【神武(じんむ)天皇】
神倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命とその兄、五瀬(いつせ)の命の二人は、高千穂宮で協議して、「どこに行けば平穏に天下の政を執り行えるだろうか。とにかく東へ行こう」と言い、すぐさま日向(ひむか)より出発して筑紫に向かった。豊国の宇佐に到着すると、その国の人である宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比売(うさつひめ)の二人が足一騰宮(あしひとあがりのみや)を作ってご馳走を献った。そこから移動して筑紫の岡田宮(遠賀郡芦屋)に1年間留まった。またその国から上って安芸国に7年間留まり、その後吉備に8年間留まった。その国から東に向かう時、亀の背中の乗って釣りをしつつ、左右の袖を羽ばたくように振りながらやってくる人に速吸門(はやすいのと)で出会った。それを呼び寄せて、「おまえは誰だ?」と問うと、「私は国つ神です」と答えたので、「おまえは海路を知っているか?」と尋ねると、「よく知っております」と答えた。さらに「我らに従うか?」と問うと、「お仕え申します」と答えた。そこで棹を差し伸べて船に引き入れ、棹根津日子(さおねつひこ)と名付けた。
そこからさらに東へ向かい、波速(なみはや)の渡りを経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に停泊した。する登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)が軍団を率いて待ち迎えて戦った。その時五瀬は那賀須泥毘古の矢に当たって負傷した。それで五瀬は「私は日の神の御子だから、日に向かって戦ったのが良くなかった。背中に日を負って攻めよう」と決意し、そこから迂回して紀国の男之水門(おのみなと)に至ると、「卑しい奴に手を傷つけられて死ぬのか!」と叫んで亡くなった。その陵(みささぎ)は紀国の竃山(かまやま)にある。
伊波禮毘古はそこからさらに迂回して熊野の村に到着した時、大きな熊が出てきてすぐに姿を消した。すると伊波禮毘古はいきなり意識を失い、その軍勢もみな意識を失って倒れ伏した。この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という人が一振りの太刀を持ち、伊波禮毘古が横たわっている所へやってきてそれを献上した。伊波禮毘古はすぐに目を覚まして起き上がり、「長く寝ていたもんだな」と言った。そしてその太刀を受け取ると、熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒され、伊波禮毘古の軍勢もことごとく目を覚ました。
伊波禮毘古がその太刀の由来を尋ねると、高倉下が答えるには、「私の夢に天照大神(あまてらすおおみかみ)、高木の神(高御産巣日神:たかみむすひのかみ)が武御雷(たけみかづち)の神をお呼びになり、『葦原中国は非常に混乱していて、私の御子たちが病み悩んでいるらしい。葦原中国はおまえがことごとく平定した国なので、おまえ武御雷が行って助けてきなさい』とお命じになられました。すると武御雷の神がお答えして、『私が行かずとも、ことごとくその国を平らげた太刀があるので、それを降しましょう。太刀は高倉下の倉の天井に穴を開け、そこから落とし入れます。おまえ高倉下よ、をれを取って天つ神の御子に献上せよ』とおっしゃいました。そして夢に見たとおりに、朝になって私の倉を見ますと、本当に太刀があったのです。そこでその太刀を献上いたしたのでございます」。
また、高木の大神が教えて言うには、「天つ神の御子をこれより奥へは入らせるな。荒ぶる神がひじょうに多い。今、天から八咫烏(やたがらす)を遣わし、それが先導するので、その飛びゆく後から行け」。そこでその教えのとおりに八咫烏の後から進んで行くと、吉野河の河口に到着した時、梁を作って魚を獲っている人がいた。伊波禮毘古が「おまえは誰だ」と問うと、「私は国つ神で、名は贄持之子(にえもつのこ)と申します」と答えた。そこから進むと尾がある人が光る井戸から出できた。「おまえは誰だ」と問うと、「私は国つ神で、名は井氷鹿(いひか)と申します」と答えた。そのまま山に入ると、また尾がある人が岩を押し分けて出てくるのに出会った。「おまえは誰だ」と問うと、「私は国つ神で、石押分之子(いわおしわくのこ)と申します。今、天つ神の御子がいらっしゃると聞きましたので、お迎えにまいりました」と答えた。
さて、宇陀(うだ)という地に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の二人がいた。そこでまず八咫烏を遣わして、「今天つ神の御子がいらっしゃった。おまえたちはお仕えするか?」と問わせた。すると兄宇迦斯はその使いに鏑矢を射掛け、待ち受けて攻めようと軍勢を招集した。しかし軍が集まらなかったので、お仕えすると偽って大きな御殿を造り、その御殿の中に圧殺するための仕掛けを作って待ち受けている時に、弟宇迦斯が先に伊波禮毘古の下にやってきて、礼拝して兄の計略を暴露した。そこで道臣(みちおみ)の命、大久米(おおくめ)の命の二人が兄宇迦斯を呼び寄せ、声を荒げて「おまえが作った御殿の内に、おまえがまず入って、そのお仕えする態度を明らかにしろ!」と言い、太刀の柄を握り、矛を揺らし、弓に矢をつがえて迫ると、兄宇迦斯は御殿に入って自分の作った仕掛けに押し潰されて死んでしまった。
宇陀から進んで忍坂(おさか)の大きな洞窟に着くと、尾がある猛々しい土雲(つちぐも)が数多くその洞窟で待ち受けていた。そこで伊波禮毘古は土雲たちに食事を賜うように命じ、土雲と同数の料理人を用意し、各人に太刀を帯びさせ、「歌を聞いたら一斉に斬りかかれ」と申し付けた。そして伊波禮毘古が戦闘の歌を歌うと、刀を抜いて一斉に土雲たちを斬り殺した。
ここに邇芸速日(にぎはやひ)の命が参りきて伊波禮毘古に向かい、「天つ神の御子が天降りされたと聞きました。それで後を追って降ってまいりました」と言い、天の者である証拠品を献上して仕えた。
このようにして伊波禮毘古は荒ぶる神々を説得してなだめ、従わない人たちを払い退け、畝火(うねび)の白橿原宮(かしはらのみや)で天下を治めた。
伊波禮毘古が日向にいたとき、阿比良比売(あひらひめ)を娶って二人の子を儲けていた。しかしさらに大后となる乙女を探していた時、大久米が言うには、「ここに乙女がいまして、神の御子と言われています。その訳はと申しますに、三島溝咋(みしまのみぞくい)の娘、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)は容貌がとても美しかったので、三輪の大物主(おおものぬし)の神がこれを見初めまして、その美人が大便をする時、赤く塗った矢に変身して便所の溝から流れ下り、その女陰(ほと)を突きました。するとその美人は驚いて、あわてて立ち上がり、すぐにその矢を持ってきて床の側に置いたところ、たちまち美しい男となりまして、その美人を娶って生んだ子がその乙女、伊須気余理比売(いすけよりひめ)だからです」。
さて、七人の乙女たちが高佐士野(たかさじの)で遊んでいる時、伊須気余理比売がその中にいた。大久米は彼女を見て天皇(すめらみこと:伊波禮毘古)に歌で尋ねた、
倭(やまと)の 高佐士野を 七行く 媛女(おとめ)ども 誰をか枕(ま)かむ
天皇は伊須気余理比売が乙女たちの最前に立っているのを見て答えた、
かつがつも いや先立てる 兄(え)をし枕(ま)からむ
そこで大久米が乙女と直接歌を交わして天皇の意思を伝えると、その乙女は「お后になりましょう」と言った。この后から産まれた子供は日子八井(ひこやい)の命、神八井耳(かむやいみみ)の命、神沼河耳(かむぬかはわみみ)の命の三人である。
天皇(伊波禮毘古)が崩御した後、その三兄弟の腹違いの兄である当芸志美美(たぎしみみ)の命が大后の伊須気余理比売を娶った時、当芸志美美が三兄弟を殺そうと企んでいる間に、母の伊須気余理比売は憂い悩み、歌を以てその子供たちに陰謀を知らせた。子供たちはそれを聞き知って驚き、当芸志美美を殺そうとする時、神沼河耳はその兄神八井耳にこう言った、「さあ兄さん、武器を持って入り、当芸志美美を殺してください」。しかし神八井耳は手足が震えて殺すことができなかった。そこで弟の神沼河耳が兄の持っている武器を受け取り、屋敷に入って当芸志美美を殺した。それで神八井耳は弟に向かって言った、「私は敵を殺すことができずに、おまえが殺した。だから私は兄だけれども皇位を継ぐことはできない。おまえが天皇となって天下を治めなさい。私はおまえを扶けて、忌人(いわいびと)となってお仕えしよう」。こうして神沼河耳が天皇の位に就いた(綏靖天皇)。
神倭伊波禮毘古天皇(神武天皇)の寿命は百三十七歳で、御陵は畝火山の北方、白橿の尾根の上にある。
【欠史八代】
・綏靖(すいぜい)天皇:神沼河耳(かむぬかわみみ)命
・安寧(あんねい)天皇:師木津日子玉手見(しきつひこたまてみ)命
・懿徳(いとく)天皇:大倭日子鉏友(おおやまとひこすきとも)命
・孝昭(こうしょう)天皇:御真津日子訶恵志泥(みまつひこかえしね)命
・孝安(こうあん)天皇:大倭帯日子国押人(おおやまとたらしひこくにおしびと)命
・孝霊(こうれい)天皇:大倭根子日子賦斗邇(おおやまとねこひこふとに)命
・孝元(こうげん)天皇:大倭根子日子国玖琉(おおやまとねこひこくにくる)命
・開化(かいか)天皇:若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおおびび)命
【崇神(すじん)天皇】
御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)の命は師木の水垣宮に住んで天下を治めた。
この天皇の御世に疫病が流行して人民が死に絶えようとした。天皇が憂い嘆いて神床に座していた夜、大物主(おおものぬし)の大神が夢に現れて、「これは私の意思である。意富多多泥古(おおたたねこ)に私を祭らせれば祟りは起こらず、国は平安になるであろう」と言った。そこで早馬を四方に遣わし、河内の美努(みの)村でその人を見つけ出した。
天皇が「お前は誰の子か?」と問うと、「私は大物主大神が活玉依姫毘売(いくたまよりびめ)を娶って生んだ子、櫛御方(くしみかた)の命の子孫、意富多多泥古です」と答えたので、天皇は大いに喜んで彼を神主とし、御諸(みもろ)山に意富美和(おおみわ)の大神を斎き祭らせると疫病が止んで国中が平安になった。
この意富多多泥古の祖先の活玉依姫毘売は容姿がとても美しかった。ここにひとりの男がいて、その姿装いは比類なく立派だったが、夜中に突然通ってくるようになった。お互い愛し合って共寝を重ねるうちに、まだ幾ばくも経たないうちに乙女は妊娠した。それで父母が怪しんで娘に問うた、「お前はいつの間にか孕んでいるが、夫もないのにどうして孕んだのか」。「立派な男がいまして、その名前も知りませんが、毎晩共寝をしているうちにいつの間にか孕んだのです」。父母はこの男を知ろうとして娘にこう教えた、「赤土を床の前に散らし、紡いだ麻糸を通した針をその男の衣の裾に刺せ」。
娘が教えのとおりにして翌朝見ると、針に付けた糸が戸の鍵穴から引き通り出て、残った麻糸はただ三勾(みわ:3巻き)のみだった。そこで糸をたどって尋ね行くと、美和山(みわやま)に至って神の社に行き着いたので、その孕んだのが神の子だと分かったのである。
また、この天皇の御世に大毘古(おおびこ)の命を越の国に遣わして東国十二国を平定させた。
大毘古が越の国に行った時、腰裳(こしも)を着た乙女が山城国の弊羅坂(へらさか)に立って歌を歌っていた。
御真木入日子(みまきいりびこ)よ、御真木入日子よ
自分の命を密かに狙う者が、後の戸から行き違い、前の戸から行き違い
窺っているのも知らないで、御真木入日子よ
大毘古は怪しんで馬を返し、その乙女に問うた、「お前が言うのは何のことだ」。「私は何も言ってません。ただ歌を歌っていただけ」と言って、乙女は行方も知らずにたちまち消え失せた。大毘古が帰還して天皇に奏上すると、天皇は「これは思うに、山城国にいる腹違いの兄の建波邇安(たてはにやす)王が邪心を起こしたに違いない。伯父さん、軍を起こして行くべきです」と言い、山城国に派遣した。大毘古が山城の和訶羅(わから)河に至った時、建波邇安が軍勢を率いて待ち構え、両軍は河を中に挟んで向かい立ち、挑発し合った。大毘古の副官の日子国夫玖(ひこくにぶく)の命が、「そちらの人、まず忌矢(いわいや)を放て!」と言ったので、建波邇安が矢を射たが当たらなかった。次いで国夫玖が矢を放つと建波邇安に当たって彼は即死した。それで建波邇安の軍勢はことごとく敗れて逃散って行ったので、大毘古はその地を平らげて帰参した。
その後大毘古は再び越の国に赴き、息子とともにその地を平定して復命した。ここに天下は大いに安定し、人民は富み栄えたので、その御世を讃えて初国知らしし御真木の天皇と呼んだ。天皇の寿命は百六十八歳で、御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にある。
【垂仁(すいにん)天皇】
伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこいさち)の命は師木の玉垣宮に住んで天下を治めた。
この天皇が沙本毘売(さほびめ)を后とした時、沙本毘売の兄の沙本毘古(さほびこ)王が妹に「夫と兄のいずれが愛おしいか?」と問うと、沙本毘売は「お兄さんが愛おしいわ」と答えた。すると兄は謀って「お前が本当に私を愛しいと思うのなら、私とお前で天下を治めよう」と言い、八鹽折(やしおおり)の紐小刀を妹に授けて、「この小刀で天皇の寝ているところを刺せ」と言った。天皇はそのような計略を知らず、后の膝枕で寝ていた。后は紐小刀で天皇の頸を刺そうとして三度振りかざしたが、哀しみの心を忍べずに頸を刺すことができなくて泣く涙が天皇の顔に落ちかかった。天皇は驚いて目を覚まし、「私は怪しい夢を見たよ。沙本の方から早雨が降ってきて、いきなり私の顔を濡らし、錦色の小さい蛇が私の頸に纏わりついた。この夢は何の知らせだろう」と后に尋ねた。后は隠しておけないと思い、兄との経緯を洗いざらいに天皇に話した。すると天皇は「あやうく騙されるところだった!」と言い、ただちに軍勢を率いて沙本毘古を攻め、沙本毘古は稲城を築いて待ち構えた。沙本毘売は兄を思いかねて宮殿の後門より逃げ出てその稲城に入った。この時后は懐妊していた。そこで天皇はその后が妊娠していること、また愛し重んじること三年に及ぶことに忍べず、その軍勢で包囲したまま、ただちに攻め入ることができなかった。
このように膠着している間に妊娠していた御子がすでに生まれてきた。そこで后はその御子を稲城の外に出して置き、「もしこの子を天皇の御子とお思いになるのなら、お連れください」と言った。天皇は「その兄に怨みはあるが、今でも后を愛する気持ちは抑えられない」と言い、ただちに后を取り返そうと思い、兵士のなかで力が強く敏捷な者たちを集めて、「その御子を取り戻す時、その母親もさらってこい!髪でも手でも掴めるところを掴んで引き出せ!」と命じた。ところが后はかねてからその気持を知っていたので、髪をことごとく剃って、その髪で頭を覆い、腐らせた玉の緒を三重に手に巻き、酒で腐らせた衣を着てその御子を抱き、稲城の外に差し出すと、すぐさま兵士たちはその子を抱き取り、その母親も捉えようとした。しかし髪を掴めば髪が落ち、手を握れば玉の緒が切れ、衣を握ればたちまち破れたので、とうとう母親を取り返すことができなかったので、天皇は悔しがった。
天皇が「およそ子供の名前は必ず母親が付けるものだがこの子の名を何と名付けよう」と問うと、后は「今、火が稲城を焼く時に火の中で生まれた子ですから、本牟智和気(ほむちわけ)と呼んでください」と答えた。「どのように養い育てよう」と問うと、「乳母を付け、大湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)の係を定めて育ててください」「お前が結び堅めた美豆能小紐(みずのおひも)は誰が解こうか」と問うと、「旦波比古多多須美智宇斯(たにわのひこたたすみちのうし)王の娘、兄比売・弟比売は育ちが良いので、この二人をお使いください」と后は答えた。そして遂に沙本比古を殺すと、その妹も後を追った。
天皇が御子の本牟智和気を可愛がった様子は、尾張の相津にある二股杉を二股小船に作り、それを大和まで持ってきて市師(いちし)の池や軽(かる)の池に浮かべて連れ遊ぶほどだった。しかしその子は八拳(やつか)の髭が胸まで伸びても言葉が出なかった。しかし、ある時空高く飛ぶ白鳥の声を聞いて、初めて片言を口にした。そこで天皇は山辺大鶙(やまのべのおおたか)を遣わしてその鳥を獲らせようとした。大鶙はその白鳥を追い尋ねて各地を経巡り、遂に越国の和奈美(わなみ)の港に網を張って捕まえた。天皇はその鳥を見たなら言葉を発すると思っていたが、本牟智和気はしゃべらなかった。
天皇は憂いて眠った時に夢で「我が宮を天皇の宮殿のように造り上げれば、御子は必ず物を言うであろう」という神託を聴いた。目覚めると布斗摩邇(ふとまに)に占って、どの神の意思かと尋ねたところ、出雲の大神の祟りであった。そこでその神の宮を拝ませに本牟智和気を遣わそうとした時、随行者を占うと曙立(あけたつ)王に当たったので、彼に宇気比(うけい:神への誓約)をさせ、「この大神を拝むに当たって、真に験(しるし)があるのなら、鷺巣の池の樹に住む鷺は宇気比のままに落ちろ」と言わせると、その鷺は地に落ちて死んだ。また「宇気比のままに生きよ」と言うと生き返った。そこで曙立とその弟菟上(うなかみ)王の二人を本牟智和気に副えて送り出した。
こうして出雲に至り、大神を拝んで帰る途中、肥河の中に黒木の丸太橋を造り、仮の宮を建てて本牟智和気を泊めた。そして出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)という者が青葉の山のように積んで飾り、その川下に立てて食事を差し上げようとしたところ、本牟智和気が「この川下にある青葉の山のようなものは山に見えるが山ではないね。もしかして出雲の大神を斎き祀る者たちの祭場か?」と問うた。それでお供に遣わされた王たちはこれを聞いて喜び見て喜んで、本牟智和気を檳榔(あじまき)の長穂宮に泊まらせて、早馬使いを都に送った。本牟智和気はこの宿で肥長(ひなが)比売と一夜を共にしたが、密かにその乙女を見ると蛇だった。それで彼が恐れて逃げ出すと、その肥長比売は嘆いて海原を照らしながら船で追いかけてきたので、本牟智和気はますます恐れて山の窪みから船を引き上げて逃げていった。本牟智和気が言葉を発したことを聞いた天皇は喜んで菟上王を出雲に送り返して神の宮を造営させた。
さて、天皇は后の遺言どおり美智宇斯の娘たち、比婆須(ひばす)比売、弟(おと)比売、歌凝(うたごり)比売、円野(まとの)比売の四人を召し上げた。しかし比婆須比売と弟比売の二人のみを留め、その妹二人はとても醜かったので元の国へ送り返した。すると円野比売は恥じて、「同じ姉妹の中に姿が醜いからと帰されたことが近隣に知れたらとても恥ずかしいわ」と言い、山城国の相楽(さがらか)に至った時に樹の枝に首をつって死のうとした。また弟国(おとくに)に至った時、深い淵に身を投げてとうとう死んでしまった。
また、天皇は三宅連らの祖先の多遅摩毛理(たじまもり)を常世の国に遣わし、登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)を求めさせた。そこで多遅摩毛理が遂にその国に行き着いて、その木の実を採って幔(かげ)の実八つ・矛の実八つを持ち帰った時、天皇はすでに崩御していた。そこで多遅摩毛理は幔四つ・矛四つを大后に献上し、幔四つ・矛四つを天皇の御陵の戸に捧げ置いて泣き叫び、「常世の国の非時(ときじく)の木の実を持って参上いたしました!」と言い、遂に叫び泣いて死んでしまった。その非時の木の実は今で言う橘である。天皇の寿命は百五十三歳、御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にある。
【景行(けいこう)天皇:付、倭建(やまとたける)伝】
大帯日子淤斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)天皇は纏向(まきむく)の日代(ひしろ)宮に住んで天下を治めた。
天皇は三野(みの)の国造の先祖である大根(おおね)王の娘で、兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の二人の乙女の容貌が美しいと聞き確かめて、御子の大碓(おおうす)の命を遣わして召し上げようとした。しかし大碓は父に差し出さずに二人とも自分のものとし、そればかりか他の女を偽ってその乙女たちとして差し上げた。天皇はそれが別の女たちであることを知って、いつも眺めているだけで床を共にしようとせず、その女たちを苦しめた。
天皇は弟の小碓(おうす)の命に向かい、「どうしてお前の兄(大碓)は近頃朝夕の食事の席に出てこないのだ?お前がひとりで懇ろに教え諭してこい」と言った。それから5日経っても兄が出てこないので、天皇は小碓に対して「なぜお前の兄はいつまでも出てこないのだ?もしやまだ教え諭してないのか?」と問うと、小碓は「もうじゅうぶん諭しました」と答えた。「どのように諭したのだ?」と問うと、「明け方に兄が便所へ入る時、待ち構えてつかみ押さえ、手足を引きちぎってムシロに包んで投げ捨てました」と答えた。
それで天皇は小碓の猛々しく荒い性格を恐れ、「西の方に熊曾建(くまそたける)という二人がいて、我らに従わない無礼な者どもだ。この者たちを殺してこい」と言って小碓を遣わした。小碓はこの時まだ髪を額に結ぶ年頃の少年だった。小碓は叔母の倭比売(やまとひめ)の衣と裳をもらい、剣を懐に入れて征伐に出かけた。そして熊曾の家に着いて見れば、その家の周りを軍勢が三重に取り囲み、新しい居室を作っているところで、人々は新築祝いの祝宴をしようと言い騒いで食事の準備をしてた。小碓はその屋敷の近くでぶらぶらしながら祝宴の日を待っていた。さて、その宴の日になると小碓は少女のように結った髪を櫛って垂らし、叔母の衣裳を着けて完全に少女の姿となって女たちの中に混じり、その新築の部屋の中に入って座っていた。すると熊曾建の兄弟二人はその少女を目に留め、二人の間に座らせて宴を盛り上げた。宴たけなわの時になると、小碓は懐から剣を取り出し、兄の熊曾の衣の襟を取って剣でその胸を刺し通した。すると弟はそれを見て恐れて逃げ出した。小碓は直ちに追いかけてその部屋の階段の下にまで追い詰め、弟の背中を掴まえ、剣を尻より刺し通した。弟の熊曾建が「その刀を動かすな、俺は言いたいことがある」と言うので、小碓は言うことを聞いて彼を押さえこんだ。「お前は誰だ」と弟が問うと、「私は淤斯呂和気天皇の子で、名を倭男具那(やまとおぐな=小碓)という。お前たち二人が天皇に従わず無礼だと聞いて、父がお前たちを殺すために遣わしたのだ」と答えた。すると熊曾建は、「確かにそうだろう。西の方に俺たち二人以外に猛々しく強い者はないからな。しかし大倭(おおやまと)の国は俺たち二人より強い男がいたわけだ。それなら俺が名を献ろう。今後は倭建(やまとたける)の御子と名乗るがいい!」熊曾建がこのことを言い終わると、小碓(倭建)は彼の体を熟したウリのように断ち割いて殺した。
倭建は帰還する際に出雲の国に入り、そこの出雲建(いずもたける)を殺そうと思い、まず友達になることにした。そして密かにイチイの木で木刀を作って帯剣とし、共に肥(ひ)の河で水浴びをした。倭建は河より先に上がり、出雲建が解き置いていた太刀を取って腰に付け、「刀を交換しよう」と言った。後から出雲建が河から上がって倭建の木刀を帯びると、倭建は「さあ、太刀合わせをしようよ」と誘った。そこで各々その刀を抜こうとする時、出雲建は刀を抜くことができず、すぐさま倭建は刀を抜いて出雲建を斬り殺した。そして歌を詠んでいわく、
出雲タケルが差してる刀は、黒葛(つづら)を幾重にも巻いてるけれど、刀身がないのはお気の毒さま!
このように倭建が武勲を挙げて帰還し、宮殿に参上して復命すると、天皇は重ねてこう命じた、「東の方十二国の荒ぶる神や服従しない者どもを平定してきなさい」。そして吉備の臣らの先祖である御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副官に付け、柊(ひいらぎ)の八尋矛を与えて遣わした。
倭建は命令を受けて出征する際、伊勢の大御神の宮に参拝してから叔母の倭比売に向かい、「父(天皇)は私に死ねと思っているのか、西方の悪人どもを征伐しに遣わされ、帰ってきたばかりだというのに、どうして兵士たちも付けずに、今度は東方十二国の悪人どもの平定に遣わすんでしょう。これを思うに、やはり私に死ねと思っているんでしょう」と言って嘆き泣いて退出する時、倭比売は草那芸剣(くさなぎのたち)を与え、また御袋を与えて「もし火急のことがあれば、この袋の口を解きなさい」と言った。
さて、倭建は尾張国に至り、尾張の国造の祖先である美夜受(みやず)比売の家に泊まった。彼はすぐに比売と共寝しようと思ったが、また帰還する時にしようと思い、結婚の約束をして東(あずま)の国へ行き、山河の荒ぶる神や従わない者どもをことごとく平らげた。また、相武(さがむ)の国に至った時、そこの国造が偽って言った、「この野の中に大沼があります。その沼の中に住んでいる神はとても暴虐な神です」。そこでその神を見るために野に入ると、国造がその野に火をつけた。倭建は騙されたと気づき、倭比売のくれた袋の口を開けて見れば火打ち石がその中に入っていた。まずその剣で自分の周りの草を刈り払い、火打ち石で火を打ち出して向かい火をつけて焼き退け、野から還り出ると国造たちを皆斬り滅ぼし、その屍に火をつけて焼き払った。
そこから旅を続けて走水(はしりみづ)の海(浦賀水道)を渡る時、その渡りの神が大波を起こして船を堂々巡りさせ、進むことができなくなった。そこで后の弟橘(おとたちばな)比売が、「私が御子に代わって海の中に入りましょう。御子は使命を遂げてお還りください」と言って海に入ろうとする時、菅(すが)畳八重・革畳八重・絹畳八重を波の上に敷いてその上に降りると、荒波は自然に収まって船を進めることができるようになった。そして7日後、その后の櫛が海辺に流れ付いたので、その櫛を取り御陵を作ってそこへ納め置いた。
更に旅を続けて荒ぶる蝦夷(えみし)らを服従させ、また山河の荒ぶる神たちを平らげて帰還する時、足柄の坂本に至って食事をしているところにその坂の神が白い鹿となってやってきた。そこで食べ残した蒜(ひる)のカケラを投げつけると鹿の目に当たって死んでしまった。倭建はその坂に登り三度ため息を付いて「あづまはや(我が妻よ)!」と言った。それでその国を阿豆麻(あづま)というのである。
そこから科野(しなの)国を経て尾張国に還り来て、先の日に約束した美夜受(みやず)比売のもとに泊まった。さて、食事を差し上げる時に美夜受比売は大盃を捧げ持って来たが、その時彼女の襲(おすい)の裾に月経の血が着いていた。そこで倭建はそれを見て歌を詠んだ、
天の香具山を利鎌のように渡る白鳥、そのように細く柔らかな腕を枕にしよう、
添い寝しようと思うのだけど、君が着ている着物の裾に月が出てるよ
美夜受比売はこの歌に答えて、
日の御子よ、わが大君よ、年が来れば月は消えゆく
ホントにホントにあなたを待つのが辛くて、私が着ている着物の裾に月が出てるの
そこで二人は結ばれて、倭建は草那芸剣を美夜受比売のもとに置き、伊服岐(いぶき)の山の神を退治しに出かけた。
倭建が「伊服岐山の神は素手で殺してやろう」と言ってその山に登ると、牛くらいの大きさの白い猪に出会った。そこで言挙げして言うには、「この猪に化けたのは山の神の使いだね。今殺さなくても、帰る時に殺せばいい」。山を登っていくと氷雨が激しく降ってきて倭建を打ち惑わした。(この白猪に化けたのは使いではなく、神自身だった。言挙げをしたために惑わされたのである。)そこで還り下り、玉倉部(たまくらべ)の清泉(しみず)に至って休息している時、徐々に正気を取り戻してきた。そこから出発して当芸野(たぎの)の上に至った時、「私の心はいつも空を翔け行こうと思っていたが、今は歩くこともできずにヨロヨロしているよ」と言った。もう少し進むととても疲れてきたので杖をついて歩んだ。
能煩野(のぼの)に着いた時、故郷を偲んでこう歌った、
倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(やまごも)れる倭しうるわし
(倭は山の中の国、青垣のように並ぶ山々に囲まれた倭は麗しい)
命の全けむ人は 畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の熊白橿(くまかし)が葉を髷華(うず)に挿せ その子
(命が無事である人は、平群の山の樫の葉をその髪に挿せ、その子たち)
愛(は)しけやし 吾家(わぎえ)の方よ 雲居(くもい)起(た)ち来も
(懐かしいなあ、私の家の方から雲が立ってくるよ)
この時病が急変し、次の歌を詠み終わると亡くなった。
嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きしつるぎの大刀(たち) その大刀はや
(乙女の寝床に私が置いてきた剣の太刀、その太刀があればなあ)
倭建死去の知らせを聞き、倭にいる妃たちや御子たちが皆能煩野へやってきて御陵を造り、その場所で這い回って慟哭した。すると倭建の魂は大きな白鳥となり、天に翔け登り浜に向かって飛んで行き、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に御陵(白鳥の御陵)を造って鎮魂した。倭建の魂はまたその地から天へ翔け登り飛び去っていった。
景行天皇の寿命は百三十七歳で、御陵は山辺の道の上にある。
【成務(せいむ)天皇】
若帯日子(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)は景行天皇の御子で、近江の志賀の高穴穂(たかあなほ)宮に住んで天下を治めた。この天皇の時に建内宿禰(たけのうちすくね)を大臣(おおおみ)に任命して大小の国々の国造(くにのみやつこ)や国境を定めた。天皇の寿命は九十五歳で、御陵は沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)にある。
【仲哀(ちゅうあい)天皇:付、神功皇后(じんぐうこうごう)伝】
帯中日子(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は倭建の御子で、穴門(あなど)の豊浦宮、また筑紫(つくし)の訶志比(かしい)宮に住んで天下を治めた。
この天皇の大后である息長帯比売(おきながたらしひめ:神功皇后)にある時神が降りた。
当時天皇は筑紫の香椎宮にいて熊曾国を撃とうとしている時であり、天皇が琴を弾き、建内宿禰が沙庭(さにわ)に控えて神託を請うたとき、大后に神が降って教え諭した、「西の方に国がある。金銀を始めとして、目の輝くような種々の珍しい宝がたくさんその国にはある。私は今その国をお前に服従させてやろう」。天皇はそれに答えて、「高いところに登って西の方を見ましたが国は見えません。ただ大海原があるだけです」と言い、偽りを言う神だと言って琴を押しのけ弾こうとせず、黙って座っていた。それでその神が大いに怒って言うには、「そもそもこの天下はお前が治めるべき国ではない。ただ一筋の道(あの世への道)を行け!」。建内宿禰が「畏れ多いことでございます。わが天皇、やはりその琴をお弾きくだされ」と言うので天皇はその琴を取り寄せ、しぶしぶ弾いていたが、間もなく琴の音が聞こえなくなった。そこで灯を灯して見ると、すでに崩御していた。廷臣たちは驚き恐れて天皇の遺体を殯の宮に安置し、さまざまな国の大祓を行った。
建内宿禰が再び沙庭に控えて神託を請うと、先日の言葉と全く同じで、さらに「そもそのこの国はお前の懐妊している御子が治めるべき国である」と諭した。建内宿禰が「畏れ多いことでございます。わが大神よ、その神の孕んでいる御子は男女いずれでしょう?」と問うと、「男子である」と神は答えた。「今このように神託を下される大神のお名前を知りたくぞんじます」と請えば、「これは天照大神の御心である。また底筒男(そこつつお)・中筒男・上筒男の三柱の大神である。今まことにその国を求めようとするなら、天神地祇や山河の諸神に幣帛(みてぐら)を奉り、我が御魂を船の上に乗せ、真木の灰を瓢(ひさご)に入れ、箸と比羅伝(ひらで:食器)をたくさん作り、それらを皆大海に散らし浮かべて海を渡れ」と神託した。
このようにつぶさに教え諭されたとおりに軍勢を整え船を並べて海を渡る時、海原の魚たちが大小を問わずことごとく船を背負って渡って行った。また、追い風が起こって船を進め、船団は新羅の国の半ばまで波によって押し上げられた。するとその国の王が畏れ入って言った、「今より後は天皇の命令に従い、馬飼いとなって毎年船を並べ、船腹も棹舵も乾かぬように、天地と共にいつまでもお仕えいたしましょう」。それで新羅の国を馬飼い、百済の国を海外の屯倉(みやけ)と定め、大后はその杖を新羅の国王の門に突き立て、墨江(すみのえ)大神の荒御魂(あらみたま)を国の守護神として祭り鎮めて帰還した。
新羅征伐の事業がまだ終わらないうちに懐妊していた御子が生まれようとしたので、胎を静めるために石を取って裳の腰に巻き、筑紫の国に渡ると宇美(うみ)という地で御子が生まれた。このとき裳の腰に巻いた石は筑紫の伊斗(いと)の村にある。
息長帯比売が倭に帰還する時、人々の心に疑わしい点があったため、喪船を一艘用意して御子をその船に乗せ、「御子はすでに亡くなった」という噂を広めた。すると香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王がこれを聞いて待ち構え、斗賀野(とがの)に進み出て占いの狩りをした。香坂王が櫟(くぬぎ)に登って見ていると大きな猪が怒り狂って現れ、その櫟の木を掘り倒して香坂王を喰い殺した。弟の忍熊王はその凶兆にもかかわらず軍勢を率いて待ち伏せし、遺体のない喪船に攻め寄せると、息長帯比売はその喪船から兵士たちを下ろして互いに戦った。この時忍熊王側は伊佐比(いさひ)宿禰を将軍とし、御子側は難波根子建振熊(なにわのねこたけふるくま)の命を将軍とした。御子側が忍熊軍を撃退して山代に進軍すると、忍熊側は反転して退かずに戦い続けた。そこで建振熊は策略を用い、「息長帯比売はすでに崩御された。もう戦うべき理由もない」と言いふらせて弓の弦を断ち、偽って帰服した。伊佐比将軍はそれを真に受け、弓を外して武器を収めさせた。すると建振熊は髻(もとどり)の中に隠してあった弦を取り出し、弓を張って追撃した。忍熊側は逢坂(あうさか)に逃げ退き、そこで反撃に出たが、追い詰められて沙沙那美(ささなみ)で敗れ、兵士たちはことごとく斬り殺された。忍熊王と伊佐比の宿禰は共に追い詰められ、船に乗り海に浮かんで歌を詠み、そのまま海に入って共に死んだ。
いざ吾君(あぎ) 振熊が痛手負わずは 鳰鳥(にほどり)の淡海(あふみ)の湖(うみ)に潜(かず)きせなわ
(さあ君、振熊に痛手を負わされるくらいなら、カイツブリのように琵琶湖に沈もうぜ)
建内宿禰が太子を連れて禊をするために近江と若狭の国を歴訪し、越国の入り口である角鹿(つぬが)に仮宮を造って泊まった時、そこにいた伊奢沙和気(いささわけ)大神が夜の夢に現れて言った、「我が名を御子の名前にしてほしい」。そこで建内宿禰は喜んで答えた、「畏れ多いことでございます。お言葉に従って名を変えましょう」。するとその神は、「明日の朝に浜に出なさい。名を変えましょう」と言った。翌朝浜に出てみると、鼻に傷を負った入鹿魚(いるか)が浦いっぱいに流れ着いていた。そこで御子が神に向かって言った、「私の御食(みけ:食事)に魚を下さったのですね」。それでその神を称えて御食津(みけつ)大神と名付け、今に気比(けひ)大神と言うのである。
さて、御子が帰還すると母親の息長帯比売が待酒(まちざけ)を醸して献り、母子で歌を詠み合った、
この酒は私の酒ではありません 酒の神は常世の国の少名毘古那(すくなびこな) その神が
神寿(かむほ)いでは酔狂わせ 豊寿(とよほ)いでは酔巡らし 献ったお酒ですよ 飲み干して さあ
この酒を醸した人は その鼓(つづみ)を臼に立てて歌いつつ醸したのかも
舞いながら醸したのかも このお酒は このお酒は なんだかやたらと楽しくなるね さあ
仲哀天皇の寿命は五十二歳、御陵は河内の恵賀(えが)の長江にある。
神功皇后は百歳で崩御し、狭城(さき)の楯列(たてなみ)の御陵に葬られた。