昭和時代概説(前)

 1920年代には中国情勢に大きな変化が起こり、1924年、孫文が国共合作の方針を打ち出した。その後を継いだ中国国民党の蒋介石(しょうかいせき)が広東(現、広州)を勢力基盤として1926年から全国統一をめざし、国民革命軍を率いて北伐を開始し、翌年にはその勢力は長江流域に及んだ。その頃日本では、憲政会の若槻礼次郎内閣(幣原外相)により対中国不干渉政策が取られていたが、軍部・野党・国家主義団体・実業家などから「軟弱外交」と非難されるようになった。

 国内では1920年代を通じて不況が続き、1927(昭和2)年には関東大震災の際に決済不能となった震災手形の処置をめぐる多くの銀行の不良貸付が表面化し、取り付け騒ぎが起こって銀行の休業が続出した(金融恐慌)。このとき台湾銀行は、第一次世界大戦中に急成長したが戦後恐慌の影響で倒産寸前になっていた鈴木商店に対する多額の不良債権を抱えており、若槻内閣はこれを救済するために緊急勅令を出そうとし、枢密院で否決されたために総辞職に追い込まれた。これに代わって成立した田中義一内閣(立憲政友会)は3週間の支払猶予令(モラトリアム)と日本銀行からの非常貸出によって金融恐慌を鎮めた。
 この時代に産業界では企業の独占・集中が進み、三井・三菱・安田・住友の四大財閥が大きな力を握るようになった。特に銀行の産業界支配が強まり、いわゆる金融資本が形成された。大銀行を中核とした大財閥は多くの産業部門を傘下に収めて多角的経営を行うコンツェルンを形成して経済界を支配するとともに、政党との結びつきを強めて政治への発言力を増していった。

 1927年、中国で反共クーデターを強行した蒋介石が南京に国民政府を樹立し、北伐を再開すると、日本の権益が侵害されることを恐れた田中内閣は日本人居留民保護を名目に、1927〜28(昭和2〜3)年、3回にわたる山東出兵を行い、北伐阻止を図るとともに、満州の実力者張作霖(ちょうさくりん)を利用して日本の権益の維持・拡大に努めた。
 この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)の中には、張に代わって日本の傀儡となる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。しかし張作霖の子張学良(ちょうがくりょう)は国民政府の傘下に入り、満州での日本の権益拡大は困難となった。
 一方、田中内閣は欧米諸国とは協調路線を貫き、1928(昭和3)年には不戦条約を結んで国際紛争の平和的解決の方針を明らかにした。同年に行われた普通選挙による最初の総選挙では、相次いで結成された無産政党が衆議院で8議席を得た。この選挙で共産党の動きが活発化したため、田中内閣は選挙直後、治安維持法を発動して多くの共産党関係者を検挙した(三・一五事件)。

 田中内閣が張作霖爆殺事件の処理に失敗して退陣すると、1929(昭和4)年に浜口雄幸内閣(立憲民政党)が誕生した。浜口内閣は井上準之助蔵相のもとで、緊縮財政と産業合理化によって物価引き下げと国際競争力の強化を図り、1930(昭和5)年1月には金輸出解禁を実施した。しかし前年(1929年)にアメリカで始まった恐慌が世界に広がり(世界恐慌)、輸出は振るわず、外国から安い商品が流入して大量に金が海外に流出する結果となり、経済は混乱した(昭和恐慌)。1931(昭和6)年、政府は不況に対して重要産業統制法を制定し、カルテルの結成を助長したが、これが1930年代後半における統制経済の先駆けとなった。
 1930(昭和5)年、イギリスの提唱によりロンドン海軍軍縮会議が開かれると、浜口内閣は元首相若槻礼次郎らを全権として送り、ロンドン海軍軍縮条約に調印して、日・米・英3国間で海軍の補助艦保有量の制限を取り決めた。これに強い不満をいだいた海軍は、「統帥権の干犯」として内閣を攻撃し、国家主義団体や野党の立憲政友会もこれに同調し、同年、浜口首相は右翼青年に狙撃され、それがもとで亡くなった。

 1930年代に入り、中国の反日民族運動の高まりから満州における日本の権益に対する危機感がつのると、陸軍の間には軍事力によって事態を打開しようとする気運が高まった。
 1931(昭和6)年9月18日、関東軍は奉天近郊の南満州鉄道の線路を自ら爆破し(柳条湖事件)、戦争のきっかけを作って奉天付近の中国軍への攻撃を開始した(満州事変)。第2次若槻内閣は「事変の不拡大」を内外に声明したが、関東軍はこれを無視して軍事行動を拡大した。かねてより「満蒙の危機」を強く国民に訴えていた多くの有力新聞は、満州事変後直ちに日本軍の行動を讃え始め、軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論を作り出した。若槻内閣は軍部を抑えることができず、1931(昭和6)年12月に内閣総辞職に追い込まれた。
 半年ほどで満州の主要地域を占領した日本軍は、1932(昭和7)年3月、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政(後に皇帝)に据え、満州国の建国を宣言させた。日本のこの行動は不戦条約および九ヵ国条約に違反するものとして国際的な非難を浴びた。

 1931(昭和6)年に起こった三月事件・十月事件では、軍部の急進派が政党内閣を倒し、軍事政権を樹立しようと計画したが、未遂に終わった。1932(昭和7)年2〜3月には、前蔵相井上準之助・三井合名会社理事長団琢磨(だんたくま)らが国家主義団体の構成員により暗殺された(血盟団事件)。次いで5月、海軍青年将校を中心とする一団が首相官邸などを襲い、犬養毅首相を射殺した(五・一五事件)。その結果犬養内閣は倒れ、政党内閣の時代が終焉した。
 犬養の後を継いだのは、穏健派とみられていた海軍大将の斎藤実(まこと)で、斉藤は軍部・官僚・政党・貴族院などの各勢力から閣僚を選び、いわゆる挙国一致内閣を組閣した。

 中国政府は満州事変を日本の武力侵攻であるとして国際連盟に訴え、1932(昭和7)年に国際連盟はリットン調査団を派遣して実情を調査させた。同年10月、斉藤内閣が日満議定書を結んで満州国を正式に承認した直後、リットン報告書が公表され、それに基づいて1933(昭和8)年2月、国際連盟臨時総会が満州を占領している日本軍の撤退などを求める勧告案を圧倒的多数で可決すると、同年3月、日本はついに国際連盟脱退を通告し(1935年発効)、世界から孤立化する道を歩みだした。

 満州事変以後、国家主義の影響が深まると、共産主義や自由主義の学問や思想に対する取り締まりが強化された。1933(昭和8)年、京都帝国大学教授の滝川幸辰(ゆきとき)はその自由主義的刑法学説のために休職処分となり(滝川事件)、1935(昭和10)年には美濃部達吉のいわゆる天皇機関説が国体に反するとして激しく攻撃された(天皇機関説問題)。時の岡田啓介内閣は公式に天皇機関説を否定して国体明徴声明を出し、美濃部は著書を発禁処分とされ、貴族院議員辞任に追い込まれた。
 この頃陸軍内部では皇道派と統制派の派閥対立から緊張が高まっていたが、1936(昭和11)年2月26日、皇道派系の急進的な陸軍青年将校が千数百名の兵士を率いて反乱を起こし、内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清ら要人を殺害し、首相官邸・警視庁などを占拠した(二・二六事件)。戒厳令が出され、反乱は間もなく鎮圧されたが、陸軍当局はその指導者を処刑し、陸軍内部の統制を確立するとともに、事件後の広田弘毅内閣に圧力をかけ、軍部大臣現役武官制を復活させるなど、政治の主導権を握り始めた。

 1930年代にはドイツでヒトラー率いるナチス党が独裁政権を確立し、イタリアではムッソリーニが指導するファシスト党が政権を獲得していた。国際的孤立化を深めていた日本はこれらの国々に接近し、1936(昭和11)年、国際的な共産主義活動への対抗を旗印に日独防共協定が成立し、翌年にはイタリアがこれに参加し(日独伊三国防共協定)、枢軸陣営が形成された。
 日本は次第に中国北部にも勢力を伸ばし、この地方の軍閥に力を貸して、国民政府の影響から切り離そうとしていた。中国では国民政府と共産党の内戦が続いていたが、1936年に張学良が蒋介石を監禁して抗日への転換を迫った西安事件をきっかけに、内戦を停止して日本に抵抗する気運が高まってきた。

 1937年(昭和12)年7月7〜8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突が起こった(盧溝橋事件)。続いて上海でも日中両軍が衝突し、戦火は中国中部にも広がった。日本が次々と大軍を送って戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗したため、事変は宣戦布告のないままに、本格的な日中戦争に発展した。
 同年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。その際、日本軍は非戦闘員を含む多数の中国人を虐殺して国際的に大きな非難を受けた(南京事件)。
 1938(昭和13)年1月、第1次近衛文麿内閣は、参謀本部の反対にも関わらず、今後は「国民政府を対手(あいて)とせず」という声明(近衛声明)を出し、自ら和平の機会を断ち切った。また、近衛内閣は戦争の目的が「新東亜秩序」の建設にあることを声明し、国民政府の有力者の一人である汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から脱出させ、1940(昭和15)年に南京に新政府を作らせた。しかし重慶を首都にした国民政府は共産党と協力し、米・英・ソなどの援助を受けて粘り強く抗戦を続けた。アメリカは1939(昭和14)年7月に日米通商航海条約の破棄を通告し(1940年1月失効)、対日経済制裁を強めた。
 政府は長期化する戦争に対し、国力の全てを傾注すべく国民精神総動員運動を始めるとともに、1938年(昭和13)年には国家総動員法を制定し、議会の承認なしに物資や労働力を戦争遂行のために全面的に動員できるようになった。
 軍事費は年々増大し、1938(昭和13)年には一般会計歳出の約4分の3を占めるに至った。1939(昭和14)年には国民徴用令が公布され、民間人が軍需産業の労働力として動員された。また、職場で労働者と経営者が一体となって戦争に協力するための産業報国会が結成され、1940(昭和15)年には大日本産業報国会に統合され、労働組合は解散させられた。民需品の生産や輸入は厳しく制限され、1940〜41(昭和15〜16)年には生活必需品が次々と切符制・配給制となり、農家には米の供出制度が実施された。

 1938年にはヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢力拡張がますます盛んになり、オーストリアを併合し、チェコスロバキアの一部も自国領とした。1939年8月、ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶと、当時ソ満国境で張鼓峰事件(1938年)、満州・外蒙古の国境でノモンハン事件(1939年)と、ソ連と軍事衝突を起こしていた日本はこれに大きな衝撃を受け、平山騏一郎内閣は方向を見失って退陣した。
 ソ連との不可侵条約の秘密付属協定で東欧の勢力分割を取り決めたドイツは、1939年9月1日、ポーランド侵攻を開始した。これに対し、ポーランドと同盟を結んでいた英・仏は、9月3日、ドイツに宣戦布告し、ヨーロッパを戦場とする第二次世界大戦が始まった。一方ソ連は、ドイツとの秘密協定により、ポーランドの東半分、バルト3国などを侵攻し、支配下に置いた。
 第二次世界大戦が始まると、阿部信行内閣は「対戦不介入」を宣言し、続く米内光政(よないみつまさ)内閣もこの方針を受け継いだ。しかし1940年5月から6月にかけて、ヨーロッパでドイツが大勝利を収めると、日本国内では陸軍を始め多方面から、この好機にドイツとの提携を強化しようとする気運がにわかに高まった。そしてその力を後ろ盾に、東南アジアを日本の勢力圏に取り入れ、石油・ゴムなど重要物資獲得のために米・英との衝突を覚悟しても、さらに南方に進出すべしとの声が強くなった。

 国内ではナチス・ドイツに習い、近衛文麿を擁立して強い政治指導力を持つ全体主義的な一国一党組織を作ろうとする新体制運動が盛んになった。1940(昭和15)年7月、対独提携と南進政策に消極的だった米内内閣が陸軍の圧力で倒れると、第2次近衛内閣が成立した。同年10月には近衛を総裁とする大政翼賛会が発足し、諸政党は解散して議会は無力となった。
 学校教育の面でも、1941(昭和16)年から小学校が国民学校に改められ、軍国主義教育が採られるようになった。
 近衛内閣は外相松岡洋右を中心にドイツ・イタリアとの交渉を進め、1940(昭和15)年9月、日独伊三国同盟条約を締結した。これと前後して、米英など連合国側の中国援助ルート(援蒋ルート)を断ち、東南アジアに勢力圏を確立すべく、日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ北部)に進駐し、日本の南進政策が開始された。さらに近衛内閣はソ連との国交調整を図り、1941(昭和16)年4月、日ソ中立条約を締結した。
 日米関係は悪化の一途をたどったが、1941(昭和16)年4月からワシントンで日米交渉が始まり、戦争回避の努力も続けられた。
 1941年6月、独ソ戦争が始まると、日本はソ連との戦争に備えて関東軍特種演習の名目でソ連との国境近くの北満州に大軍を動員するとともに、同年7月、南部仏印(フランス領インドシナ南部)進駐を始めた。アメリカはこれに対抗して在米日本資産の凍結、対日石油輸出の禁止を断行し、イギリス・中国・オランダと協力して日本に対する経済封鎖を強めた(ABCD包囲陣)。日本国内では陸軍が対米開戦論を主張し、慎重だった海軍も次第にこれに同調するようになった。

 1941(昭和16)年10月、日米交渉の行き詰まりにより第3次近衛内閣が退陣すると、代わって陸軍の実力者東条英機(とうじょうひでき)が内閣を組織した。同年11月、アメリカは日本に対しきわめて強硬な内容のハル・ノートを提示し、日米開戦は不可避となった。
 同年12月8日、日本海軍はアメリカの海軍基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍はイギリス領マレー半島に上陸し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告した(太平洋戦争)。続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦し、第二次世界大戦は全世界に広がった。

 開戦後半年ほどで、日本は香港・マレー半島・シンガポール・フィリピン・オランダ領インド(現、インドネシア)・ビルマ(現、ミャンマー)など、東南アジアのほぼ全域を占領した。日本は、欧米の植民地支配からアジアを解放し、「大東亜共栄圏」を作るという戦争目的を掲げ、旧植民地支配者に対する民族運動を奨励した。1943(昭和18)年には、占領地域の代表者を東京に集めて大東亜会議を開くなど、戦争への協力を求めたが、占領地域では次第に反日気運が高まっていった。
 日本国内では戦争初期の大勝利が呼び起こした熱狂的興奮の中で、政府・軍部に対する国民の支持が高まると、東条内閣はこの機会を捉え、1942(昭和17)年4月、衆議院議員総選挙を実施した。これは政府系の団体が定員だけの候補者を推薦する翼賛選挙で、自由立候補も認められたが、選挙の結果当選者の8割以上が推薦候補だった。当選者は翼賛政治会に組織され、戦争遂行のための国内体制がいっそう強化された。
 厳しい言論統制のもとでジャーナリズムも全て戦時色に塗りつぶされ、国民は生活必需物資の欠乏に悩まされながら、挙国一致で戦争遂行に協力させられた(「欲しがりません勝つまでは」)。

 日本の真珠湾奇襲攻撃はアメリカの国論を沸騰させ、アメリカは挙国一致で日本との戦争に突入した。西海岸諸州に住む10万人以上の日系アメリカ人は強制収容所に収容され、市民権を持つ日系二世の中には合衆国に対する忠誠の証として、志願して米軍兵士となるものもあった。
 1942(昭和17)年6月にミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、急速に戦争は日本側に不利となった。翌年にはアメリカを中心とする連合国側の本格的な反攻が始まり、ガダルカナル島の敗退を始め、各地で日本軍の後退が続き、1944(昭和19)年7月には南洋諸島中の重要軍地基地サイパン島が陥落した。これを機会に、国内では東条内閣が総辞職に追い込まれたが、これに代わった小磯国昭(こいそくにあき)内閣のもとで戦争はなお継続された。
 国内では労働力不足が深刻となり、学徒勤労動員や徴用により中学生以上の男女学生・生徒や中高年者までもが軍需工場に駆り出された。朝鮮人や中国人も強制的に日本に連行され、厳しい労働に従事させられた。朝鮮・台湾にも徴兵令が敷かれ、現地の人々も徴兵されて日本軍に加わった。
 1943(昭和18)年、文化系学生・生徒の徴兵猶予が停止となり、いわゆる学徒出陣が始まり、翌年夏以降、空襲の危険を避けて大都市の学童たちが次々と地方へ疎開した(学童疎開)。戦局の悪化にも関わらず、政府・軍部は国民に真相を知らせず、ジャーナリズムはしきりに米英に対する敵愾心を煽った(「鬼畜米英撃滅」)。

 1943(昭和18)年11月、連合国側では米英中の3国首脳がカイロ宣言を発し、日本とあくまでも戦い抜くことや日本の植民地を独立または返還させることなどを明らかにした。
 1944(昭和19)年末以降、アメリカ軍機による本土空襲が本格化し、1945年(昭和20)年3月の東京大空襲を始めとして、相次ぐ空襲で全国の主要都市はほとんど壊滅した。同年3月、アメリカ軍が沖縄に上陸すると、住民を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられ、6月には日本軍が全滅し、沖縄はアメリカ軍により占領された。
 ヨーロッパでも1943年9月にイタリアが連合国に降伏し、45年5月にはドイツも降伏した。
 鈴木貫太郎内閣は1945(昭和20)年6月、中立関係にあったソ連とを仲介として和平工作に着手したが、すでに同年2月、ローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3国首脳は密かにヤルタ協定を結び、日露戦争で失った領土の回復や千島の獲得などを条件に、ドイツ降伏後の2〜3ヶ月後にソ連が対日参戦することを取り決めていた。同年7月、米英ソ3国首脳は再びポツダムで会談し、その機会に米英中(後、ソ連も参加)でポツダム宣言を発し、日本に降伏を呼びかけた。
 日本はこれを黙殺する態度をとったが、アメリカが同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、8月8日にはソ連が日ソ中立条約を侵犯して対日宣戦を布告し、満州・千島などに侵入を開始したため、日本政府もついに意を決し、昭和天皇の裁断という異例の形をとって8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日に天皇自身がラジオ放送を通じて国民にこれを明らかにした。そして9月2日には、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で日本は連合国との間で降伏文書に調印した。こうして6年にわたる第二次世界大戦は枢軸陣営の敗北によって終結した。この戦争における日本人の死者・行方不明者は軍人・民間人合わせて約300万人、被災者合計約875万人と推定されている。なお、戦後ソ連に降伏した日本兵ら約60万人がシベリアやモンゴルなどに連行され、強制労働に従事させられ、約6万人が死亡した。