茶道史概説

茶道史概説


 茶の木(チャノキ Camellia sinensis:ツバキ科ツバキ属)の原産地はインドのアッサム地方と、これに隣接する中国南部の雲南・四川省(東亜半月弧)とされる。
 喫茶の習慣は2000年以上前に中国四川省付近で始まったと考えられており、当時の茶は、茶の葉を蒸して固めた団茶(餅茶)だった。その後中国では唐代に大流行し、760年頃に世界初の茶書「茶経」が陸羽によって著された。宋代には抹茶法が始まったが、明代になると廃れ、代わって煎茶法が普及した。
 喫茶は日本では唐代に伝来し、皇族・貴族・僧侶の間に広まった。奈良時代から平安時代の終わりまで、朝廷で春と秋に大勢の僧を集めて国家と天皇の安泰を祈る仏教行事「季御読経(きのみどきょう)」において、甘葛や生姜などの調味料を入れた引茶(ひきちゃ)が振舞われた。延暦寺開祖の最澄は比叡山に茶園を開いたと伝えられ、平安初期の嵯峨天皇は弘仁6年(815)に滋賀の梵釈寺にて住職の永忠(えいちゅう)から茶を振舞われ、その後茶の木を関西各地で栽培させるように命じた。

 鎌倉時代中期、栄西が宋から禅宗と抹茶法を持ち帰り、建保2年(1214)に鎌倉三代将軍源実朝に茶を勧め、「喫茶養生記」を献上した。鎌倉時代後半から室町時代前半には中国貿易が盛んになり、宋や元から伝来した美術工芸品や書物・薬品・織物などが一括して唐物(からもの)と総称された。その頃には闘茶と呼ばれる遊びも流行し、栄西から京都栂尾高山寺の明恵(みょうえ)に贈られた茶(栂尾の茶)を本茶とし、それ以外の産地の非茶を飲み当てるというものだった。
 室町幕府の将軍や大名たちは会所(かいしょ)と呼ばれる喫茶のための建物を作り、貴族や武士、庶民にも喫茶の集まりである茶寄合(ちゃよりあい)が盛んになった。会所では次第に座敷での茶道具の飾り付けのルール(座敷飾り)が定まり、同朋衆(どうほうしゅう)と呼ばれる人々が将軍の身近に仕え、座敷飾りや喫茶を専門に担当した。座敷飾りの方法を書いた「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」という書物が能阿弥、芸阿弥、相阿弥ら同朋衆によって著された。室町幕府八代将軍義政の頃までに将軍家に伝わった特に良質な美術工芸品は、後に大名物(おおめいぶつ)または東山御物(ひがしやまごぶつ)と呼ばれ珍重された。また、庶民の間で一服一銭や担い茶屋と呼ばれる商売が始まった。
 将軍義政に招かれた茶人の珠光(じゅこう)は草庵の茶の創始者とされ、茶に禅の精神を導入し、「冷え枯れる」美意識で国産の素朴な焼物をも重視し、後の侘茶(わびちゃ)に大きな影響を与えた。室町時代末には堺の商人武野紹鴎(たけのしょうおう)が現れ、王朝文化や禅の要素を茶の中に積極的に取り入れた。この頃から茶会の様子や道具の記録が茶会記として記されるようになり、当時の書物として「松屋会記(奈良の塗師松屋一族による)」、「天王寺屋会記(堺の豪商天王寺屋による)」、「宗湛日記(博多の商人神屋宗湛による)」などが著された。

 尾張の大名織田信長は足利義昭を擁して上洛した際に茶の湯に興味を持ち、名物茶道具の強制的収集(名物狩り)や、家臣の功績により茶会の開催などを許可する御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)といわれる政策を行った。信長の影響で茶の湯が大いに盛り上がり、後に天下三宗匠と呼ばれる千利休(せんのりきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)ら堺商人の茶人らが信長に登用された。
 利休は信長のもとで50代のときに茶頭(さどう:茶会の準備・運営・進行に携わる)となり、信長の死後は豊臣秀吉に仕えた。天正10年(1582)頃、二畳敷の茶室待庵(たいあん)を作り、現在の茶室に大きな影響を及ぼした。茶碗や茶道具、料理法にいたるまでさまざまな改革をなし、天正13年3月に京都大徳寺での茶会、同年10月に正親町天皇御所での茶会(禁中茶会)を開催し、天皇より利休居士の号を賜った。天正15年10月には京都北野天満宮で北野大茶会(きたのおおちゃかい)を催し、秀吉は黄金の茶室や自慢の道具を飾り付けて自ら茶を振舞った。この頃に利休の門弟で秀吉の茶頭を務めた山上宗二(やまのうえそうじ)が茶の湯の秘伝書「山上宗二記」を著した。しかし利休はその後秀吉と不和になり、天正19年に自刃を命じられた。

 利休の死後、利休七哲(しちてつ:利休弟子衆七人衆)と呼ばれる武将や大名たちが茶の湯の世界で活躍した。蒲生氏郷(がもううじさと)、細川三斎(ほそかわさんさい)、高山右近(たかやまうこん)、古田織部(ふるたおりべ)、牧村兵部(まきむらひょうぶ)、瀬田掃部(せたかもん)、柴山監物(しばやまけんもつ)、あるいは織田有楽(おだうらく)らであり、特に古田織部(1544〜1615)は利休の茶を本にしながら新しいスタイルを作り出した。
 織部は二代将軍徳川秀忠に茶法を伝授し、利休の採光を抑えた茶室に代わって、多くの窓を空けて明るく開放的な空間を持つ茶室を考案し、鎖の間(くさりのま)という、小間の茶室に続く数寄の広間を設けた。また、織部焼と呼ばれる歪みが強く、胴にさまざまな文様が施された茶碗の作成を指導した。同時代には織部の他にもさまざまな茶の湯のスタイルが生み出された。
 金森宗和(かなもりそうわ:1584〜1656)は京都で公家・貴族に茶を伝えて「姫宗和」と呼ばれるスタイルを作り出し、仁和寺前に釜を築いて仁清(にんせい)の作成を指導した。
 小堀遠州(こぼりえんしゅう:1579〜1647)は京都伏見奉行の役職に就いて茶の湯に務め、寛永13年(1636)に三代将軍家光の「将軍家茶道師範」となった。遠州は織部同様に鎖の間を取り入れて斬新なデザインの茶室密庵席(みったんのせき)などを作り、わびの中に美しさを兼ね備えたその大名にふさわしいスタイルは「綺麗さび」と評された。また、遠州が選んだ一連の茶道具は、後に中興名物(ちゅうこうめいぶつ)と呼ばれた。
 片桐石州(かたぎりせきしゅう:1603〜1673)は四代将軍家綱の茶道師範となり、多くの大名たちを指導した。

 利休の茶は息子の千少庵(しょうあん)から孫の宗旦(そうたん)に伝えられ、宗旦はわび茶を徹底させて畳二畳に満たない茶室今日庵(こんにちあん)を作った。また、中村宗哲(なかむらそうてつ)に漆塗りの茶道具を、飛来一閑(ひきいっかん)に一閑張(いっかんばり)の茶器を造らせた。
 宗旦の4人の息子のうち、三男の江岑宗左(こうしんそうさ:表千家)は紀州徳川家、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ:裏千家)は加賀前田家、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ:武者小路千家)は高松松平家に仕え、三千家を立てた。宗旦門下の山田宗徧(やまだそうへん)は三河小笠原家を経て江戸で茶道を教授し、利休没後100年を経た元禄3年(1690)に「茶道便蒙鈔(ちゃどうべんもうしょう)」を著して茶道の普及に努めた。藤村庸軒(ふじむらようけん)が宗旦から聞いた逸話集「茶話指月集(ちゃわしげつしゅう)」が元禄4年に久須見疎安(くすみそあん)によって出版された。この他にも宗旦の門下から伊勢の御師杉木普斎(すぎきふさい)や儒学者三宅亡羊(みやけぼうよう)らが現れて各地に利休の茶を広めた。

 江戸時代中期になると一度に多くの人が点前の稽古を行うために広間での稽古が必要とされるようになった。その結果、七事式(しちじしき)という作法が考案された。これは5人以上で八畳以上の広間で行うことが原則の、七種類の基本的な式作法(花月・且座・廻り炭・廻り花・茶カブキ・一二三・員茶)である。また、この頃に三千家で使う茶道具を専門に造る家(千家十職)が定まった。
 江戸時代後期には茶会を催す他、茶道具を研究する大名茶人も現れ、出雲松江の七代藩主松平不昧(まつだいらふまい)は名物茶道具集「古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)」を出版し、茶道具のランクを確定しようとした。近江彦根藩藩主の井伊直弼(いいなおすけ)は茶道の精神を探求し、「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」を著して「一期一会(いちごいちえ)」の心を主張した。

 明治時代になると外国人の客を意識した椅子とテーブルによる点茶盤(立礼:りゅうれい)が考案され、明治5年(1872)に第1回京都博覧会で披露された。明治政府による急速な欧化政策が進む中で、礼法に代わって茶の湯が女子教育に取り入れられるようになり、京都の新英学校・女紅場(にょこうば:明治5年設立)や東京の跡見学園(明治8年設立)、華族女学校(明治18年設立)、共立女子職業学校(明治19年設立)などが茶道を取り入れた。
 近代の数寄者(すきしゃ)として、外務卿の井上馨(いのうえかおる)、三井財閥の益田孝(ますだたかし)らが著名であり、鈍翁(どんおう)と称した増田は明治28年に大人数の茶会「大師会(だいしかい)」を始め、明治33年には伯爵松浦詮(まつらあきら)を中心に16名の数寄者を会員とした「和敬会(かけいかい)」、同35年には関西在住の数寄者18名で組織された「十八会」などが結成された。その後も東武鉄道の根津嘉一郎、東急電鉄の五島慶太、関西朝日新聞の村山龍平、阪急電鉄の小林一三ら政財界人の数寄者が活動した。
 明治39年にはアメリカでボストン美術館中国・日本美術部長を務めた岡倉天心が英文で日本文化を紹介した「茶の本 The Book of Tea」が出版された。高橋箒庵(そうあん)は大正10年に「大正名器鑑」を出版し、当時の名物茶入や茶碗を写真入りで世に紹介した。
 社寺へ茶を献じる献茶(けんちゃ)は明治13年(1890)に初めて京都北野神社(現・北野天満宮)で行われて以降盛んになり、明治31年には豊太閤三百年祭で京都東山の豊国廟を始め全国40ヶ所余りの寺社で茶会が催された。
 昭和11年(1936)には秀吉の大茶会から350年を記念して昭和北野大茶湯(おおちゃのゆ)が催された。さらに昭和15年4月には千利休三百五十年忌の法要・茶会が京都大徳寺で開催され、4日間で5000人を超える人々が参加した。