、日本漁船の第五福竜丸がアメリカの行なった水爆実験で被爆したことをきっかけに、国内で原水爆禁止運動が高まり、翌年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。
革新勢力の中心となった日本社会党は、1951(昭和26)年講和問題で左右両派に分裂したが、総評など労働組合を支持基盤に勢力を回復し、1955(昭和30)年10月に再び統一した。同年11月、保守政党の側でも自由党と日本民主党が合同して自由民主党(自民党)を結成し(保守合同)、両院における絶対多数を確保した。こうして自民・社会両党を中心とした保守・革新の対立(55年体制)がその後長く続いた。
1957(昭和32)年に成立した岸信介(のぶすけ)内閣は自衛力漸増計画を推し進めるとともに日米安全保障条約の改定を図り、1960(昭和35)年1月、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印したが、これに反対する革新勢力を中心に安保闘争が国民的規模にまで高まり、同年6月、新安保条約の成立と引き換えに岸内閣は翌月退陣した。
1960(昭和35)年、岸内閣の後を継いで成立した池田勇人(はやと)内閣は「所得倍増」を唱え高度経済成長政策を推し進め、池田内閣とそれに続く佐藤栄作内閣の下で、1960年代から1970年代初めにかけて、日本経済は空前の繁栄をとげた。1960年代末には日本の国民総生産(GNP)は自由主義諸国の中でアメリカについで第2位となった。1964(昭和39)年には欧米諸国からの要請で国際通貨基金(IMF)8条国に移行して貿易の自由化に踏み切り、次いで経済協力開発機構(OECD)への加入などにより資本取引の自由化を進めた。
しかし急速な高度経済成長はさまざまな深刻な問題も生み出し、自然環境の破壊や公害の発生が起こり、大都市の人口過密により地価高騰と住宅難、交通事故の多発と交通渋滞などがみられるようになった。公害や自然環境破壊は大きな社会問題となり、政府は1967(昭和42)年に公害対策基本法を設定し、71(昭和46)年には環境庁を設置してその対策に取り組んだ。
1960〜1970年代を通じて、自由民主党の衆議院における絶対多数が続き、政局は安定したが、その反面長期政権に対する国民の倦怠感、党内の派閥争いや汚職事件などに対する不信感も現れ、自民党の議席と得票数は漸減傾向を示していった。1983(昭和58)年の衆議院議員総選挙では自民党が過半数を割り、第2次中曽根康弘内閣は新自由クラブとの連立によりこれを乗り切った。
一方、革新勢力内部では日本社会党が伸び悩む反面、社会党の脱党派による民主社会党(後、民社党)の成立、宗教団体を基盤とする公明党の結成などにより中道勢力が強くなり、また日本共産党の勢力回復などにより次第に多極化傾向を深めた。
1960年代以降も米ソ両国の平和共存政策は続けられ、緊張緩和(デタント)の気運が高まった。1963年、米英ソ3国間に部分的核実験停止条約、68年には核兵器拡散防止条約が結ばれ、日本を始め世界の多くの国々がこれに参加した。一方で中国やフランスは独自に核兵器開発を進め、インドも核実験に成功するなど、核兵器拡散の傾向も進んだ。
中華人民共和国は、1960年代後半から文化大革命のため国内の混乱が続いたが、国際的には次第に発言力を強め、1971年台湾(中華民国)に代わって国連の代表権を認められ、安全保障理事会の常任理事国となったが、この間、中ソの対立が深まった。ソ連はチェコスロバキアやアフガニスタンへの軍事介入により国際世論の避難を浴びた。
アメリカはベトナムに軍事介入(ベトナム戦争)して内外の非難を浴び、1973年和平協定を結んでベトナムから撤退した。その後、ベトナムなどインドシナ各国に社会主義政権が生まれ、アメリカの勢力は全面的に後退したが、中国とベトナムなど社会主義国相互の対立も起こり、インドシナではその後も戦火が続いた。
イスラエルとアラブ諸国の対立により、中東では第二次世界大戦後しばしば戦争が繰り返されてきたが、1973年の第4次中東戦争の時、アラブ諸国はイスラエル寄りとみられる欧米諸国や日本への原油の供給削減と値上げを発表し、日本では石油ショックが起こり経済に大きな打撃を受けた。これによって日本の高度経済成長時代は終わり、以後安定成長の時代に入った。
東西冷戦下で、日本はアメリカとの協力関係を外交政策の基本とし、アジアにおいても自由主義陣営の国々との結束強化を図った。1965(昭和40)年、佐藤内閣は日韓基本条約を結び、韓国との国交を正常化した。
1968(昭和43)年にはアメリカの施政権下にあった小笠原諸島が返還され、71(昭和46)年には沖縄返還協定が調印され、同年5月に沖縄の日本復帰が実現した。
中華人民共和国との国交正常化は田中角栄内閣のもとで急速に進み、1972(昭和47)年、日中共同声明が発せられて日中の国交が樹立された。その後日中経済協力も強められ、1978(昭和53)年8月、福田赳夫内閣の時に日中平和友好条約が結ばれた。
ベトナム戦争のためにアメリカの経済力が衰退し、1971(昭和46)年にドル切り下げ(1ドル=308円)が行われ、翌々年に変動為替相場制が導入されると円高が進んだ。経済大国となった日本の国際社会での重要性は次第に増し、アメリカ・イギリス・西ドイツ・フランス・イタリア・カナダとともに、1975(昭和50)年以降、主要先進国首脳会議(サミット)に加わった。
1970年代の石油ショックを克服した日本はいっそう輸出を増大させ、国際収支は大幅な黒字となった。1980年代に入ると、最大の貿易相手国であるアメリカは、日本側の巨額の輸出超過に対して、自動車などの重要輸出品の規制や農産物の市場開放などの要求を強め、日米貿易摩擦問題が深刻化した。