1600(慶長5)年、東軍を率いて、豊臣側に立つ石田三成らの西軍を破り、全国の大名の頂点に立った徳川家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。
家康は将軍職をわずか2年で子の秀忠に譲り、自らは大御所(おおごしょ)として政治の実権を握った。しかし、一大名に格下げされながらも、未だに隠然たる権威を持つ豊臣秀頼の存在を危惧した家康は二度に渡って大坂城を攻め(大坂冬の陣・夏の陣)、1615(元和元)年についに豊臣氏を滅ぼした。
江戸幕府の制度は2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代にほぼ整い、対外的には鎖国体制が固まった。この制度は将軍(幕府)と大名(藩)が強力な領主権を持って土地と人民を支配することから幕藩体制と呼ばれる。
将軍は旗本(1万石未満だが将軍に謁見できる、約5000人)、御家人(将軍に謁見を許されない、約1万7000人)という直属の家臣団を抱え、諸大名を遥かに凌ぐ強大な軍事力を持った。財政面でも、幕府領(天領)と呼ばれる将軍の直轄地が400万石に達した他、江戸・京都・大坂・長崎などの重要都市や、佐渡・伊豆・但馬生野(たじまいくの)・石見大森(いわみおおもり)などの金・銀山を直轄にして貨幣の鋳造権を握った。
幕府の職制では、譜代大名が老中・若年寄などの要職に就き、旗本は町奉行・勘定奉行などの役職に就いたが、主な役職には2名以上を任じて月番交代で政務を取らせ、権力の独占を防いだ。
将軍に臣従した1万石以上の領地を持つものを大名と呼び、大名がその家臣や領国を支配する組織および領域を藩と呼んだ。大名には親藩(しんぱん)・普代(ふだい)・外様(とざま)の別があり、親藩は御三家など徳川氏一門の大名、譜代は初めから徳川氏の家臣であったもの、外様は関ヶ原の戦いの前後に徳川氏に臣従した大名である。初期には200人足らずだった大名は、中期以降は260〜270人になり、それぞれ独自の支配を進めていたので、幕府は大名の配置に意を配り、特に外様大名の動きを警戒した。
豊臣氏が滅んだ1615(元和元)年、幕府は大名の居城を1つに限ることを命じ(一国一城令)、武家諸法度を定めて大名の行動を制限し、これに違反する者には改易(領地没収)・減封(領地削減)・転封(国替え)などの厳しい処分が下された。3代将軍家光のときから参勤交代が加えられ、幕府の統率力がいっそう強まった。
将軍は形式上、天皇から任命されるため、幕府は朝廷に対して表向きは敬っていたが、実際には皇室の領地(禁裏御料:きんりごりょう)は極めて少なく、1615(元和元)年には禁中並公家諸法度(きんちゅうならびくげしょはっと)を制定して天皇・公家の行動に規制を加え、さらに京都所司代を置いて皇室を厳しく監視した。
寺社は寺社奉行により統制され、寺院は宗派ごとに本山・末寺の組織を作らせ、寺院法度を定めて規制した。キリスト教禁教策のひとつとして寺請制度を設け、すべての人々をいずれかの寺の檀家とし、変更は許さなかった。
幕藩体制を維持していくためには、いわゆる士農工商と呼ばれる身分の別が立てられ、武士が四民の最上位に置かれ、苗字・帯刀の特権が許された。農民は租税の担当者として重視されたが、そのため生活の規制も厳しく、都市に住む職人や商人は社会的には低い身分にも関わらず、統制は比較的緩やかだった。四民の下には「かわた・ひにん」と呼ばれる賤民身分が置かれた。
家康の外交方針は和平主義であり、1600(慶長5)年にオランダ船リーフデ号が豊後に漂着すると、家康はオランダ人ヤン・ヨースデン、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を江戸に招いて外交・貿易の顧問とした。その後、オランダ人・イギリス人たちに平戸商館の開設と自由な貿易が許された。
スペインに対しては、スペイン領メキシコに京都の商人田中勝介を派遣して通商を求めた。仙台藩主伊達政宗は家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペインに派遣し、メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達しなかった(慶長遣欧使節)。ポルトガル人は中国のマカオを根拠地として中国産の生糸(白糸)を長崎にもたらして巨利を得ていたが、1604(慶長9)年に糸割賦(いとわっぷ)制度により生糸の輸入が統制されたため、糸割賦仲間と呼ばれる特定の商人に利益が集中した。
海外に赴く商人たちには将軍の朱印を押した渡海許可状(朱印状)が与えられ、海賊でないことが証明された(朱印船)。朱印貿易が盛んになると日本人が次々に海外へ進出し、東南アジアの各地に日本町と呼ばれる自治街が作られ、中には山田長政のようにシャムのアユタヤ朝の王室に重用される者も現れた。
1609(慶長14)年には対馬藩主の宗氏が朝鮮と己酉条約(きゆうじょうやく)を結んで国交を回復し、将軍の代替わりには朝鮮から慶賀の使節(通信使)が来日するようになった。同年、薩摩の島津氏が琉球に出兵して支配下に置いたが、名目上は明の朝貢国にしておき、琉球を通じて明・清の産物を輸入した。
家康はキリスト教に対しては禁教政策をいっそう強め、1613(慶長18)年には全国にキリスト教禁止令を出した。そのため、海外貿易も次第に制限されるようになり、イギリスはオランダとの貿易競争に敗れて平戸から引き上げ、スペインとの関係も1624(寛永元)年に断ち切られた。1633(寛永10)年には、日本人の渡海は朱印状の他に老中奉書という別の許可状を受けた奉書船に限られることになった。そして1635(寛永12)年には日本人の海外渡航と国外の日本人の帰国が全面的に禁止され、鎖国政策が強化された。
これに対し、天草・島原地方のキリスト教徒たちは領主の徹底した禁教政策に反抗して立ち上がり、1637(寛永14)年から翌年にかけて、天草四郎時貞を総大将として島原半島の原城跡に立てこもり、幕府側と半年近くも戦ったが、やがて武器や食料が尽きて敗北した。
その後幕府による禁教政策はいっそう苛烈となり、1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を禁止し、キリスト教徒が多かった九州北部では踏絵を行わせ、全国にわたって寺請制度を設けて宗門改めを実施し、キリスト教に対して厳しい監視を続けていった。
この結果、朝鮮・琉球以外ではオランダ船と中国船のみに来航が許され、寄港地も長崎一港に限られた。平戸のオランダ商館は長崎の出島に移された。中国船の来航も制限され、1688(元禄元)年に中国人の居住地も長崎の一区画(唐人屋敷)のみとされた。
1651(慶長4)年に3代将軍家光が亡くなり、11歳の家綱が後を継ぐと、その直後に兵学者の由比正雪(ゆいしょうせつ)が幕府に不満を持つ牢人を集めて幕府転覆を企てる事件が起こった(由比正雪の乱:慶長の変)。その後幕府はそれまでの武力による強圧的な政策を翻し、法令・制度を整えて幕府に服従させる文治政治への転換を図った。
4代将軍家綱には継子がなかったため、館林藩主であった弟の綱吉が5代将軍となった。綱吉の治世は元禄時代と呼ばれ、経済や文化が大いに栄えた。学問を好んだ綱吉は、学問の隆盛に務める一方、生類憐れみの令により禽獣の保護を厳しく励行させたために庶民の反感を買った。
1657(明暦3)年に明暦の大火が起こると、その復旧事業に多額の金銀が費やされ、5代将軍綱吉が盛んに寺社の造営を行ったため、幕府の財政は極めて窮乏した。そこで綱吉は、勘定吟味役(後の勘定奉行)萩原重秀の意見を用いて貨幣の改鋳に踏み切った。金が8割以上も含まれていた慶長小判の質を落とし、金を6割以下に減らした元禄小判が大量に発行され、財政危機は一時的に救われたが、物価の上昇により庶民の激しい不満を呼び起こすことになった。
6代将軍家宣と7代将軍家継父子の時代はわずか7年ほどだったが、その間幕政に参加して将軍を補佐したのは朱子学者の新井白石だった(正徳の治)。白石は貨幣の質を元に戻した小判(正徳金:しょうとくきん)を発行したが、この政策は長続きせず、後には再び悪質の貨幣が鋳造されるようになった。また、彼は江戸城の門構えや将軍・大名の礼服を改め、朝廷との融和を図るために新たに閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設するなどした。白石は長崎貿易も制限し、1715(正徳5)年に海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を出し、中国船とオランダ船の船隻数や貿易額に限度を設けた。
18世紀初め、7代将軍家継が幼年で亡くなると、和歌山藩主の徳川吉宗が後を継いだ。その頃幕府や諸藩は財政難に苦しみ、旗本・御家人・藩士らの窮乏は甚だしくなっていたため、吉宗は幕府の権威を高め、幕政を引き締めるべく改革に乗り出した(享保の改革)。
吉宗は厳しい倹約令を出して贅沢を廃し、積極的な収入増加を図って新田開発を奨励し、殖産興業にも力を入れた。また、大岡忠相(ただすけ)を登用し、公事方御定書(くじがたおさだめがき)を作らせ、これを裁判の基準とした。金銀貸借に関する訴訟は取り上げず、当事者間の話し合いで処理するように指令した(相対済し令)。また、吉宗は評定所の前に目安箱を置いて広く庶民の声を聞く一方、幕領の年貢引き上げも行ったので農民の不満が募り、百姓一揆が次第に増えていった。
吉宗の子家重、次いでその子家治が10代将軍になると、600石の小身から身を起こし、ついに老中にまで上り詰めた田沼意次(おきつぐ)が権勢を振るうようになった(田沼時代)。
意次は幕府の財政を救うため、大商人たちの経済力を利用して積極的な政策を取った。幕府直営の座を設けて銅や鉄の専売を行い、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上・冥加金を徴収し、俵物と呼ばれる海産物を増産して中国に輸出するなどして幕府の増収を図った。しかし意次が新しい計画を立てると、その利権を巡って業者が暗躍し、公然と収賄が行われるなど、モラルの乱れが目立ってきた。
18世紀には様々な災害が起こり、凶作・飢饉がしばしば襲った。1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模一帯の田畑に大被害があった。1732(享保17)年には西日本一帯にウンカが発生して稲作が打撃を受け、1万人をこす餓死者が出た(享保の大飢饉)。このような災害に加え、領主の年貢が重くなり、農民の生活が破壊されてゆくと、百姓一揆が各地で頻発した。
田沼時代の1783(天明3)年には浅間山の大噴火があり、これに伴って東北地方を中心に冷害が続き、多くの餓死者を出した(天明の大飢饉)。各地では百姓一揆が起こり、1787(天明7)年には江戸・大坂などで打ちこわしが起こった(天明の打ちこわし)。このように全国が騒動の渦に巻き込まれているさなかに、田沼意次は在職中の失政の責任を問われて老中を罷免され、領地を没収され失脚した。
1787(天明7)年、8代将軍吉宗の孫に当たる白河藩主松平定信が老中になり、11代将軍家斉の補佐役として幕政改革に乗り出した(寛政の改革)。
定信はまず田沼政治の一掃に取り掛かり、意次が始めた営利事業の大部分を取りやめ、旗本・御家人を救済するために、彼らに対する札差の賃金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)を発布した。農村復興のために、都市に出稼ぎに来ている農民たちを出身地に返すように勧め、都市の浮浪者や無宿者を江戸石川島の人足寄場に収容し、職業訓練を行った。先の飢饉に鑑み、社倉や義倉を各地に設けて米穀の貯蔵を勧め(囲米:かこいまい)、江戸では町費の一部を積み立てて火災や飢饉の際の救助に当てた(七分積金:しちぶつみきん)。
一方定信は言論を厳しく統制し、1790(寛政2)年には朱子学以外の学問を禁じた(寛政異学の禁)。1792(寛政4)年に林子平が「海国兵談」を出版して海防の必要を説くと、定信は彼を処罰したが、その直後にロシアの使節ラクスマンが蝦夷地の根室に来て日本と通商を求める事件が起こったため、定信は自ら相模や伊豆の海岸警備の状況を視察するなどして海防に力を入れるようになった。
現在の北海道・千島・樺太は蝦夷地と呼ばれており、その大部分はアイヌが居住する地域で、わずかに北海道の西南の一部が松前氏の所領となっており、松前氏は幕府からアイヌと交易する権利を認められていた。
田沼時代の頃からロシア船が蝦夷地の近海に現れるようになり、ラクスマン来航の後、1804(文化元)年にレザノフが長崎に来航して日本との通商を求めた。ロシアの接近に驚いた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検を行い、蝦夷地を幕府の直轄地として北方警備を厳重にした。
1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入し、乱暴を働く事件が起こった(フェートン号事件)。その後もイギリス、アメリカの捕鯨船が日本近海に現れるようになったため、幕府は1825(文政8)年、異国船打払令(無二念打払令)を出し、1837(天保8)年に、漂流日本人送還と通商交渉のために江戸湾入口に来航したアメリカの商船モリソン号を撃退する事件が起こった(モリソン号事件)。
松平定信が在職6年でにわかに老中を罷免されると、19世紀初めの文化文政期(化政時代)に11代将軍家斉が自ら政治を執り、天保年間に子の家慶に将軍職を譲った後も政治の実権を握り続けた(大御所時代)。家斉の側近には優れた人物がおらず、政治は腐敗し治安も乱れた。天保年間には凶作が続き、農村でも多くの餓死者が出た(天保の大飢饉)。都市部でも食料が不足し、百姓一揆や打ちこわしが各地で起こるようになった。
畿内でも米が不足していたが、幕府は救済手段を取らないばかりか、上方の米を江戸へ廻送させようとしたため、この処置に憤った大坂町奉行の元与力で著名な陽明学者の大塩平八郎は、1837(天保8)年、豪商を襲って金や米を奪い、貧民に分配しようとして失敗した(大塩の乱)が、この事件はたちまち全国に伝わり、越後柏崎では国学者生田万(よろず)が乱を起こすなど大きな反響を呼んだ。
1841(天保12)年に大御所家斉が死去すると、後を受けた老中水野忠邦(ただくに)は天保の改革を断行して幕府権力の強化に努めた。忠邦は厳しい倹約令を出して贅沢を禁じ、風俗の取締を強化した。娯楽、演劇、出版にまで統制が及び、人々の間に不満が募っていった。忠邦は商工業者の株仲間による価格統制が物価上昇の原因と考え、株仲間を解散させて自由競争を行わせたが、商品流通はかえって悪化した。農村再建のためには人返しの法を出して農民の出稼ぎを禁じた。また、上知令(じょうちれい)を発布して江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府領(天領)にしようとしたが、これには激しい反対が起こり、忠邦は2年余りで失脚した。
この頃、長崎を通じて海外の事情を知り、新しい文化を取り入れだした西南の雄藩はいち早く藩政の改革に乗り出した。
薩摩藩では調所広郷(ずしょひろさと)が中心となって藩の多額の借金を解消し、琉球貿易や砂糖の専売によって財政を立て直し、下級武士の登用、洋式砲術の採用、機械工場の設立などを進めて藩の力を強めた。
長州藩でも村田清風が中心となって負債の整理と財政建て直しを行い、洋式の軍備を取り入れ、下級武士を登用するなどして藩政改革に努めた。その他、佐賀藩・土佐藩などでも才能のある藩士が藩の実権を握り、新しい制度を積極的に取り入れていった。
1853(嘉永6)年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーの率いる4隻の軍艦が江戸湾入口の浦賀沖に姿を現し、横浜に上陸したペリーは開国と通商を求めるアメリカ大統領の国書を幕府側役人に手渡した。強硬な態度で交渉に当たったペリーは、翌年に回答するという幕府の約束を受け入れていったん退去した。
このとき老中主席阿部正弘は慣例を破ってこれを朝廷に報告し、諸大名・幕臣にも意見を求め、国を挙げて難局に対処しようとした。ペリーに続いてロシアの使節プチャーチンも来航し、開国を求めると、これを聞いたペリーは翌1854(安政元)年1月、再び軍艦7隻を率いて来航し、強く開国を迫った。諸大名・幕臣らの反対意見にも関わらず、幕府はアメリカの強硬な開国要求に屈服し、同年3月に日米和親条約(神奈川条約)を締結した。次いで幕府はイギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年以上続いた鎖国体制は終わりを告げた。
1856(安政3)年、アメリカ総領事ハリスが下田に着任した。ハリスは江戸に出て将軍に謁見し、幕府と通商条約の交渉に入ったが、日本国内では攘夷の気運が高まり、幕府は交渉の引き伸ばしを図った。しかし清国がアロー戦争で英仏連合軍に敗れたのを機会に、ハリスは幕府に強く条約調印を迫ると、幕府は老中堀田正睦(まさよし)を京都に派遣し、朝廷に条約調印の勅許を求めた。朝廷の反対にも関わらず、大老に就任した井伊直弼(なおすけ)は自らの判断により、勅許のないまま、1858(安政5)年6月、日米修好通商条約に調印した。1860(万延元)年、幕府は条約批准書交換のために外国奉行新見正興(しんみまさおき)を主席全権としてアメリカに派遣し、勝海舟を艦長とする幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)がこれに随行した。幕府は引き続きオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五カ国条約)。
外国との貿易が進むと、金の銀に対する交換比率の違いから大量の金貨が海外に流出し、輸出による生糸や茶などの国内物資の不足と物価上昇と相まって国内経済は混乱し始めた。
欧米諸国との国力の差を痛感した幕府は西洋の学問や技術、軍備などを積極的に採用するようになったが、勅許を得ずに通商条約を結んだことが国内の対外危機意識を深め、反幕府の気運が急激に高まった。
その頃13代将軍家定は病弱な上に子がなく、後継者の決定を迫られていた(将軍継嗣問題)。薩摩藩主島津斉彬(なりあき)・越前藩主松平慶永(よしなが)らは人望のあった一橋慶喜(よしのぶ:水戸藩主徳川斉昭の子)を後継に推したが、大老井伊直弼は譜代大名らの支持を得て、幼年であった紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を14代将軍(家茂:いえもち)に据え、一橋派の公家・大名・藩士らを厳しく弾圧した(安政の大獄)。このとき長州藩の吉田松陰や福井藩の橋本左内ら多くの有能な人物たちが処刑された。
幕府の強硬姿勢は反対派の憤激を掻き立て、1860(万延元)年、井伊直弼は江戸城への登城中に桜田門の近くで水戸浪士らに襲撃され暗殺された(桜田門外の変)。
専制的な政治に大きな打撃を与えられた幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて力を回復しようと図り、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁するなど、公武合体政策を進めた。しかし、急進的な尊皇攘夷論者たちの非難を浴び、信正は1862(文久2)年水戸浪士に襲われて負傷し、辞職に追い込まれた(坂下門外の変)。
こうした中で薩摩藩の島津久光は朝廷と幕府に働きかけ、公武合体の立場から幕政改革を求めた。これを受けて幕府は一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に任じ、京都に京都守護職を新設して会津藩主松平容保(かたもり)を当てた。
1862(文久2)年には神奈川に近い生麦で薩摩藩士がイギリス人を殺傷し(生麦事件)、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃した(薩英戦争)。急進派の動きに押された幕府が諸藩に攘夷決行を命じると、長州藩が下関の海峡を通る外国船を砲撃した。しかし朝廷内では保守派の公家が会津藩と結び、1863(文久3)年8月、武力を用いて三条実美(さねとみ)ら急進派公家と長州藩の勢力を朝廷から残らず退けた(八月十八日の政変)。長州藩は翌64(文治元)年、池田屋事件をきっかけに京都に攻め上ったが、薩摩・会津両藩は協力してこれを打ち破った(禁門の変、蛤御門の変)。こうして朝敵となった長州藩は、幕府の征討(第1次長州征討)を受けることになった。同じ頃、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊は、長州藩の行なった外国船砲撃の報復として下関に攻撃を加えた(四国連合艦隊下関砲撃事件)ため、窮地に陥った長州藩は四国連合軍に和を請い、また幕府にも恭順の態度を示した。
その後長州藩では高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの下級藩士が中心となって軍事力を強め、藩論を攘夷から討幕へと転換させた。また、薩摩藩では西郷隆盛・大久保利通らの下級藩士が藩政の実権を握り、次第に反幕府の姿勢を強めていった。薩英戦争や四国艦隊の下関砲撃で欧米列強の実力を身をもって知った両藩は、軍事力の充実を目的としてイギリスに接近していった。イギリスの駐日公使パークスは幕府の国内統治能力に疑問をいだいており、対日貿易発展のために、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待をかけるようになっていた。
一方、フランス公使ロッシュは軍事改革の面で幕府を援助しており、幕府は1865(慶応元)年に再び長州征討(第2次)を宣言した。しかし薩摩藩は翌年、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で薩長同盟を結び、幕府の出兵命令に応じなかった。長州藩は、農民・町人をも加えた奇兵隊などの諸隊を動員して、各地で幕府軍を打ち破った。そのさなか、将軍家茂が病死したため、幕府は戦闘を中止した。
1867(慶応3)年、東海地方や京阪地方一帯に伊勢神宮の御札が降ったとの噂が流れ、多くの男女が「ええじゃないか」と唱えて乱舞した。
家茂の死後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍に就いたが、幕府の力はすっかり衰えていた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力を合わせて国内を改革する必要を強く感じていた(公議政体論)。彼らの働きかけにより、前土佐藩主山内信豊(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するように進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867(慶応3)年10月14日、朝廷に大政奉還を申し出た。
しかし同じ頃、薩長両藩の武力倒幕派は岩倉具視(ともみ)ら急進派の公家と手を結んで討幕の密勅を得た。彼らの主導により、同年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、江戸幕府は滅亡した。幕府や摂政・関白などは廃止され、それに代わって総裁・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職が置かれた。
新政府は成立当日の夜の小御所会議で激論の末、徳川慶喜を新政府に加えないこと、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決定したが、旧幕府側はこの措置に反発した。