鎌倉時代概説

 1185(文治元)年、平氏の滅亡によりほぼ全国の軍事的支配権を握った源義朝は、没収した平氏の土地(平家没管領)を朝廷から与えられ、これらを併せて関東御領を成立させ、また知行国を朝廷に求めて4カ国の知行国を得た(関東知行国)。
 平氏滅亡後、後白河法皇が義経に頼朝の追討を命じると、頼朝は大軍を以て朝廷に迫り、守護・地頭を諸国の荘園・公領に置くことを認めさせ、東国武士団をこれらに任命した。その後頼朝は義経をかくまった廉で奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成すると、1192(建久3)年、征夷大将軍に任命され、ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。

 頼朝は武士団における主人と従者(家人)の主従関係を幕府の根本に据え、将軍は御家人と呼ばれる従者に御恩を与え、御家人は将軍に奉公する制度を整えた(封建制度)。
 守護・地頭の設置は、諸国においては国司と守護、荘園においては荘園領主と地頭の二重支配が行われることになり、地位や経済力の向上した武士団と国司・荘園領主らとの間に土地をめぐる争いがしばしば引き起こさた。幕府は政所や問注所などの政治機構の整備を図ってこれに対処したが、やがて朝廷との関係を重く見る将軍頼朝と、守護・地頭の権利を主張する御家人との間に対立が生じるようになった。

 頼朝の死後、有力御家人は将軍の持つ多くの権限を制限し、さらに有力御家人による合議によって政治や裁判を行おうとするようになり、頼朝の妻政子の父北条時政がその中心となった。
 時政は将軍頼家を廃して実朝を立て、自ら政所の長官となって実験を握った。この地位は執権と呼ばれ、以後代々北条氏がこの職を独占した。

 時政の子義時が執権となると、次第に勢いを取り戻してきた朝廷において、後鳥羽上皇が広大な天皇領を手に入れ、強力な院政を敷いた。将軍実朝が甥の公暁(くぎょう)に暗殺されると、それを機会に上皇中心の政治を求め、1221(承久3)年に京で幕府打倒の兵を挙げたが、危機感を抱いて結束した東国御家人に打ち破られた(承久の乱)。
 乱後、幕府は後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流し、京都に六波羅探題を置いて、朝廷の監視と京都内外の警護、西国御家人の指揮に当たらせた。上皇方に付いた貴族・武士らの所領を没収し、その地に新たに地頭(新補地頭)を置き、それ以前からの地頭(本補地頭)と併せて地頭制度が完成し、幕府の全国支配が達成された。

 義時の子泰時が執権に就くと、摂関家から迎えられた藤原頼経が将軍に任ぜられた(藤原将軍)。泰時は政治や裁判を執権と有力御家人から構成される評定衆(ひょうじょうしゅう)によって行う体制を築き、執権を補佐する連署(れんしょ)には北条氏一族を当てることで執権政治を完成させた。1232(貞永元)年に御成敗式目(貞永式目)51か条が定められた。
 泰時の政策は孫の執権時頼に継承され、裁判の公正と迅速化を図る引付衆(ひきつけしゅう)が置かれたが、同時に北条氏に敵対する勢力は滅ぼされていった。藤原将軍に代わって皇族将軍の崇高親王が迎えられると、北条氏による独裁体制がいっそう強まった。

 13世紀後半、モンゴル帝国の皇帝となったチンギス・ハンの孫フビライが大都(北京)に都を置いて元を建国すると、南宋を圧迫し、日本に対しても朝貢を求めてきた。時の執政北条時宗がこれを無視すると、フビライは日本侵攻を決意した(元寇:蒙古来襲)。
 1274(文永11)年、元は高麗の軍勢を併せて対馬・壱岐に侵攻し、博多湾に上陸した。元軍の勢いに、日本軍の主力は一時大宰府に退いたが、元軍は海戦に対する不慣れさや内部対立から兵を引き上げた(文永の役)。
 1281(弘安4)年にフビライは再度大軍を日本に派遣したが、博多湾一帯に築かれた防御用石塁や大量に動員された武士の抵抗に悩まされ、そこに大暴風雨も重なり、大損害を受けて敗退した(弘安の役)。

 幕府はその後、3度めの来襲に備えて異国警護番役を強化するとともに、西国の支配力を強め、九州の政務などを行う鎮西探題(ちんぜいたんだい)を置いた。しかし幕府は御家人たちの活躍に対して十分な褒賞を与えることができなかった。
 一方、幕府の政治は御家人の協力を基盤とした執権政治から、北条氏の家督を継ぐ得宗(とくそう)家による専制政治へと移っており、得宗家の家人である御内人(みうちびと)の勢力が強まっていた。時宗の死後、有力な御家人安達泰盛が御内人の代表である内管領(うちかんれい)に滅ぼされると、得宗専制政治は頂点を迎えた。
 中小の御家人は分割相続によって次第に領地が細分化され、生活が苦しくなっており、領地の質入れや売買が行われるようになっていた。それに対して、幕府は永任の徳政令や嫡子の単独相続などで対応を図った。
 他方、畿内周辺では新興武士が発展してきた流通経済に乗って富を蓄え、有力な農民と争って武力で荘園を荒らしたりしたため、荘園領主や幕府とも対立するようになり、悪党(あくとう)と呼ばれた。

 14世紀になると西国では悪党の動きが次第に大きな広がりを見せ始めたが、幕府では得宗専制政治が極度に進んでいた。そのころ朝廷は実権を失い、後嵯峨天皇の後に持明院統と大覚寺統の2つの皇統が対立していた。幕府は朝廷に対し、両統が交互に皇位に就く両統迭立(りょうとうてつりつ)を提唱したが、西国の高い経済力と、寺社や悪党の勢力を背景とし、両統迭立に不満を持つ後醍醐天皇が、天皇中心の政治の復活を目指し、正中の変(しょうちゅうのへん)と元弘の変(げんこうのへん)の二度にわたり討幕計画を起こした。計画はいずれも失敗に終わったが、これをきっかけに畿内周辺の寺社勢力や悪党勢力、北条氏に反発する御家人たちが立ち上がった。
 後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)や河内の武士楠木正成らの執拗な抵抗が続く中、幕府は反乱を鎮圧するために名門御家人の足利高氏らを派遣したが、高氏は途中から御家人を率いて幕府に背き、六波羅探題を攻め落とした。
 関東の有力御家人新田義貞も周辺の御家人を引き連れて鎌倉に攻め入り、高時以下の北条氏一族を滅ぼし、1333(元弘3)年に鎌倉幕府は滅亡した。足利高氏はその功により、後醍醐天皇の名尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と名を改めた。