筑後国号
筑後国風土記逸文
(『釈日本紀』巻五「筑紫洲」)
筑後国(つくしのみちのしりのくに)の風土記に云う。
筑後国は本来、筑前国(つくしのみちのくちのくに)と合わせてひとつの国だった。昔、この二つの国の間の山に峻しく狭い坂があり、行き来する人は乗っている鞍の下布(下鞍:したくら)が擦り尽くされた。そこで土地の人々は「下鞍尽くしの坂」といった。(それで「筑紫国:つくしのくに」と呼ばれるようになった。)
別の説では、昔この境界の上に荒ぶる神がいた。往来する人の半分は生き、半分は死んだ。その(死人の)数がとても多かった。そのため「人の命尽くしの神」と呼ばれた。ときに筑紫の君、肥の君らが占い、筑紫の君らが祖先の甕依姫(みかよりひめ)を巫女となして祭らせた。それ以後、道行く人は神に害されなくなった。これにより「筑紫の神」という。
また別の説では、それにより死んだ者を葬るために、この山の木を伐って棺桶を造った。そのために山の木が尽きそうになった。そこから「筑紫国」と呼ばれた。
後に二つの国を分けて、筑前と筑後にした。
【注釈】
筑紫(つくし)の国の国名の由来が語られており、地名伝説の常に漏れず、強引な語呂合わせが行われている。
注目すべきは筑前と筑後の境界にいた荒神を、筑紫の君の祖先である甕依姫(みかよりひめ)という巫女が鎮めたという伝説で、これを邪馬台国の女王卑弥呼とみなす説もある。
筑紫の国は現在の福岡県、肥の国は熊本県にほぼ相当する。ちなみに現在地元では「つくし」ではなく「ちくし」と呼ばれることが多い。