院政期
1. 後三条天皇
1068(治歴4)年、後三条天皇が即位した。
後三条の父は後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女(禎子内親王)であったため、藤原氏と姻戚関係がなく、外戚からの制約なしに親政を進めることができた。即位とともに藤原頼通は関白を弟教通に譲り引退した。天皇は源師房や大江匡房ら藤原氏と関係のうすい有能な人材を登用した。
1)記録荘園券契所(1069:延久1)設置:強力な荘園整理の推進。
2)延久の宣旨枡(せんじます):公定の枡の制定。
3)大田文(おおたぶみ):全国の土地調査帳。
1072(延久4)年、後三条は院政を敷くべく白河天皇に譲位したが翌年病没した。
2. 院政の成立
白河天皇も藤原氏を抑えて親政を行い、1086(応徳3)年に実子堀河天皇に譲位した後、白河上皇(ついで法皇)として院(上皇の御所)で政治を取り続けた。その後鳥羽院政、後白河院政と続き、院政が古代末期の専制政治の形態となった。
院政が行われた役所は院庁、その役人を院司、政令は院宣(院庁下文)と呼ばれた。
院の近臣には摂関期に出世を阻まれていた中・下級貴族(特に受領層)が多く、また乳母関係者は上皇の個人的寵愛者も近臣となった。
・白河院政:1086〜1129、堀河・鳥羽・崇徳3代44年間
・鳥羽院政:1129〜1156、崇徳・近衛・後白河3代28年間
・後白河院政:1180〜1192、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽5代35年間
*院宣(いんぜん):上皇の旨を受け、院司が書いて出す奉書式の文書。院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)はより公的性格が強い文書。
3. 院政期の政治
1)知行国制:一国から収納する税の全部または一部を知行主(国主、知行国主)に年限を決めて与える制度。
ただし、院政期においても荘園の集中(院への)は続いた。
2)造寺造仏:仁和寺(総検校)に統括される六勝寺などの建立。高野・熊野詣。
3)僧兵の活躍:南都北嶺の強訴など。
4)国衙での反乱:地方で受領たちに対する国司排斥事件が多発。
*知行国制:知行主となった貴族は国司を任命でき、国司は現場へ目代(代官)を派遣した。そのため国や荘園、国衙領は知行国主の私領化した。知行国を配分する権利は上皇が持った。
*六勝寺:法勝寺(1077、白河法皇)・尊勝寺(1102、堀河天皇)・最勝寺(1117、鳥羽天皇)・円勝寺(1128、待賢門院)・成勝寺(1139、崇徳天皇)・延勝寺(1149、近衛天皇)の6寺をいう。
*僧兵・神人:武装した下級僧侶、堂衆(寺院の雑役に従事した俗人)、寺領荘園の荘民、浮浪者など。神社にも下級神官や荘民を武装化させた神人(じにん)がいた。興福寺の僧兵(奈良法師)は春日大社の神木を、延暦寺の僧兵(山法師)は日吉(ひえ)神社の神輿をかついで、たびたび強訴(ごうそ)を行った。
4. 平氏政権
僧兵に悩まされた院は北面の武士を置き、傭兵として武士団を重用し、やがて武士は追捕吏(ついほり)、押領使(おうりょうし)や国司(受領)にも任じられるようになり、次第に勢力を伸ばしていった。
白河法皇に重用された平正盛(伊勢平氏)は源義家の子義親を討伐し(1101)、鎮西の賊徒を平定した。その子忠盛は瀬戸内海の海賊を平定し、勢力を西国に伸ばした。
1)保元の乱
藤原摂関家は忠実・頼長(次子)と忠道(長子)との対立が起こり、皇室でも鳥羽法皇第4子後白河天皇と長子崇徳上皇との対立が生じた。これに源氏内部の源為義・為朝と源義朝、平氏内部の平忠正と平清盛の対立が加わり、1156(保元1)に内乱が勃発した。
結果は崇徳上皇側の敗北に終わり、頼長は戦死、為義・忠正は斬罪、崇徳上皇は讃岐に流罪となった。ここに約200年ぶりに死刑が復活し、武士の政界進出を促すこととなった。
2)平治の乱
保元の乱勝者側の源義朝と平清盛の間に戦功をめぐって対立が生じ、清盛は後白河法皇に信任の篤い藤原通憲(信西)と結んで勢力を伸ばした。義朝は藤原信頼と結んで1159(平治1)年、清盛の熊野参詣の留守に兵を起こし、後白河法皇を幽閉し信西を殺害さた。しかし帰還した清盛に破れ、信頼は斬罪、義朝は東国に逃れる途中で殺害された。義朝の子頼朝は死罪を免れ伊豆に流罪となった。
3)平清盛と平家の繁栄
平治の乱により源氏勢力が全面的に崩壊すると、清盛は公卿となり、1167(仁安2)年に武士として初めて太政大臣に任命された。一門も高位高官に就き、娘徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ。
平氏は西国を中心に500余ヶ所の荘園と20余国の知行国を支配し、日宋貿易を進め、大輪田泊(神戸市)を修築し、音戸の瀬戸を開いて瀬戸内海の航路を改修した。しかしその支配機構は貴族政権の時代と変わりなかった。
4)反平氏運動の勃発
1177(治承1)年に清盛が天台座主明雲(みょううん)を伊豆に流罪にすると、延暦寺僧徒が粟津でこれを奪った。次いで藤原成親・西光・俊寛らが京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)で行った平氏打倒の謀議が発覚し、西光・成親らは斬罪、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪となった(鹿ヶ谷の陰謀)。
1179(治承3)年に清盛は後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、公卿39人を解官した。外孫安徳天皇を即位させ、外祖父として権力を握り、独裁政治を行った。
1180(治承4)年、以仁王(後白河法皇皇子)が諸国の源氏に平氏追討令(以仁王の令旨)を出すと、源頼政らが挙兵し源平内乱が始まった。