鬼一口

鬼一口(おにひとくち)

伊勢物語 第六段


 むかし、ある男がいた。とても手の届きそうにない女性に、長年の間言い寄り続けていたが、やっとのことで盗み出して、とても暗い中を逃げてきた。芥川という川を連れ渡ったところ、草の上に置いている露を女が見て、「あれは何かしら」と男に問うた。
 行く先はまだ遠く、夜も更けたので、鬼がいる所とも知らずに、雷さえとてもひどく鳴り渡り、雨も激しく降っていたので、荒れ崩れた蔵の奥に女を押入れ、男は弓と胡籙(やなぐい)を背負って戸口にいた。
 早く夜も明けてほしいと思いながら座っていたが、鬼がすでに女を一口に食ってしまっていた。女は「あっ」と言ったけれど、雷が轟く音で男は聞き取れなかった。次第に夜も明けていき、男が見ると、連れてきた女がいない。男は地団駄を踏んで泣いたが今更どうしようもない。

 白玉か何ぞと人の問ひしとき
  露とこたへて消えなましものを

(白玉か何かですかとあの人が尋ねたとき
  露だと答えて私も消えていればよかったものを)

 これは二條の后がいとこの女御のお元にお仕えするようにしていらっしゃったのを、容姿がとても素晴らしくていらっしゃったので、在原業平が盗んで背負って逃げていったのを、兄上の堀川の大臣(基経)と長男の国経の大納言が、まだ官位が低く宮中に参内なさるときに、ひどく泣いている人がいるをの聞きつけて、捕まえて取り返しなさったという。それをこのように鬼というのだった。まだとても若くて、后がただの身分でいらした時のことだとか。


・ある男:在原業平が想定されてきた。
・胡籙(やなぐひ):矢を入れて背負う武具。
・二條の后:藤原高子(たかいこ)。藤原長良の娘で後に清和天皇の后となる。美貌で有名。
・いとこの女御:染殿后明子(あきらけいこ)。藤原良房(長良の兄弟)の娘で文徳天皇(清和天皇の父)の后。
・基経:藤原長良の息子で良房の養子となる。
・国経:藤原長良の長男。