鎌倉幕府から権力を取り戻した後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が京で持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を立て、1336年に建武式目を定めて施政方針を示し、1338(暦応元)年には征夷大将軍に任命されて室町幕府を開くと、後醍醐天皇は大和南部の吉野に逃れて皇位の正当性を主張したため、以後朝廷は吉野の南朝と京都の北朝に分かれて対立することになった(南北朝時代)。
室町幕府は各地の有力守護大名による連合政権であり、幕政は原則的に合議制で行われ、将軍の権力は比較的弱かった。政府の職制は鎌倉幕府のものを踏襲し、将軍のもとに管領(かんれい)という職が置かれ、強い発言力を持つ補佐役として政権を担当した。この職には細川氏・斯波氏・畠山氏の三家が交代で就任し、三管領と呼ばれた。地方では鎌倉府が東国10ヶ国を統括し、その長官鎌倉公方(かまくらくぼう)は尊氏の子足利基氏(もとうじ)の子孫が世襲した。鎌倉府の下には関東管領が置かれたが、後にしばしば鎌倉公方と対立するようになる。また、九州には九州探題、東北地方には奥州探題なども置かれた。
1339年には後醍醐天皇が吉野で死去し、皇子義良が後継として即位した(後村上天皇)。1347年に南朝に復帰した北畠親房らが攻勢にで始めたが、翌1348年には南朝側の楠木正成が北朝の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟と戦って敗死。高兄弟は吉野を攻め、後村上天皇は賀名生(かなう)に逃れた。
1350〜52年には足利尊氏と弟直義(なおよし)の抗争が起こった(観応の擾乱:かんのうのじょうらん)。一時的に和睦が成立し抗争は終わるが、後に直義は殺害された。
1358年、足利尊氏が死去。尊氏の子義詮(よしあきら)が2代将軍となった。
1368年、義満(よしみつ)が3代将軍に就任。細川頼之(よりゆき)が管領となる。同年、後村上天皇が死去し、長慶天皇が後を継いだ。義満は公家や寺社の威光を利用して比較的安定した政治を実現し、1379年頃京都の室町に「花の御所」を完成させ、金閣寺を建立した。1394年には子義持(よしもち)に将軍職を譲り、自らは太政大臣となり、翌年には太政大臣職を辞して出家するも、その後も権勢を振るい続けた。
義満は明との交流も積極的に行い、当時盛んだった倭寇の活動を抑え、1402年に明国から「日本大王」の称号を受け、1404年から勘合貿易を開始した。1392年に李氏朝鮮が建国されると、義満は日朝貿易にも力を入れた。
しかし、義満の治世にも各地で有力守護の反乱が続いた。1390年には美濃の守護大名土岐康行が討たれ(土岐氏の乱)、翌1391年には山名氏清が反乱を起こすが敗死(明徳の乱)。1399年には大内義弘が堺で反乱を起こして敗死した(応永の乱)。絶大な権力を手にした義満も、1408年、病により突然死去した。
南朝においては義満の時代に長慶天皇が即位すると(1368)、1371年、九州探題に派遣された今川了俊が九州の南朝勢力を圧迫した。1383年に長慶天皇を継いで後亀山天皇が即位するが、1392年に北朝の後小松天皇に三種の神器(じんぎ)を譲り、南北朝の合体が実現した。
義満の死後、室町幕府の支配力はみるみる衰えていった。義満の後継をめぐり、義満と不和だった斯波義将(しばよしまさ)を始めとする有力守護たちは、義満が寵愛した義嗣(よしつぐ)を退けて義持(よしもち)を支持し、明との国交を断絶した(1411)。義持の時代には斯波氏の他に細川満元(みつもと)・畠山満家(みついえ)を中心とする有力守護たちが政治を動かし、斯波・畠山・細川の三管領体制が確立した。
1416年、義持と不仲だった義嗣が元関東管領の上杉禅秀(ぜんしゅう)と結んで反乱を起こした(上杉禅秀の乱)。上杉は鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)を一時鎌倉から追放したが、持氏は幕府の支援を得て反乱を鎮圧し、義嗣は捕らえられて殺害された(1418)。1419年には倭寇を恐れた朝鮮の太宗が倭寇の本拠地となっていた対馬を襲撃する事件が起こった(応永の外寇)。
1423年に義持は将軍職を息子の義量(よしかず)に譲り、1428年に死去した。
この頃、土着武士や農民により自立した村である惣村(そうそん)が形成され始め、幕府に債権や債務の破棄を命じる「徳政令」を求めたり、守護大名に年貢減免を求めたりする土一揆(つちいっき:農民が主体)や国一揆(くにいっき:国人や地侍が主体)が頻発するようになり、社会不安が増大した。1426年には米価の下落をくいとめようと、近江坂本の馬借(ばしゃく:交通運送業者)が徒党を組んで京都に乱入し、それをきっかけに大規模な徳政一揆が山城・大和から近畿一帯にわたって発生した(正長の土一揆:1428)。その後も5〜10年おきに大きな一揆が続くようになった。
義持の後継は重臣に委ねられ、畠山満家らは石清水八幡宮前でくじ引きにより将軍を決定することにした。選出されたのは青連門院門跡義円(しょうれんもんいんもんぜきぎえん)、後の義教(よしのり:義満の子)だった(1429)。6代将軍義教は求心力に乏しく、勢力を強めた鎌倉公方足利持氏の反幕府的行動や旧南朝勢力の有力守護の挙兵が相次いだ。それに対し、義教は奉公人や奉公衆を編成して将軍への権力集中を進め、重臣会議を構成する有力守護家に対しては、家督継承に介入してその勢力を削ぎ、公家・寺社に対しても弾圧の姿勢を強めたため、その執政は「万人恐怖」と評された。
義教と鎌倉府との関係も悪化し、1438年、ついに幕府と鎌倉府の戦争に突入した(永享の乱)。義教は持氏を滅ぼすと、ますます専制を強め、有力守護の一色義貫(いっしきよしつら)、土岐持頼(ときもちより)らも殺害した。1440年、下総の結城氏朝(ゆうきうじとも)が持氏の遺児春王丸(しゅんおうまる)・安王丸(あんおうまる)を擁して挙兵したが敗退した(結城合戦)。
幕府の高まる圧力に危機感を募らせた有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)・教康(のりやす)父子は義教を自邸に招いて殺害し、領国の播磨で挙兵した(嘉吉の乱)が、山陰の守護大名山名持豊に滅ぼされ、山名家はこの功績により播磨を与えられて政界に勢力を伸ばしていった。
1442年には義教の長男義勝(よしかつ)が7代将軍となったが翌年に死去し、弟の三春(みはる:後の義政:よしまさ)が8代将軍に就任した。幼少の将軍が続いたこの時期は管領の畠山持国(もちくに)・細川勝元(かつもと)らが政務を執ったが、政治は不安定化し、1449年に関東で持氏の遺児成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任すると、関東管領の上杉氏と対立し、1454年に成氏が上杉憲忠(のりただ)を殺害した(享徳の乱)。
義政は奢侈を好んで土木工事を盛んに行い、徳政令を乱発するなどして幕府財政を窮乏化させた。義政には継子がなく、出家していた弟の義視(よしみ)を還俗させて後継と決めていたが(1464)、その直後に正室の日野富子が男子を出産(後の義尚:よしひさ)し(1465)、将軍側近や有力守護の山名持豊(もちとよ:宗全)と結んで義尚の家督継承を強く主張したため、将軍家に家督争いが起こった。義尚の家督継承を策謀し、幕府の実権を握ろうとした伊勢貞親(いせさだちか)らは管領家斯波氏の家督争いに介入した上、義政に義視を暗殺させようとしたが失敗、貞親は細川勝元、山名持豊らによって京都から追放される事件が起こった(文政の政変:1466)。その後、細川・山名両氏は幕府の最高実力者の地位をめぐって激しく対立し、細川側には義視が、山名側には富子と義尚が付いた。
一方、各地の守護大名家でも家督争いが激しさを増していった。管領畠山持国は甥の政長(まさなが)を養子に迎えたが、直後に実子義就(よしなり)が誕生したために政長を廃嫡したため、政長と義就の間で対立が激化し、山名持豊が義就を、細川勝元が政長を支援した。斯波氏の後継争いでは持豊が義廉(よしかど)に、勝元が義敏(よしとし)に付いたため、幕府内は完全に二分され一触即発の状態となった。
1467年、山名持豊が義政に迫って管領畠山政長を罷免に追い込み、代わって山名側の斯波義廉が新寒冷に任命された。同時に山名側の畠山義就が兵を率いて入京し、持豊自身も挙兵して将軍御所に入った。失脚した畠山政長は京都相国寺の北にある上御霊社(かみごりょうしゃ)に陣を張ったが、細川勝元の支援を得られず、義就の軍に襲われて敗走した(上御霊社の戦い)。
【応仁の乱】
1467年5月、細川派の反撃が始まり、山名派を襲撃し、幕府を占領した。以後、細川派は京都東部の室町に(東軍)、山名派は京都西部に陣を敷き(西軍)、京都を中心にたびたび激戦を重ねた。また、地方でも両軍に属した守護代や国人勢力が戦いを繰り広げた。将軍義政はたびたび停戦命令を出したが守られず、次第に政治に関心を失っていった。
序盤は細川派(東軍)が優勢だったが、7月に周防の有力武将大内政弘(おおうちまさひろ)が大軍を率いて上洛し、山名派(西軍)に付くと戦況は一変した。天皇・上皇・将軍義政を擁する東軍に対し、西軍は幕府内で孤立していた足利義視を自派に寝返らせて擁立し(1468)、南朝の子孫である小倉宮(おぐらのみや)を自陣に引き入れて奉戴する(1471)ことで大義名分を得た。
義視が寝返ると、西軍に付いていた日野富子が東軍に移り、息子義尚の将軍職継承(9代)を実現させた。
応仁の乱の最中、諸国では国人や地侍が幕府の奉公衆や公家、寺社の荘園を横領していった。有力守護の六角高頼(ろっかくたかより)は自国の近江の荘園を押領して勢力を拡大し、同時に近江国内の国人・地侍に荘園を横領させることで彼らを六角家家臣団として取り込もうとしていた。応仁の乱後、幕府は横領された土地の奪回を図り、1487年、9代将軍足利義尚は自ら大軍を率いて出陣した。しかし、戦いが長引くにつれて義尚は政治に関心を失い、幕府軍の士気が衰え始めた1489年に義尚が急死しため、幕府軍は一旦近江から撤退した。その2年後(1491)、10代将軍義稙(よしたね)が再度高頼に対し討伐軍を差し向けると、高頼は甲賀郡に逃れた。1493年に細川政元にクーデター(明応の政変)により義稙が失脚すると、六角高頼は勢いを取り戻し、1520年に死去するまで近江一帯を支配し続けた。
1485年、奈良を中心に大規模な土一揆が起こった(山城の国一揆)。応仁の乱後も近畿地方では畠山義就と畠山政長の抗争が続き、主戦場となった南山城は大きな被害を被っていた。1485年末、山城の15歳から60歳までの国人、農民36人(36人衆)が結集し、義就・政長両軍の撤退等を強く要求し、その結果両軍は宇治川北方へ退却していった。翌年2月、山城の国人たちは宇治平等院に集合し、「国中掟法(こくちゅうのじょうほう)」を定め、宇治川以南の南山城を「惣国(そうこく)」として支配し、「月行事」がひと月交代で政治を行った他、裁判などを独自に行い、以後約8年間にわたる自治支配をおこなった。しかしやがて国人同士や国人と農民との間で対立が起こり始め、新たに山城国守護となった伊勢貞陸(さだみち)が守護権を強化すると国人層にも分裂が起こり、1493年に自治放棄を余儀なくされた。
1488年、加賀で一向宗(浄土真宗)門徒による大規模な一揆が起こり、守護の富樫政親(とがしまさちか)に迫って自刃させた(加賀の一向一揆)。浄土真宗では1457年に蓮如(れんにょ)が本願寺住持を継ぎ、八代法王となると、本願寺教団は近畿を中心に各地で勢力を増し、組織力と団結力により軍事的な力も強めて一向一揆を頻繁に行うようになっていた。1465年に大谷本願寺を破却された蓮如は加賀と越前の境にある吉崎に赴き道場を建設した(1471)。1474年に加賀で一向一揆が蜂起し、翌年に富樫政親と戦って敗れたが、1477年には一揆は能登へ拡大した。87年には富樫政親が加賀国守護に就任し、一向宗徒に備えて鷹尾城を修築したが、88年、20万におよぶ門徒連合軍が高尾城を包囲し、正親を倒した。以後、加賀は16世紀後半に織田信長により平定されるまで、約100年間、一向宗徒の農民を中心とする国人が支配する国となった。
9代将軍義尚が六角氏遠征の途上で死去すると、再び後継問題が再燃し、管領細川政元は義政の弟政知(まさとも)の子義澄(よしずみ)を推したが、日野富子は義視の子義稙(よしたね)を推挙し、義政の支持を得て義稙を10代将軍に立てることに成功した。
1490年に隠棲していた義政が亡くなると、義視・義稙父子の専横が目立つようになり、日野富子も二人を距離を置くようになった。
管領畠山政長は、応仁の乱で対立した畠山義就の子基家(もといえ)討伐を義稙に進言し、政長、義稙らが基家が支配する河内へ出陣すると、そのすきに京都で細川政元が政変を起こした。政元は日野富子と組んで11代将軍に義澄を擁立し、義稙・政長に攻撃を仕掛けると、政長は敗死し、義稙は将軍職を追われ、越中へ落ち延びた(明応の政変)。これにより将軍の権威はますます失墜し、斯波氏・畠山氏も没落したため、以後細川家が管領を独占し、幕府の実権を握ることになった。
【北条早雲】
応仁の乱のさなかの1476年、駿河の当主今川義忠(よしただ)が死去すると、今川家に家督相続の問題が起こり、家中が二派に分かれて争った。するとこれに乗じて、駿河の支配を狙った扇谷上杉定正と堀越公方足利政知(まさとも)がそれぞれ駿河に出兵して圧力をかけてきたが、今川家に身を寄せていた北条早雲が家督継承問題を解決し、定正や政知の介入を防いた。
1491年、伊豆の堀越公方足利政知が死ぬと、ここでも家督争いが発生し、政知の子茶茶丸が継母と弟を殺害し、力ずくで2代目堀越公方の座についた。早雲は時を見て韮山の堀越御所を急襲し、茶茶丸を自害に追い込んで伊豆を手中に収めた。
1494年に扇谷上杉定正、小田原城主の大森氏頼、相模の名門三浦時高ら有力大名が相次いで死去した。関東管領の上杉家が扇谷、山内の二派に分かれて抗争を続けるさなか、小田原城主に氏頼の子藤頼が就くと、早雲は藤頼に接近し、藤頼が気を許したところで奇襲戦法に出て一気に小田原城を攻め落とした。
その後、早雲は相模の国平定に乗り出した。緒戦となった相模西部での山内上杉顕定との戦いでは苦戦するが、1504年、武蔵立川原の戦いでは今川氏親(うじちか)とともに扇谷上杉朝良(ともよし)を援護し、山内上杉軍に大勝した。早雲に脅威を感じた両上杉家が手を結ぶと、早雲は相模最大の勢力を持つ扇屋上杉の重臣三浦道寸(どうすん)に狙いを定めた。
1512年、早雲は岡崎城攻撃を開始すると道寸は防ぎきれずに住吉城、さらに三浦半島の新井城へと逃れた。早雲は三浦半島の付け根に玉縄城を築いて糧道を断ち、兵糧攻めを行った。3年後、ついに三浦軍は全員が城から出て玉砕し、相模全土が早雲の手に落ちた。
早雲はその3年後に88歳で死去したが、その後に続く「北条五代百年」の基礎を築き上げ、北条家の2代氏綱、3代氏康らは管領家の両上杉氏、太田氏、里見氏らの強敵を次々と打ち破り、関東制覇への道を進んでいった。
【朝倉孝景】
朝倉氏の出自は但馬の地方豪族で、南北朝期に朝倉広景(ひろかげ)が北朝側の斯波高経(たかつね)に従って越前に入ったのが越前朝倉氏の始まりとなった。南北朝以降、越前守護は管領家の斯波氏が継承してきたが、次第に守護代の甲斐氏が勢力を増し、斯波氏と対立するようになった。
応仁の乱が勃発すると、広景から数えて7代目の当主朝倉孝景(たかかげ)は斯波氏・甲斐氏とともに西軍(山名派)に属して京都で戦ったが、東軍(細川派)の大将細川勝元が孝景に対し、越前守護任命を条件に寝返らせ、1471年に守護に就任すると、孝景は斯波氏、甲斐氏を抑えて越前をほぼ平定することに成功した。以後、朝倉氏は一乗谷(福井)に居城を構え、長らく越前を支配し続けた。
しかし、1488年に加賀の一向一揆が起こり、加賀国守護富樫政親が自殺に追いやられると、1494年に一揆勢は越前に侵入するも、朝倉氏に撃退された。1506年、再び一向一揆勢は加賀国境から続々と越前に侵入し、30万の大軍で以て朝倉氏の最後の防衛線である九頭竜川にまで迫った。孝景の子朝倉教景(のりかげ、宗滴:そうてき)は1万の兵を率いて先手を打って渡河し、総攻撃をかけることにより一揆勢を破ることに成功した(永正の一向一揆)。教景の子貞景(さだかげ)は加賀の一向宗の拠点である吉崎道場を始め、越前の本願寺末寺を次々に破却し、門徒たちを国外追放処分とした。以後、朝倉家と一向宗勢力は越前で対立を続けることになった。
明応の政変(1493)により細川政元が将軍義稙を追放し、義澄を11代将軍に擁立した後、細川家内部にも分裂が始まった。発端は、継嗣がなかった政元が公家の九条家から澄之(すみゆき)、一族の阿波守護家から澄元(すみもと)、備中守護細川政春から高国(たかくに)をそれぞれ養子に迎えたことで、細川家家臣団は澄之、澄元の二派に分かれて抗争を始めた。そして1507年、澄之派の家臣香西元長(こうざいもとなが)らが継嗣に澄元を推していた政元を謀殺し、澄元派を京都から一掃、将軍足利義澄に迫って澄之を後嗣に認めさせた。これに対し、澄元派が反撃を行い、細川高国の支援を受けて澄之を滅ぼし、近江に追放されていた澄元が上洛して細川家の家督を継いだ。
この細川家の内紛に乗じ、前将軍義稙の一派による攻撃が強まり、義稙を擁した大内義興(よしおき)が上洛してくると、高国がこんどは義稙側に付き、将軍義澄と細川澄元は京から近江へと放逐された(1508)。その後義稙は将軍に返り咲き、高国は管領に就任して大内義興と組み、連合政権を築いた。
京を追われた前将軍義澄は、各地で軍勢を募り、京都奪回を図った。阿波の細川澄元、細川政賢(まさたか)、淡路守護の細川尚治(ひさはる)らが義澄に加勢し、1511年に京都侵攻を開始。高国の軍勢は京都を明け渡し、義稙と高国は丹波へ撤退した。
ところが、侵攻側の中核であった義澄が入京を果たす直前に近江で急死した。それでも政権奪取を目指す細川澄元は京都の船岡山に布陣し、義稙・高国との決戦に備えた。すると強大な軍事力を誇る大内義興が義稙側に付いて参戦し、義稙・高国らと澄元を挟撃したため、澄元軍は敗れ、政賢らが戦死するなどの大打撃を被った(船岡山の戦い)。義稙は将軍の位を保ち、高国・義興による連合政権が再び政治を支配した。しかし、大内義興の領国である中国地方では国人たちが勢力を伸ばしつつあり、出雲・石見を支配する尼子氏の脅威が増してくると、義興は地元を監視するために、1518年に京都を離れ周防へ帰国した。
大内義興が領地に帰国すると、義稙と高国の対立が表面化してきた。1520年、京都を追われていた細川澄元がこの機会に畿内へ攻め込み、高国を近江に追放した。将軍義稙は京都に残り、澄元軍と合流した。高国は近江を支配していた六角高頼と結んで再び京都を奪回した。翌1521年に澄元が病死すると、後ろ盾を失った義稙は出奔し、高国は11代将軍義澄の子義晴(よしはる)を12代将軍に据えた。義晴は幼少であったため、高国はますます専横を強めたが、1526年に高国の家臣団に内部抗争が起こり、高国政権の弱体化が始まった。
それに伴い、細川澄元の子晴元(はるもと)が将軍義晴の弟義維(よしつな)を擁して勢力を拡大してきた。1531年、晴元の軍勢は重臣三好元長の力を借りて天王寺の戦いで高国を破り、切腹させたが、翌1532年には晴元陣営で内部分裂が起こり、晴元は三好元長を自刃に追い込み、義維も追放した。こうした中、各地では一向一揆が頻発し、晴元は敵対勢力であった将軍義晴、六角定頼と結んで一揆を鎮圧し、山科本願寺を焼き討ちした。これを機に将軍義晴と細川晴元の関係が改善し、1534年に義晴が京都に迎えられ、晴元が政治の実権を握った。
1534年に関係を改善した12代将軍義晴と細川晴元が入京し、晴元がしばらくの間安定政権を築いていたが、1549年、晴元が支持する三好政長(まさなが)が細川高国の子氏綱(うじつな)と三好元長の子長慶(ながよし)に討たれると、晴元は将軍義晴・義輝(よしてる)父子とともに近江へ逃亡した。三好長慶は義輝を13代将軍に、晴元と対立していた細川氏綱を管領に形式的に据えて、政治の実権を握った。その後、細川晴元は1561年に長慶と和睦して隠居し、管領細川家は政治の舞台から姿を消した。
三好長慶は、三好家の長逸(ながゆき)、正康(まさやす)、家臣の岩成友通(いわなりともみち)のいわゆる「三好三人衆」の活躍に助けられて政権を運営したが、間もなく十河一存(そごうかずまさ:弟)、三好義賢(よしかた:弟)、三好義興(よしおき:子)らが相次いで世を去り、次第に衰退していった。晩年は家臣の松永久秀(ひさひで)に実権を奪われ、1564年に久秀の讒言を受けて弟安宅冬康(あたぎふゆやす)を誅殺した直後に河内で没した。
【伊達氏】
1522年、東北で勢力を拡大していた伊達家の14代当主稙宗(たねむね)が幕府より陸奥国守護に任命された。室町幕府は14世紀後半に奥州を鎌倉府の管轄とし、1400年に大崎詮持(おおさきあきもち)を奥州探題に任じた。以後、大崎氏が東北地方で勢力を保ち、奥州から分離した西方の出羽では、羽州探題を最上氏が世襲していた。しかしその後、伊達市(現、福島県)から興った伊達氏が次第に東北地方で勢力を伸ばし始め、11代持宗(もちむね)の頃より室町幕府に恭順の意を示すことによって幕府の信頼を勝ち得た。14代稙宗が足利将軍義稙より名前の一字を貰い、新たに設置された陸奥の守護職に就任すると、大崎氏・最上氏による奥州・羽州探題制は事実上崩壊し、伊達家は周囲の有力大名との勢力争いに俄然優位に立つこととなった。
その後1542〜48年の天文の乱において、稙宗は子晴宗(はるむね)に襲撃され、1565年に死去した。稙宗が晴宗の弟実元(さねもと)を越後上杉家に養子に出そうとしたため、伊達家の戦力減を危惧した晴宗はこれに反対し、父を幽閉した。家臣らによって救出された稙宗は晴宗と父子の合戦に突入し、6年にわたり全奥州を巻き込んで激しい戦いが繰り広げられたが、最終的には稙宗が隠居し、晴宗が家督を継ぐことで決着した。
晴宗は1548年に陸奥の桑折(こおり)の西山城から出羽の米沢城に居城を移し、1553年には領国家臣団に知行判物を一斉に再交付して知行を改めた。その後、有力家臣中野氏の扱いなどをめぐって子輝宗(てるむね)と対立し、1564年頃に杉目城(すぎのめじょう:福島城)で隠居に追い込まれ、輝宗が家督を継いだ。
【大内氏・尼子氏】
1508年、中国地方の実力者大内義興(よしおき)が足利将軍義稙を擁して入京し、義稙を将軍に復位させ、自らは管領代として細川高国とともに京都で政治の実権を握っていたとき、安芸国に出雲の尼子経久(つねひさ)が侵入した(1519)。義興は直ちに帰国して自ら陣頭に立ち、安芸、備後の各地で尼子氏の軍と戦った。1521年頃には経久が山陰山陽11ヶ国を制圧し、1524年には毛利元就と連合して義興と備後銀山城で交戦した。
1528年に義興が死去し、子義隆(よしたか)が家督を相続すると、領国は周防・長門・石見・備後・安芸・豊前・筑前の7ヶ国の守護を兼ね、中国九州地方で一大勢力を築いた。室町将軍3代義満が開いた日明貿易(勘合貿易)は、その後幕府から大内氏・細川氏の手に移ったが、大内氏は博多商人、細川氏は堺商人と結んで激しく争い、ついに1523年に寧波(ニンポー)で両者が衝突し(寧波の乱)、勝者となった大内氏が以後貿易を独占して富を蓄えた。
義隆は1532年頃から少弐(しょうに)、大友両氏と豊前、筑前、肥前で戦い、九州北部を制圧した。その後も尼子氏との争いが続いたため、義隆は上洛を断念して分国統治に専念し、安芸の毛利元就や石見の吉見正頼らとの結束を図った。しかし、次第に学問や芸能に没頭し、軍事は陶氏、内藤氏、杉氏らの守護代クラスの武将任せとなったため、家臣の信頼を失うようになった。
1537年、尼子経久が孫の晴久(はるひさ)に家督を譲り、その晴久は1540年に石見銀山を攻略した。1541年、大内軍は天神山に陣を張り、三塚山の尼子軍を撃破した。1551年、山内家の重臣陶晴賢(すえはるかた)が他の重臣杉重矩(すぎしげのり)、内藤興宣(おきのり)らと図って反乱を起こし、山口の筑山館にいた義隆を襲撃した。義隆は長門の美祢郡岩永へ落ち延び、海路逃走を試みたが果たせず、長門深川の大寧寺で自刃した。翌年、晴賢は甥の大友晴英(はるひで、後義長:よしなが)に大内家の家督を継がせたが、実権は晴賢が握っていた。1555年、晴賢は厳島で毛利元就と戦い、敗死した。
【毛利氏】
中国地方で隆盛を誇った大内家の義隆が1551年に家臣の陶晴賢によって倒されると、その後中国地方は周防の陶氏、安芸の毛利氏、出雲の尼子氏らによる割拠の時代となった。
1523年に毛利家の家督を継いだ毛利元就(もとなり)は、1544年に三男隆景(たかかげ)を水軍で有名な小早川家に、1550年には二男元春(もとはる)を安芸の名門吉川(きっかわ)家にそれぞれ養子に入れ、両家を事実上支配下においた。
元就は1546年に長男隆元(たかもと)に家督を譲ったが、その後も中国地方の覇権をめぐって戦いを続け、1555年には同盟関係にあった陶氏と厳島の戦いに臨み、約2万の陶軍を4000人程度の寡兵で奇襲し、陶軍を破って晴賢を自害させた。1566年には尼子氏を富田月山(とだがっさん)城の戦いで破り、中国地方のほぼ全土を手中に収めた。
【今川氏】
東海地方では今川氏が台頭してきた。清和源氏の流れをくむ今川氏は南北朝の争乱で手柄を立て、遠江・駿河2ヶ国の守護となった。応仁の乱の頃、当主義忠(よしただ)が死去すると、嫡子竜王丸(たつおうまる)一派と従兄弟の小鹿範満(のりみつ)一派とが家督をめぐって争った。叔父に当たる北条早雲が仲裁に入り、龍王丸が今川氏親(うじちか)と名を改め、駿河守護に就任した。
氏親は土地と農民を直接支配する検地を行い、分国法「今川仮名目録」を制定し、産業を振興し金山を開発するなど為政者として優れた能力を発揮した。氏家の死後、嫡男氏輝(うじてる)が家督を継いだが夭折し、氏輝の弟義元(よしもと)が家督争いに勝利して当主に就くと(1536)、今川家は三河に進出することになった。
1541年、甲斐の武田家で武田信虎が息子信玄に追放されると、義元は信虎を自国に保護した。1554年には北条、武田両氏と三国同盟を結び、上洛をめざし始めた。
1560年5月、義元は2万5千の大軍を率いて西の尾張を攻め、丸根砦と鷲津砦を陥落させたが、織田信長率いる3000の兵に桶狭間で急襲され、軍は壊滅し、義元は斬首された。
【武田氏】
1507年、清和源氏の流れをくむ甲斐武田氏の信虎(のぶとら)が14歳で家督を継ぐと、武田氏は急速に勢力を拡大し始めた。信虎の家督相続直後に叔父信恵(のぶよし)が郡内の小山田氏らと結んで反乱を起こすが、信虎はこれを打ち破り、以後大井、栗原、今井、穴山ら武田一族や小山田氏らと抗争・和睦を繰り返しながら権力の地歩を固めていった。1519年に居館を石和(いさわ)から甲府に移し、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を造営して拠点とした。
1524年には相模の北条氏と戦い、北条氏綱を破った。1535年に今川氏輝、北条氏綱と戦うが、37年には今川義元と同盟を結び、北条氏綱と断交した。
しかし、1541年、嫡子晴信(はるのぶ、信玄:しんげん)が家臣と組んでクーデターを起こし、娘婿の駿河の大名今川義元のもとに追放された。その後、信虎は今川義元が織田信長に敗れると京都へ向かい、晩年は諸国を流浪した後に信濃で没した(81歳)。
信虎の長男信玄は、弟の信繁(のぶしげ)を寵愛する父と対立し、武田家重臣の板垣信方(のぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)らと組んで父を駿河に追放し、武田家19代当主に就いた。
その後、信濃平定に乗り出した信玄は、1542年、伊奈の高遠頼継(たかとおよりつぐ)と結んで諏訪頼重(すわよりしげ)を攻め、上原城、桑原城を落として諏訪を平定した。領土問題から高遠頼継と対立すると、頼継らを滅ぼして南信濃を制圧した(1545)。さらに1547年、佐久(さく)に勢力を持つ村上義清(よしきよ)を攻め、志賀城を落とすも、翌48年に上田原で義清に敗北し、板垣信方、甘利虎泰ら多くの重臣を失った。武田の不利に乗じて西信濃の豪族小笠原長時(ながとき)が攻め込んでくると、これを塩尻峠で破った。1550年、戸石崩れの戦いで再び義清に敗れるも、翌51年に重臣真田幸隆(ゆきたか)の策により戸石城を点劇的に奪還して勢力を取り戻し、1553年、ついに義清の葛尾(かつらお)城を攻略して信濃全域を制圧した。
村上義清、小笠原長時ら信濃の豪族たちは上杉謙信を頼って越後へ落ち延びていき、その後信玄は謙信とたびたび戦うようになった。
1553年、信濃更科郡を流れる千曲川と犀川の合流地点にある川中島で武田軍と上杉軍の最初の戦いが起こり、以後11年間に5回の合戦が繰り返されたが、決着はつかなかった。
【上杉氏】
長尾氏は桓武平氏の流れをくみ、上杉氏が支配領域のうち越後で守護代を務めていた。長尾為景(ためかげ)が没すると、長男晴景(はるかげ)が家督を継いだが、病弱で政務に支障をきたしたため、弟景虎(かげとら)が還俗して1543年に栃尾(とちお)城主となった。その後景虎と晴景の間に相続争いが起こるが、1548年、越後の守護上杉貞実(さださね)の仲裁により、景虎が家督を継ぎ、晴景は隠居することで決着した。
1550年に貞実が死去すると、足利将軍の命により、景虎が越後国主となった。すると一族の長尾政景(まさかげ)が景虎の家督相続に不満を抱いて反乱を起こしたが、翌51年に鎮圧された。1553年に隣国の信濃を武田信玄が制覇し、村上義清、小笠原長時ら信濃の豪族が景虎を頼って越後に落ち延びてくると、景虎は信玄と衝突するようになり、1553年から1564年まで5回にわたって信濃の川中島で直接対決が行われた。その間、1556年に景虎は突然家督と越後を捨てて高野山での出家を宣言したが、家臣の説得によりすぐに撤回した。
1558年、関東管領の山内上杉家の上杉憲政(のりまさ)が北条氏の攻撃を受け、景虎を頼って越後に逃げ込むと、1561年に景虎は10万の大軍を率いて北条氏の小田原城を攻めたが、城を落とすことはできなかった。しかしこのとき、景虎は憲政一族の保護と上杉家の所領回復に務める代償として、上杉家の家督と関東管領の職を譲り受け、以後上杉謙信と名乗った。
【北条氏】
北条早雲が三浦氏を滅ぼし、関東で権力基盤を固めた後、2代目北条氏綱(うじつな)は関東・東海の有力武将と戦い、武蔵・上総・下総・相模・甲斐・駿河の6ヶ国にわたって支配を広げ、扇谷上杉氏の拠点である江戸城を奪取した。氏綱の子氏康(うじやす)が後を継ぐと、さらに勢力拡大を続け、1546年4月、扇谷・山内両上杉家が、古河公方や近隣の同盟国とともに8万の大軍で北条家が守る川越城を攻囲したが、氏康は8,000の精鋭を率いて夜襲をかけ、敵軍を撃退して名を挙げた(河越夜戦)。この戦いで扇谷上杉氏の当主朝定(ともさだ)は討ち死にし、山内上杉家も衰退し、1552年、関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)は、越後の長尾景虎を頼って落ち延びた。関東一帯の支配を確立した氏康は隣国の今川、武田両氏と「三国同盟」を締結し、自国領土の安定を図った。
【斎藤道三】
美濃の斎藤道三(どうさん)の父は京都妙覚寺の修行僧だったが、還俗して美濃国守護土岐氏の重臣長井氏に仕えた。その子道三は油商人から身を起こし、1530年に名門長井長弘を暗殺し、名跡を継いで長井新九郎規秀(のりひで)と名乗った。1538年には守護代斎藤利隆の病没を受け、斎藤氏を継承し、斎藤利政と名を変え、翌年、稲葉山城(岐阜城)の城郭を大改築して本拠とした。
1542年、土岐頼芸(ときよりなり)の大桑城を包囲し、頼芸を尾張に放逐した。1544年、頼芸らが尾張の織田信秀とともに美濃に侵攻してくると、道三はこれと和議を結んだ。1547年にも織田信秀が稲葉山城を攻撃したが、道三によって撃退された。翌48年、大垣城を攻め落とすと、織田信秀と和睦を結び、娘濃姫(のうひめ)を信秀の子信長に嫁がせた。
1552年、ついに大桑城を攻略し、宿敵土岐頼芸を追放、名実ともに美濃一国の支配を完成させた。
しかし、道三は子の義竜(よしたつ)を嫌い、1554年にゆずった譲った家督を取り上げようと画策したため、義竜は弟たちを殺害し、父にも戦いを挑んできた。1556年に道三と義竜は長良川で対戦したが、兵士の多くは義竜側に付き、道三はあえなく敗死した(63歳)。
【織田氏】
織田信長の家系は、尾張の守護代織田氏の支流で、祖父織田弾正忠信定(だんじょうちゅうのぶさだ)は伊勢湾の港湾商業都市津島を攻略して勢力下に置き、その子信秀(のぶひで)は1532年頃、今川氏親が築城した那古野(なごや)城を攻略し、勝幡(しょばた)城から古渡(ふるわたり)城に拠点を移して三河侵攻を狙った。
1540年に三河国安祥城を攻略し、42年に三河国小豆坂で今川義元を破り、西三河を制圧した。1544年には朝倉氏と連合して美濃に侵入するが、斎藤道三に敗れて撤兵した。47年にも再度美濃に出兵したが、稲葉山城下で道三に敗北した。斎藤氏の打倒が困難とみると、1548年に道三と和睦を結び、道三の娘濃姫を息子信長の嫁にもらった。信秀はその後も尾張統一を目指して戦いを続けたが、1551年に末森城で病死した(41歳)。
1551年、織田信秀が亡くなると、子信長が兄信広らを退けて家督を相続し、1559年に尾張を平定した。
1560年5月、駿河地方に強固な基盤を築いた今川義元(よしもと)が、2万5000の大率いて京に向けて進軍を開始し、西の尾張に侵入すると、信長は桶狭間においてわずか3,000の兵で奇襲攻撃し、今川軍を打ち破って義元の首を討ち取り、一躍名を挙げた。
今川家に人質となっていた徳川家康(松平元康)は開放され、三河に戻って岡崎城主となり、信長と同盟を結んだ(清洲同盟:1562)。しかし、翌63年には三河で一向一揆が起こり、激戦の末家康は一揆を鎮圧して三河を平定した。
1566年、信長は斎藤道三の死後、義竜の子竜興(たつおき)が61年から領主となっていた美濃への進出を図った。斎藤氏の居城稲葉山城を攻略するため、城から10キロ離れた墨俣(すのまた)に橋頭堡を築こうとしたが、斎藤方の妨害によりなかなか成功しなかった。しかし、身分の低い家臣だった木下藤吉郎が名乗りを上げ、蜂須賀小六ら地元の武士らの協力を得て短期間で墨俣城を完成させたため、藤吉郎はその功績により墨俣城の城代に任ぜられた。信長は三河の徳川家康、甲斐の武田信玄、近江の浅井長政らと同盟を結んで美濃を囲い込んだ。1567年、稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就の「西美濃三人衆」と呼ばれた三氏が信長側に寝返り、稲葉山城を落として美濃を手中に収めた。信長は拠点をそれまでの小牧山城から稲葉山城に移し、城下の地名「井ノ口」を「岐阜」と改めた。
京都で13代将軍義輝を立て、管領細川家を抑えて政治の実権を握っていた三好長慶が1564年に没すると、長慶の晩年に勢力を伸ばしていた松永久秀が、「三好三人衆」とともに将軍義輝を暗殺し(1565)、畿内に君臨するようになった。同年、義栄(よしひで)義輝の後を継いぎ、14代将軍に就任した。義輝の弟義昭(よしあき)は近江の六角義賢を頼って京都から逃れ、更に越前の朝倉義景のもとへ身を寄せた。松永久秀は1567年、対立するようになった三好三人衆が立て籠もる東大寺大仏殿を焼き払い、一気に悪名を馳せた。
1568年、信長を頼って美濃に入った義昭を奉じ、信長は上洛軍を編成して京に向けて進軍を開始した。その途上、多くの土豪や大名たちが信長支持にまわったが、近江の六角義賢は義栄を支持して抵抗したため、信長は六角氏の拠る観音寺城を攻略し、義賢は伊賀に逃亡した。
上洛を果たした信長は和泉国の堺、近江の大津や草津を手中に収め、経済基盤を強化した。翌69年に、三好氏の残党が義昭を襲撃する事件が起こると、信長は治安維持のために二条城を築城して義昭に進呈し、皇居や内裏の修理も行った。信長のもとには、西美濃三人衆、明智光秀、細川藤孝ら優秀な武将たちが集まった。
京を支配していた松永久秀は、信長が上洛すると天下無双の茶入「九十九髪茄子(つくもがみなす)」を差し出して降伏し、大和国を任された。
信長とともに上洛した足利義昭は15代将軍に就任し(1568)、信長を信頼し、信長も二条城を増築して義昭に進呈するなど良好な関係にあったが、義昭が提示した副将軍職を信長は辞退し、翌69年に「殿中御掟」を定めて将軍の行動を制限すると、次第に両者の間に対立が起こってきた。1570年に信長は義昭に「五ヶ条の条書」を突きつけ、政治の実権を信長が握ることを認めさせると、義昭は武田、朝倉、浅井、本願寺など有力者による信長包囲網形成を密かに画策した。
1570年、信長は長年の敵であった越前朝倉氏を攻略するために出陣した。しかしその遠征途上、朝倉氏と同盟関係にあった近江の浅井長政が立ちはだかった。長政は信長の妹お市を妻に迎えており、信長と朝倉氏との調停役を務めていたが、信長がこれを無視して朝倉義景攻略を開始しため、越前の金ヶ崎城を攻囲していた織田軍を長政が六角氏とともに背後から攻め、朝倉軍と浅井軍に挟撃された信長はすぐさま京都に撤退した。しかしその2ヶ月後、信長は徳川家康と組んで大軍で長政の居城小谷城に迫り、朝倉・浅井連合軍を姉川の戦いで破った。
同年、以前から敵対関係にあった大坂の石山本願寺勢力が、蓮如の子孫である法王顕如(けんにょ)をリーダーとして、三好一派を討伐中だった信長に対して挙兵してきた(石山戦争)。信長側は戦いで始終劣勢に立ち、姉川の戦いを生き延びた浅井・朝倉軍も京都に迫ってきたため、撤退を余儀なくされた。しかし、翌1571年には浅井・朝倉氏と結ぶ延暦寺を焼き討ちにし、寺社勢力に打撃を与えた。1572年には、信長と本願寺はいったん講和したが、まもなく破棄状態となり、両者の争いは1580年に顕如が石山本願寺を退去するまで、約11年間続いた。その間、1570年に伊勢の長島で本願寺門徒が蜂起して始まった長島一向一揆を、信長は1574年に徹底攻撃し、門徒2万人を焼き殺して殲滅した。
1571年、北条氏政と同盟を復活させた武田信玄は、信長と対立するようになった将軍義昭と密かに結託して、甲斐から西方に向けて進撃を開始した。翌72年、武田軍2万5000は徳川家康の領地遠江に侵入して徳川軍1万1000と衝突し、当時最強の騎馬隊を誇る武田軍が終始優位に戦いを進めた。しかし、武田軍は家康の控える曳馬(ひくま)城(後、浜松城)を通り過ぎて三方原方面に向かったため、無視されて激怒した家康は直ちに出陣したが、徳川軍は壊滅状態となって曳馬城に引き上げた。信玄はその後三河に攻め込み、尾張、美濃まで進軍したが、信濃の駒場(こまんば)で病没し(1573年4月)、入京の夢は絶たれた。
信玄の上洛に期待をかけた将軍義昭は1573年に信長と断交すると、信長は即座に入京し、上京に放火して二条城を包囲した。義昭は信玄の死を知ると直ちに降伏し、京都を追放されて流浪の身となり、備後の鞆(とも)で毛利氏に保護された(室町幕府滅亡:1573年7月)。
1573年7月に将軍義昭を京から追放して室町幕府を滅亡させた信長は、同年8月、北近江の浅井氏の小谷城を攻囲した。救援のために駆けつけた朝倉義景は信長軍の圧倒的な兵力を前に撤退するが、信長はそれを追撃して「刀根坂の戦い」で勝利した。義景は本拠地一乗谷城から逃亡し、越前大野での決戦に臨むが、一族の朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りに遭い、六坊顕証寺で自刃に追い込まれ、朝倉家は滅亡した。その後、信長は取って返して小谷城を攻撃し、浅井長政と父久政(ひさまさ)を自害させた。長政の妻で信長の妹お市と3人の子供たちは落城前に信長に引き取られた。
1573年に武田信玄が病死すると、勝頼(かつより)が家督を継いだ。1574年、勝頼は徳川領の遠江高天神城を攻略し、1575年、徳川家康に奪われていた三河国長篠城を奪還するために挙兵した。武田軍1万5000に対し、信長・家康連合軍は3万5000の兵を以て出陣し、長篠城の西にある設楽原(したらがはら)で衝突した(長篠合戦)。当時最強と言われた武田軍の騎馬隊に対し、信長は足軽鉄砲隊を組織し、多数の戦死者を出しながらも武田軍に圧勝した。多くの重臣をこの戦いで失い、辛くも甲斐へ逃げ戻った勝頼は、1577年に上杉謙信と同盟を結び、翌78年に遠江に侵入して徳川軍と衝突した。しかし1581年に徳川軍に高天神城を攻め落とされ、家臣の造反が相次いで起こり、1582年に天目山(てんもくさん)の戦いで追い詰められ、妻子とともに自害し、武田家は滅亡した。
石山本願寺と信長の闘い(石山戦争)が続いているさなかの1574年、朝倉氏が滅亡した後に織田方の武将が支配していた越前で一向宗勢力が蜂起し、織田方の武将を倒し、越前を本願寺領国として支配した。翌75年、信長は10万の大軍を率いて敦賀に入り、本覚寺、西光寺など一向宗の拠点を次々と襲撃し、一揆勢の総大将下間頼照(しもつまよりてる)らを倒して一揆を鎮圧した。その後信長は残党狩りを徹底的に行い、越前の統治を重臣柴田勝家に委ねた(越前一向一揆)。
柴田勝家は信長の父信秀の代より織田家に仕えていた武将で、信長のもとで緒戦を戦い、多くの軍功を挙げて信長の絶大な信頼を勝ち得ていた。越前着任後、佐々成政(さっさなりまさ)、佐久間盛政(もりまさ)、前田利家ら有力武将を率いて加賀の一向一揆を鎮圧し(1580)、能登・越中にも勢力を伸ばして越後の上杉氏や一向一揆勢力との対決に備えた。また、浅井長政の未亡人となったお市を妻に迎えた。
1576年、信長は近江の安土山で安土城築城に着手し、自ら陣頭指揮を取り、3年後に7重の天守閣を持つ巨大な城郭を完成させた。城下には各地から商人を集め、楽市楽座を実施して経済を活性化させた。
同年、武田氏や一向一揆勢を共通の敵として同盟関係にあった上杉謙信が北陸遠征を開始した。謙信は本願寺教団と同盟を結んで信長との関係を断ち、1576年11月に信長側の畠山氏が拠る能登の七尾城を攻め、翌年9月に落城させると、続いて信長軍を加賀の手取川で撃破した(手取川の戦い)。しかし、謙信はすぐには上洛せず、北条氏攻撃準備中の1578年3月に脳溢血で死去した。後に七尾を含む能登一国は前田利家に委ねられた。
同年、大坂湾岸の淀川河口にあった石山本願寺を信長が海上から包囲するために水軍を派遣すると、本願寺勢力と協力関係にあった中国の毛利輝元(てるもと)の水軍が本願寺救援に駆けつけ、織田水軍と激しく衝突した。毛利水軍の中心は村上水軍の村上武吉・元吉父子、小早川隆景率いる小早川水軍の浦宗勝らで、毛利方は「焙烙火矢」と呼ばれる火薬を使い、織田水軍の主軸である九鬼水軍(大将九鬼嘉隆)の木造船を次々と炎上させて撃退した。
信長のもとで数々の戦功を挙げ、1573年には長浜城の大名にまで昇進していた羽柴秀吉(木下藤吉郎)は、1577年に信長の命令により毛利氏征討の大将として中国攻めを開始し、播磨、但馬、因幡を次々と攻め落としていった。1578年3月、秀吉が3万の大軍を率いて播磨の三木城(城主別所長治)を包囲すると、長治は2万の兵で籠城した。しかし、毛利氏の救援が及ばず、補給路を断たれた別所軍は飢餓に陥り、1580年に秀吉の総攻撃により落城した(三木の干殺し)。
前年の1579年には、備前・美作・播磨の一部を支配し、岡山城を本拠としていた有力大名の宇喜多直家が毛利側から秀吉方に寝返り、1581年に直家が病死すると、子秀家が家督を継ぎ、秀吉配下の有力武将として中国攻めを継続した。
三木城を落として播磨を手中に収めた秀吉は、翌81年に毛利方の吉川(きっかわ)氏が守る因幡の鳥取城攻略に向かった。同年6月に兵2万を率いて鳥取城と支城の丸山城攻略を開始した秀吉は、再び方位持久戦を採用し、4000の兵で籠城した吉川経家(つねいえ)は毛利方の援軍を得られずに兵糧を断たれて飢餓に苦しみ、1581年10月に自刃した(飢え殺し)。
中国攻めを続ける秀吉は、1582年5月、毛利輝元と結ぶ清水宗治(むねはる)の居城、備中高松城の攻撃に取りかかった。高松城は沼田と湿地に囲まれた難攻不落であったため、軍師黒田如水(じょすい)の意見を用い、6月の梅雨をにらんで城の周囲に築堤し、近くの足守川の流れを変えて城の周囲を水没させた。毛利方からは小早川隆景、吉川元春らが援軍に駆けつけたが、手出しができず、両軍のにらみ合いが続いた。
秀吉が中国侵攻を進めているさなかの1578年、摂津に勢力を張る荒木村重(むらしげ)が突如信長に反旗を翻し、毛利氏、本願寺と結んで有岡城に立てこもった。村重配下の兵が本願寺に兵糧を送っていたとの噂が流されたことがきっかけだった。信長は光秀や秀吉を派遣して説得を試みたが村重は折れず、翌1579年には家族や部下を置いて単身で脱出し、子村次(むらつぐ)のいる尼崎城に移って籠城を続けた。しかし、信長の兵に包囲されると、翌80年に安芸の毛利領へ逃亡、後に剃髪して千利休の弟子となり秀吉に仕えた。
同年(1578)、信長は毛利水軍に敗れた九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて建造させた新たな軍用船「安宅丸(あたけまる)」を率いて再び本願寺の海上封鎖を再開した。船体を鉄板で覆い、最新式の大砲も備えたこの軍用船に毛利水軍の焙烙火矢はまったく通用せず、織田方の砲撃を受けて毛利方は完敗した。この敗退により、本願寺方は講和を余儀なくされ、2年後に本願寺を明け渡して石山戦争は終結した。
九鬼嘉隆はこの戦功により、伊勢志摩で3万5千石の大名になり、鳥羽に本拠を構えた。信長没後、秀吉に仕え、1592年に秀吉の朝鮮出兵に参加し、1600年の関が原の戦いでは西軍に属し、敗戦して自刃した。
明智光秀は元越前の朝倉氏に仕えていたが、将軍義昭が越前から信長のもとへ赴く際に随行し、義昭を信長を引き合わせたといわれる。その後信長に使えて上洛し、京都においては近畿での政務を担当し、数々の戦功を立てて近江国滋賀を与えられ、坂本城を築城して城主となった(1571)。
1575年から丹波攻略に着手し、1579年に丹波・丹後を平定した。
1582年、中国地方で毛利氏を攻撃中の秀吉への援軍を信長より命じられた明智光秀は6月1日に1万3000の兵を率いて丹波亀山城を出発し、老ノ坂から桂川を経て京都に進軍し、6月2日早朝に少数の手勢とともに本能寺に宿泊していた信長を襲撃。信長は寺に火を放って自害し(49歳)、光秀は直ちに信長の子信忠も討った(本能寺の変)。
同年5月から秀吉は毛利元春と結ぶ清水宗治の居城、備中高松城を攻撃し、水攻めの最中だったが、信長の死を知ると直ちに毛利方との講和交渉に入り、城主宗治の切腹を条件に高松城を開城させると即座に反転して京都方面に兵を向けた(中国大返し)。秀吉は姫路城に入ると、6月12日に摂津で池田恒興(つねおき)、高山右近、丹羽長秀(にわながひで)、神戸信孝(かんべのぶたか)らと合流し、攻撃態勢を整えた。光秀は近江の坂本城で軍備を固め、6月13日未明に両軍は山城国山崎で激突(山崎の戦い)。光秀方1万6000に対し、秀吉方3万6000と圧倒的に有利で、秀吉に攻め込まれて劣勢となった光秀は伏見を経由して坂本へと敗走したが、途中の小栗栖(おぐるす)で農民の落ち武者狩りに遭って落命した(55歳:「三日天下」)。
6月27日、織田信長の重臣たちが尾張の清州城に集まり、今後の体制について協議した(清州会議)。秀吉は信長の後継者に長男信忠の子三法師(秀信)を推挙したが、柴田勝家は信長の三男織田(神戸)信孝を推して対立した。結局、池田恒興、丹羽長秀らの支持を受けた秀吉の主張が通り、秀信が家督を継ぐことになった。
秀吉と対立した柴田勝家は、翌1583年に秀吉と軍事衝突に至った。まず柴田方の神戸信孝が秀吉方の大垣城に攻め込み、勝家方は賤ヶ岳で秀吉方の拠点を攻撃したが、大垣にいた秀吉軍は賤ヶ岳までの50キロの道のりを全速力で行軍し、佐久間盛政らを中心とした勝家軍と対峙した。緒戦では有利に戦った勝家軍だったが、秀吉方が「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた武将らを中心に陣形を整え、勝家方の兵を次々に撃破すると、敗れた勝家は越前北庄城に逃げ込み自刃、信孝も尾張で自害した。かつて浅井長政の妻で、信長の死後勝家の妻となっていたお市もともに自死した。
柴田勝家を破った秀吉は、1582年以降、山城を皮切りに全国的規模での検地(太閤検地)を実施し、1582年には中国の有力大名毛利氏と講和を結び、かつて本願寺があった石山の地に大阪城(1586年完成)を築いて天下統一への道を歩みだした。秀吉は1588年に刀狩令を出して農民から武器を没収し、1591年に身分統制令を出して兵農分離を徹底させた。
柴田勝家の死後、秀吉に対する反発を強めた信長の二男織田(北畠)信雄は徳川家康と結び、四国の長宗我部元親、紀州の根来衆らも加えて秀吉包囲網を形成した。1584年に小牧・長久手の戦いで信雄・家康連合軍が秀吉軍と衝突し、一時は家康軍が勝利を収めたが、その後戦況が膠着状態となり、秀吉と信雄が和睦を結ぶと家康は三河に帰国し、秀吉に臣従を誓った。
その頃、四国では土佐の長宗我部元親が紀州の根来、雑賀衆と結んで周辺豪族の領土を次々に奪取し、1582年に阿波、1584年に讃岐、1585年に伊予を平定して四国全土をほぼ制圧した。
1585年6月、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とし、小早川隆景、吉川元長らの軍を合わせた11万の大軍で、伊予、阿波、讃岐の三方面から四国征伐を開始した。秀吉軍に敗れた元親は「土佐一国の安堵、それ以外は返納」を条件に秀長と和睦を結び、以後秀吉に臣従を誓った。
東国進出を一旦中止し、四国を平定した秀吉は朝廷に急接近し、1585年についに関白に任ぜられ、全国に惣無事令(そうぶじれい:豊臣平和令)を出して乱世の終息を宣言した。1586年には朝廷から「豊臣」の姓を賜り、太政大臣に就任した。その後秀吉は、1591年に養子の秀次に関白を譲り、自ら好んで太閤と称した。
公家としての官位を獲得した秀吉は、大阪城のある摂津を拠点とし、河内を自身の直轄領としたほか、紀伊・大和・和泉を弟秀長に、丹波を養子秀勝に、山城を前田玄以に、近江を甥秀次と堀尾吉晴に統治させた。
その頃、家康と信濃国上田の名門真田氏との間で領土争いが起こり、真田氏が上杉景勝と結ぶと、1585年に家康は討伐軍を差し向けた。真田家当主昌幸(まさゆき)は子の信之(のぶゆき)、幸村(ゆきむら)に命じて上田城近くの神川で徳川軍を迎え撃ち、戦いを有利に進めた。その後、秀吉の仲裁により両軍は和議に至った。
1585年8月に四国平定を完了した秀吉は、同年10月に九州攻略に乗り出した。当時、九州は群雄割拠の状態で、中でも最大の勢力を誇る薩摩の島津氏が日向の伊東氏や豊後の大友氏を攻撃していた。秀吉が出した惣無事令を大伴氏は受け入れて秀吉の協力を得たが、島津氏はこれを受け入れなかった。1586年8月、秀吉は九州平定の兵を出し、中国の毛利氏や四国の長宗我部氏の軍を豊後に送って大友氏を援護した。しかし、島津義久を中心とする島津家が頑強に抵抗したため、1587年に秀吉は自ら豊後や豊前小倉から九州入りし、ようやく島津氏を降伏に追い込んだ。
秀吉が九州討伐を終えて大坂に帰還する途中、筑前箱崎に立ち寄り、戦乱で荒廃していた博多の再整備を小早川隆景に命じた(太閤町割り)。
四国・九州を平定した秀吉は大阪城に凱旋し、1587年10月に北野神社境内と松原で大茶会を催した(北野大茶会)。北野神社の拝殿内に黄金の茶室が置かれ、拝殿の周囲に豊臣秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久を茶頭とする4つの茶席が設置され、公家・大名・町人合わせて約800人に茶が振る舞われた。しかし、秀吉の家臣佐々成政(さっさなりまさ)の領国肥後で一揆が勃発したため、茶会は急遽1日で中止になった。
1590年、秀吉は残された東国平定を成し遂げるため、関八州に君臨する北条氏に21万の大軍を差し向けた(小田原攻め)。北条氏の居城小田原城では迫りくる秀吉軍を前に籠城派と出撃派が対立し、長々と議論を続けているうちに(小田原評定)、秀吉配下の家康らの軍が攻め込んできた。城郭都市小田原城を陸から徳川家康、織田信雄、羽柴秀次、宇喜多秀家、池田輝政らの軍が包囲し、相模湾からは九鬼嘉隆、長宗我部元親の海軍が迫った。
秀吉が西の笠懸山に突貫工事で「一夜城(石垣山城)」を築き上げると、北条軍から次々と脱落者が出、ついに城内の北条氏政は秀吉の降伏勧告を受け入れて切腹、氏直も高野山に追放され、北条氏は滅亡した。
小田原攻めに当たって、秀吉は東北地方の諸大名にあらかじめ参陣を命じており、直ちに参陣した津軽、南部、相馬などの諸氏は所領を安堵し、それ以外の諸氏は領地を没収された。さらに秀吉家臣の蒲生氏郷が伊勢から会津に転封となり、関東・奥羽地方の監視役となった。
東北平定のために秀吉は奥州仕置軍を編成し、総司令官に養子秀次を据え、約20万の大軍で反抗的な諸大名に睨みをきかせた。
戦国末期、東北地方では米沢を拠点とする伊達氏が勢力を伸ばしており、1584年に伊達家16代輝宗の隠居に伴い、政宗が家督を継いだ。翌85年に政宗は南奥州攻略を目指し、8000の兵を率いて南進すると、佐竹、蘆名、石川など諸大名の連合軍が結集し、現在の福島県安達郡で伊達軍と衝突した(人取橋の戦い)。戦いに勝利した政宗は、その後合戦を繰り返しながら、ついに1589年に摺上原(すりあげがはら)の戦いで会津の強敵蘆名義広を破り、会津黒川城に入城した。そして二階堂、石川、岩城の各氏を破って奥州南部をほぼ制覇した。
1590年、小田原攻めをきっかけに秀吉が東北に支配力を伸ばすと、葛西、大崎両氏の旧家臣団や農民が一揆を起こしたが、1591年7月、秀吉の配下に入った政宗がこれを鎮圧した。さらに南部氏一族の九戸政実(くのへまさざね)も反乱を起こしたが、同年9月に氏郷の軍勢により鎮圧された。こうして秀吉は九州から東北まで、日本全国の統一を達成した。
国内統一を成し遂げると、秀吉は中国の明侵攻を計画し、その手始めとして朝鮮出兵を開始した。1587年に対馬の家臣柚谷康広を朝鮮に派遣し、入貢と明出兵の際の先導を求めたが拒否されると、1591年に秀吉は朝鮮出兵の準備命令を出した。1592年、肥前の名護屋に本陣(名護屋城)を構え、小西行長、加藤清正、福島正則らを中心とした15万余りの軍を朝鮮に送り込んだ(文禄の役)。秀吉軍は釜山に上陸後、漢城(現、ソウル)や平壌を占領したが、李舜臣の朝鮮水軍や明の援軍の反撃に合ったため、秀吉は明との講和を図るが交渉は決裂した。1593年に李如松らが4万の大軍で平壌の小西行長を攻囲すると、行長、石田三成、増田長盛の三奉行が撤収し、名護屋城に帰国した。
1597年2月、秀吉は再び14万の大軍を朝鮮半島に送り込んだ(慶長の役)。7月に巨済島の戦いで朝鮮水軍に勝利し、秀吉軍が制海権を握り、同年8月に全羅道を攻撃した。しかし、明が大軍を送り込み続け、李舜臣が復帰すると朝鮮水軍も勢いを取り戻し、次第に秀吉軍は劣勢に追い込まれた。12月に明・朝鮮連合軍の反攻が始まると秀吉軍は半島南部に後退した。
1598年8月に秀吉が死去したが、戦いはすぐには終わらず、東路・中路・西路・水路の四軍に編成された明軍は、10月1日、董一元率いる中路軍が麻貴率いる東路軍と合流し、3万7千の軍勢で泗川(サチョン)倭城を強襲したが、島津隊の反撃を受けて大敗を喫した。10月8日、五大老らから派遣された使者徳永寿昌(ながまさ)と宮木豊盛が泗川倭城を訪れて秀吉の死と撤退命令を伝えた。このとき、順天(スンチョン)倭城が明・朝鮮連合軍に包囲され、小西行長隊が脱出できなくなった。そのため、島津義弘、立花宗茂らが救出に向かい、迎撃態勢の明・朝鮮連合軍と露梁津(ノリャンジン)で遭遇して激しい戦闘を展開し、この海戦で日本軍は200隻近い軍船を失い、朝鮮側も名将李舜臣を失った。小西隊は海上封鎖が解かれた隙に順天倭城から脱出に成功した。
11月下旬、最後に残った日本軍小西行長、島津義弘、立花宗茂らが釜山浦から撤退し、朝鮮出兵は日本の事実上の敗北で幕を閉じた。
1598年8月に秀吉が京都の伏見城で病死すると、その後は五大老・五奉行が実権を握り、とりわけ徳川家康が独自に権力を強めていったため、家康の台頭を警戒した石田三成との間に対立が深まった。
秀吉は淀君との間に生まれた実子秀頼(ひでより)を自分の後継に決めており、死後は五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)に秀頼を託し、五大老は五奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)と合議制により政治を行うように遺言していた。しかし家康は、石田三成、小西行長ら「文治派」と対立していた「武断派」の福島正則らと接近し、伊達、福島、蜂須賀の各氏と次々に姻戚関係を結んで勢力の維持拡大に努めた。大名間の無断の縁組を禁じた秀吉のご法度に背く行為を咎めて三成らが弾劾文を発行したが、家康はこれを無視した。
1599年正月、秀頼は伏見から大坂城に移り、前田利家が実質的な城主としてこれに同行したが、家康と三成の調整役だった利家が3月に死去すると、加藤清正、福島正則、細川忠興らが石田三成殺害を計画して屋敷を襲撃した。しかし三成は伏見に逃れ、家康の保護を受けて一命を取り留め、その後佐和山に隠居した。
家康は前田利家の長男利長を謀反の疑いで叱責し、次いで会津の上杉景勝にも謀反の嫌疑をかけて上洛を求めたが、景勝は家臣直江兼続による「直江状」を提出して釈明に努めた。1600年6月、家康は景勝討伐を企てて大坂城を出発し、江戸に入ったが、この間に石田三成が反家康派の諸大名に参陣を呼びかけ、挙兵した。三成挙兵の報告を受けた家康は7月25日に諸将を集めて協議し、上杉討伐を中止して三成打倒に転ずることを決定した。
三成方(西軍)は毛利輝元を総大将とし、宇喜多秀家、長宗我部盛親、小西行長らが加わり、伏見城を陥落させた後、8万5千の軍勢で美濃の大垣城に入った。家康方(東軍)は福島正則、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、山内一豊らで、正則らが先鋒となって美濃に急行した。家康はしばらくしてから3万2千の兵を率いて東海道を西へ向かい、9月14日に大垣城の北にある赤坂岡山(御勝山)に陣を構えた。翌9月15日早朝に両軍は関が原に布陣して対峙した。西軍8万余、東軍7万余。雨上がりの濃霧が立ち込める中、午前8時頃に戦闘が始まり、両軍入り乱れての一進一退の攻防が続いたがなかなか決着がつかず、三成は西軍主力の毛利勢である小早川秀秋、吉川広家らに参戦を促したが、すでに家康と通じていた毛利勢は動かなかった。正午過ぎに松尾山に陣取った小早川秀秋が遂に寝返りを決意して、眼下の西軍大谷吉継隊に突撃すると、脇坂、小川、朽木、赤座ら各隊も次々と東軍に寝返り、西軍は総崩れとなって小西行長、宇喜多秀家らは敗走し始めた。決戦が東軍の勝利に終わると、三成、行長らは捕らえられ、京都で斬首。宇喜多秀家も八丈島に流された。
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍に加わった武将たちに対して厳しい処分を断行した。西軍大名の約90家、400万石を領地没収の「改易」とし、東軍大名は加増され、新たに譜代大名28家が取り立てられた。
1603年、家康は全国に支配権を確立するため、朝廷に要請して征夷大将軍に就任し、江戸を拠点に幕府を開いた。しかし、家康自身は1605年に将軍職を子秀忠に譲り、駿府に隠居し、大御所として幕政を指揮することになった。
関ヶ原の戦いの後、220万石の石高を60万石に減らされた豊臣家は、1603年に秀頼が2代将軍秀忠の娘千姫を妻に迎えていたが、依然として加藤清正や浅野幸長ら旧臣らの支持を受けており、大坂城に依って徳川家に臣従せず、家康による全国統一の妨げとなっていた。1611年、家康の上洛要請を受けた秀頼は京都二条城に赴き、家康と会見した。
1614年、淀君、秀忠母子は京都東山の方広寺大仏殿を再建したが、この大仏殿の大鐘が完成すると、家康は鐘銘の「国家安康君臣豊楽」の語句に言いがかりをつけ、大坂城明け渡しなど無理難題を秀頼側に押し付けた。秀頼がこれに応じなかったため、家康は20万の兵を率いて豊臣方に対し戦いを挑み、大坂城を攻撃した(大坂冬の陣)。一進一退の攻防の末、講和が成立したが、その直後に徳川の軍勢は大坂城の濠を埋め立てた。翌1615年、再び15万の兵を率いて大坂城を包囲した徳川軍に対し、わずか5万の兵で立ち向かった豊臣方だが、真田幸村の活躍や後藤又兵衛、長宗我部盛親らの奮戦により一時攻勢にでるも徳川軍の猛攻を受けて総崩れとなり、秀頼、淀君は炎上する大坂城で自刃して豊臣家は滅亡した。