昭和時代概説(後)

 敗戦により日本は連合国軍の占領下に置かれたが、それは実質的にはアメリカの単独占領だった。占領軍の大部分はアメリカ軍であり、アメリカ大統領により任命された連合国軍最高司令官マッカーサーは東京に総司令部(GHQ)を設置し、絶大な権力を振るって対日占領政策を進めていった。占領政策決定機関として米英中ソなど11ヶ国からなる極東委員会がワシントンに、最高司令官の諮問機関として米英中ソ4ヶ国からなる対日リ議会が東京に設けられたが、影響力は少なかった。

 アメリカの対日占領政策の基本方針は、日本の軍事能力を徹底的に破壊し、そのために国内体制を民主化することにあった。敗戦とともに成立した東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣がそうした課題に対応できずに退陣した後、GHQは占領政策に対する批判を厳しく取り締まりながら、1945年(昭和20)年10月、幣原喜重郎内閣に対して、①婦人の開放、②労働者の団結権の保証、③教育の自由主義化、④圧政的諸制度の廃止、⑤経済の民主化の五大改革司令を発し、非軍事化と民主化の政策を推し進めさせた。
 1946(昭和21)年1月、昭和天皇は人間宣言を行い、自ら天皇の神格を否定した。同月、GHQは軍国主義者・超国家主義者とみなされる各界の旧指導者たちの公職追放を指令した。1947(昭和22)年3月、平和主義と民主主義を基本理念とする教育基本法、六・三・三・四制の新教育制度を定めた学校教育法が制定され、4月から実施された。
 二度にわたる農地改革の結果、それまで農村を支配してきた寄生地主制は一掃された。財閥解体は三井・三菱などの財閥の資産凍結に始まり、1947(昭和22)年制定の独占禁止法や過度経済力集中排除法により、巨大企業の分割が行われた。

 敗戦後、日本は深刻な経済危機にみまわれ、凄まじい勢いで進むインフレーション対策として、政府は1946(昭和21)年2月、金融緊急措置令を発布して預金の凍結などで物価上昇を抑えようとしたが、効果はなかった。1945(昭和20)年は史上稀に見る凶作だったため、食糧不足は深刻化し、食料配給も遅配が続き、餓死者も出た。海外からの引揚者は、国内でも定職や住居を見つけるのが困難だった。
 1945(昭和20)年、労働組合法の制定により労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が保証されると労働運動は活発化し、1946(昭和21)年には労働関係調整法、翌年には労働基準法が制定されると、労働条件は大きく改善された。1947(昭和22)年に官公庁の労働者を中心に二・一ゼネストが宣言されたが、GHQの命令により中止された。

 民主化の流れの中で、旧立憲政友会系統の日本自由党、旧立憲民政党系の日本進歩党、旧無産政党諸派を統合した日本社会党、非合法化が解かれた日本共産党が結成・再建されるなど、政党も復活し活動を再開した。1946(昭和21)年、女性の参政権が認められた最初の衆議院議員総選挙では日本自由党が第一党となり、総裁吉田茂(よしだしげる)を首班とする政党内閣が14年ぶりに復活した。

 日本国憲法の制定は占領下の諸改革の中心だった。初め幣原内閣により作成された憲法改正案は明治憲法の手直しに過ぎなかったためGHQに拒否され、GHQは国民主権や戦争放棄の原則を盛り込んだ新憲法案を自ら作成して日本側に提示した。そこで政府はGHQ案を基に新たに草案を作り、帝国議会の審議を経て、1946(昭和21)年11月3日、国民主権・平和主義・基本的人権の保証の原理に基づく日本国憲法が公布され、翌年5月3日から施行された。
 新憲法とともに制定された地方自治法により、都道府県知事や市町村長は住民の直接選挙で選ばれることになった。また、1947(昭和22)年には民法が改正され、戸主制度は廃止され、男女同権が認められた。

 1947(昭和22)年4月、日本国憲法公布後初の総選挙では野党の日本社会党が第一党となり、同年5月、新憲法に基づく第一特別国会で社会党委員長の片山哲(かたやまてつ)が総理大臣に指名され、社会・民主・国民協同3党の連立内閣を組閣した。しかし社会党内の左右両派の対立が原因で、翌年2月に内閣は退陣した。これに次いで民主党の芦田均(あしだひとし)が同じ3党連立内閣を作ったが、昭和電工疑獄事件で8ヶ月足らずで退陣した。その間、政党の離合集散が続き、1948(昭和23)年、民主自由党の第2次吉田内閣が成立し、翌年1月の総選挙で絶対多数の議席を得て、長期安定政権を確立した。

 1945年に戦後の国際平和・協力機関として発足した国際連合において、アメリカとソ連は協力しつつ中心的役割を担ったが、次第に両国は自由主義陣営と社会主義陣営の中心となって対立を深め、両陣営間の対立(冷たい戦闘:冷戦)が始まった。中国では1949年、共産党が内戦に勝利し、北京に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立し、台湾に逃れた国民党の中華民国と対立した。
 こうした国際情勢の中で、アメリカは自由主義陣営における日本の役割を重視し、日本経済の再建と自立を求めるように方針を転換した。1948(昭和23)年12月、GHQはインフレ抑制のため、予算の均衡・徴税の強化・物価の統制など経済安定九原則の実行を日本政府に指示した。さらに翌年のドッジ・プランによる財政緊縮と、シャウプ勧告による税制改革が実施され、1949(昭和24)年4月、1ドル360円の単一為替レートが設けられた。こうした政策によりインフレは収拾され、経済再建の基礎が築かれたが、同時に不況も訪れて中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が増大した。

 1950(昭和25)年、朝鮮半島で北朝鮮軍が北緯38度線を越えて韓国に侵攻を開始した(朝鮮戦争)。国連の安全保障理事会は北朝鮮を侵略者として武力制裁を決議し、アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国側に立って参戦した。一方、北朝鮮側には中国が人民義勇軍の名で加わり、激しい戦闘が繰り返された末、1953年7月、板門店で休戦協定が結ばれた。
 戦争勃発直後にGHQの指令により、日本では警察予備隊(後の自衛隊)が発足して自衛力の強化が図られ、多くの共産主義者が官公庁や言論機関から追放された(レッド・パージ)。朝鮮戦争で国連軍の補給基地となった日本にはにわかに好景気が訪れた(朝鮮特需)。

 アメリカの対日講和の動きは朝鮮戦争勃発で急速に具体化し、第3次吉田内閣もこれに応じて早期講和の実現を図った。国内の左派勢力は社会主義国も含めた全面講和を主張したが、保守・中道政党や財界では自由主義諸国とのみの単独講和により早期の国際社会復帰を目指す意見が優勢だった。
 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで開かれた講和会議に吉田茂首相が全権として出席し、同年9月8日、米英など自由主義陣営48ヶ国とサンフランシスコ平和条約を締結した。平和条約は1952(昭和27)年4月28日に発効し、連合国による占領は終わり、日本は主権を回復して国際社会に復帰した。平和条約と同時に日米安全保障条約(安保条約)が結ばれ、日本国内およびその周辺に引き続きアメリカ軍が駐留し、極東の平和維持に必要な場合などには出動できるようになった。また、日米行政協定により、日本は駐留軍に基地(施設・区域)を提供した。次いで日本は中華民国、インドとの間に平和条約を結び、1950年代には次々と独立した東南アジア諸国と賠償の支払いを取り決め、無償の経済援助などを行った。

 1948(昭和23)年10月の第2次吉田内閣成立以来、政局は安定し、政権はその後長く保守政党によって担当された。吉田内閣はアメリカからの再軍備要求を最小限に抑えつつ経済発展を図り、国力に見合った自衛力の漸増を進めた。警察予備隊は保安隊を経て、1954(昭和29)年、MSA協定によりアメリカからの軍事・経済援助と引き換えに、陸海空からなる自衛隊に改組された。また、政府は1952(昭和27)年、左右の過激な活動を取り締まる破壊活動防止法を制定した。
 これに対し、革新勢力はこうした動きを「逆コース」として反対し、石川県内灘(うちなだ)や東京都砂川(すながわ)などでアメリカ軍基地反対運動を進めた。1954(昭和29)年、日本漁船の第五福竜丸がアメリカの行なった水爆実験で被爆したことをきっかけに、国内で原水爆禁止運動が高まり、翌年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。
 革新勢力の中心となった日本社会党は、1951(昭和26)年講和問題で左右両派に分裂したが、総評など労働組合を支持基盤に勢力を回復し、1955(昭和30)年10月に再び統一した。同年11月、保守政党の側でも自由党と日本民主党が合同して自由民主党(自民党)を結成し(保守合同)、両院における絶対多数を確保した。こうして自民・社会両党を中心とした保守・革新の対立(55年体制)がその後長く続いた。
 1957(昭和32)年に成立した岸信介(のぶすけ)内閣は自衛力漸増計画を推し進めるとともに日米安全保障条約の改定を図り、1960(昭和35)年1月、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印したが、これに反対する革新勢力を中心に安保闘争が国民的規模にまで高まり、同年6月、新安保条約の成立と引き換えに岸内閣は翌月退陣した。

 1960(昭和35)年、岸内閣の後を継いで成立した池田勇人(はやと)内閣は「所得倍増」を唱え高度経済成長政策を推し進め、池田内閣とそれに続く佐藤栄作内閣の下で、1960年代から1970年代初めにかけて、日本経済は空前の繁栄をとげた。1960年代末には日本の国民総生産(GNP)は自由主義諸国の中でアメリカについで第2位となった。1964(昭和39)年には欧米諸国からの要請で国際通貨基金(IMF)8条国に移行して貿易の自由化に踏み切り、次いで経済協力開発機構(OECD)への加入などにより資本取引の自由化を進めた。
 しかし急速な高度経済成長はさまざまな深刻な問題も生み出し、自然環境の破壊や公害の発生が起こり、大都市の人口過密により地価高騰と住宅難、交通事故の多発と交通渋滞などがみられるようになった。公害や自然環境破壊は大きな社会問題となり、政府は1967(昭和42)年に公害対策基本法を設定し、71(昭和46)年には環境庁を設置してその対策に取り組んだ。

 1960〜1970年代を通じて、自由民主党の衆議院における絶対多数が続き、政局は安定したが、その反面長期政権に対する国民の倦怠感、党内の派閥争いや汚職事件などに対する不信感も現れ、自民党の議席と得票数は漸減傾向を示していった。1983(昭和58)年の衆議院議員総選挙では自民党が過半数を割り、第2次中曽根康弘内閣は新自由クラブとの連立によりこれを乗り切った。
 一方、革新勢力内部では日本社会党が伸び悩む反面、社会党の脱党派による民主社会党(後、民社党)の成立、宗教団体を基盤とする公明党の結成などにより中道勢力が強くなり、また日本共産党の勢力回復などにより次第に多極化傾向を深めた。

 1960年代以降も米ソ両国の平和共存政策は続けられ、緊張緩和(デタント)の気運が高まった。1963年、米英ソ3国間に部分的核実験停止条約、68年には核兵器拡散防止条約が結ばれ、日本を始め世界の多くの国々がこれに参加した。一方で中国やフランスは独自に核兵器開発を進め、インドも核実験に成功するなど、核兵器拡散の傾向も進んだ。
 中華人民共和国は、1960年代後半から文化大革命のため国内の混乱が続いたが、国際的には次第に発言力を強め、1971年台湾(中華民国)に代わって国連の代表権を認められ、安全保障理事会の常任理事国となったが、この間、中ソの対立が深まった。ソ連はチェコスロバキアやアフガニスタンへの軍事介入により国際世論の避難を浴びた。
 アメリカはベトナムに軍事介入(ベトナム戦争)して内外の非難を浴び、1973年和平協定を結んでベトナムから撤退した。その後、ベトナムなどインドシナ各国に社会主義政権が生まれ、アメリカの勢力は全面的に後退したが、中国とベトナムなど社会主義国相互の対立も起こり、インドシナではその後も戦火が続いた。
 イスラエルとアラブ諸国の対立により、中東では第二次世界大戦後しばしば戦争が繰り返されてきたが、1973年の第4次中東戦争の時、アラブ諸国はイスラエル寄りとみられる欧米諸国や日本への原油の供給削減と値上げを発表し、日本では石油ショックが起こり経済に大きな打撃を受けた。これによって日本の高度経済成長時代は終わり、以後安定成長の時代に入った。

 東西冷戦下で、日本はアメリカとの協力関係を外交政策の基本とし、アジアにおいても自由主義陣営の国々との結束強化を図った。1965(昭和40)年、佐藤内閣は日韓基本条約を結び、韓国との国交を正常化した。
 1968(昭和43)年にはアメリカの施政権下にあった小笠原諸島が返還され、71(昭和46)年には沖縄返還協定が調印され、同年5月に沖縄の日本復帰が実現した。
 中華人民共和国との国交正常化は田中角栄内閣のもとで急速に進み、1972(昭和47)年、日中共同声明が発せられて日中の国交が樹立された。その後日中経済協力も強められ、1978(昭和53)年8月、福田赳夫内閣の時に日中平和友好条約が結ばれた。
 ベトナム戦争のためにアメリカの経済力が衰退し、1971(昭和46)年にドル切り下げ(1ドル=308円)が行われ、翌々年に変動為替相場制が導入されると円高が進んだ。経済大国となった日本の国際社会での重要性は次第に増し、アメリカ・イギリス・西ドイツ・フランス・イタリア・カナダとともに、1975(昭和50)年以降、主要先進国首脳会議(サミット)に加わった。
 1970年代の石油ショックを克服した日本はいっそう輸出を増大させ、国際収支は大幅な黒字となった。1980年代に入ると、最大の貿易相手国であるアメリカは、日本側の巨額の輸出超過に対して、自動車などの重要輸出品の規制や農産物の市場開放などの要求を強め、日米貿易摩擦問題が深刻化した。