ジョン

ジョン John


ジョン(欠地王)John, Lackland
(1199〜1216)

 父:ヘンリー2世
 母:エリナー

 ヘンリー2世とエリナーの末子として誕生。父親に溺愛されたが、領土の相続分がなかったため、「欠地王」と呼ばれる。
 1189年、グロスター伯ウィリアムの娘イザベルと結婚。
 1199年、兄リチャードの跡を継いでイングランド王に即位。翌年、イザベルと離婚。
 ジョンの即位を支持したのはノルマン領のみで、ブルターニュ、アーンジュ、メーヌ、トゥーレーヌの諸領は兄ジョアフリーの長男アーサーを支持して対立。
 1200年、アングレーム伯の娘イザベルと結婚。これに反対するポワトゥーの貴族が蜂起。仏王フィリップ2世もアーサーを擁してジョンに対抗。
 1202年、ジョン、抗争に勝利。アーサーは殺害される。その後反対派が反攻を開始。
 1204年、ノルマンディーをはじめとする大陸領の大部分を失い、ジョンは大陸から撤退。
 1207年、カンタベリー大司教の任命権をめぐり教皇インノケンティウス3世と争う。
 1212年、インノケンティウス3世、イングランド全土に次いでジョンを破門。ジョン、教皇に屈服。
 1215年、ダンモウ卿ロバート・フィッツウォルター Robert FitzWalter, Lord Dunmowらが貴族の特権復活を主張。ジョン、大憲章(マグナ・カルタ)を承認するも、ローマ教皇の支持を得て直ちに廃棄を宣言。内乱が勃発。
 1216年、仏王フィリップ2世の長男ルイ、反乱貴族の支援を得てイングランドに侵入。ロンドンを占拠。各地でフランス軍にたいする戦いが始まる。同年10月、ジョン陣没。

妻1:イザベル・オヴ・グロースター 1189年結婚
 グロースター伯ウィリアムの娘。
 1200年にジョンと離婚。その後ジョアフリー・ド・マンデヴィル、次いでヒューバート・ドゥ・バラと結婚。
 ジョンとの間に子供なし。

妻2:イザベル Isabella of Angouleme(〜1246) 1200年結婚
 アングレーム伯エイマーの娘。ジョンとの間に二男三女を儲ける。
 ジョンの没後、ヒュー・ル・ブルンと再婚。ペンブルク伯らの子女を儲ける。
長男:ヘンリー Henry 後のヘンリー3世
次男:リチャード Richard ポワトゥーおよびコーンウォール伯
 後に神聖ローマ皇帝に戴冠するが、支持を得られず帰国。
長女:ジョアン スコットランド王アレグザンダー2世妃となる。
次女:イザベル 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世妃となる。
三女:エリナー Eleanor
 ペンブルク伯ウィリアム・マーシャルの長男ウィリアム、次いでレスター伯シモン・ドゥ・モンフォールと結婚。