応仁の乱

応仁の乱(1467 – 1478)


 正長元年(1428)室町幕府4代将軍義持が没すると、その息子の5代義量もすでに世を去っていたため、後継選びは重臣に委ねられ、管領畠山満家らは石清水八幡宮前でくじ引きにより将軍を決定することにした。選出されたのは義持の4人の弟のひとり、青連門院門跡義円(しょうれんもんいんもんぜきぎえん)、後の義教(よしのり:義満の子)だった(1429)。
 将軍就任直後の6代義教は求心力に乏しく、勢力を強めた鎌倉公方足利持氏の反幕府的行動や旧南朝勢力の有力守護の挙兵が相次いだ。それに対し、義教は奉行人や奉公衆(将軍直属の文官・武官)を編成して将軍への権力集中を進め、重臣会議を構成する有力守護家に対しては、家督継承に介入してその勢力を削ぎ、公家・寺社に対しても弾圧の姿勢を強めたため、その執政は「万人恐怖」と評された。
 義教と鎌倉府との関係も悪化し、1438年、ついに幕府と鎌倉府の戦争に突入した(永享の乱)。義教は持氏を滅ぼすと、ますます専制を強め、有力守護の一色義貫(いっしきよしつら)、土岐持頼(ときもちより)らも殺害した。1440年、下総の結城氏朝(ゆうきうじとも)が持氏の遺児春王丸(しゅんおうまる)・安王丸(あんおうまる)を擁して挙兵したが敗退した(結城合戦)。
 嘉吉元年(1441)、幕府の高まる圧力に危機感を募らせた有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)・教康(のりやす)父子は義教を自邸に招いて殺害し、領国の播磨で挙兵した(嘉吉の乱)。しかし、赤松氏は山陰の守護大名山名持豊(宗全)に滅ぼされ、山名家はこの功績により播磨を与えられて政界に勢力を伸ばしていった。

 1442年には義教の長男義勝(よしかつ)が7代将軍となったが翌年に死去し、弟の三春(みはる:後の義政:よしまさ)が8代将軍に就任した。幼少の将軍が続いたこの時期は管領の畠山持国(もちくに)・細川勝元(かつもと)らが政務を執ったが、政治は不安定化した。1449年に関東で持氏の遺児成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任すると、関東管領の上杉氏と対立し、1454年に成氏が上杉憲忠(のりただ)を殺害した(享徳の乱)。

 宝徳元年(1443)に14歳で将軍に就任した8代義政は、はじめは管領畠山持国(もちくに)に政務を代行させていたが、成長とともに自ら政治に携わるようになった。義政が将軍親政の姿勢を明らかにしたのは長禄年間(1457 – 60)とされており、以後管領の権勢を抑え、諸大名家の内紛にもさかんに鑑賞するようになった。
 義政は政所執事(長官)を世襲していた伊勢氏の貞親(さだちか)を側近に取り立て、その勢力を背景に統制政策を展開していった。しかし彼は奢侈を好んで土木工事を盛んに行い、徳政令を乱発するなどして幕府財政を窮乏化させ、また性格的に優柔不断で情勢に流されやすいため、諸大名家の内紛を短期間で決着させることができず、混乱を複雑・長期化させる傾向があった。

 義政政権の初期に管領を務めた畠山持国は弟の持富(もちとみ)を養子にして家督を継がせようとしていたが、文安5年(1448)に突如それを撤回して実子の義就(よしひろ)を新たな後継者に指名した。持富が宝徳4年(1452)に他界すると、義就の家督相続に反発する家臣の多くが持富の子弥三郎の支持にまわり、持国・義就親子との対立を深めていった。
 畠山家の弱体化を図る有力守護の細川勝元と山名宗全が弥三郎派を支持する一方、将軍義政は持国・義就親子を支持したが、享徳3年(1454)に弥三郎派がクーデターを起こし、持国を隠居に追い込み、義就を京都から追放すると、義政は情勢に流されるがままに弥三郎を畠山家の家督と認めた。しかし、持国・義就親子はすぐさま反撃に移り、同年12月には義政の後ろ盾を得て弥三郎を京都から追放し、再び家督を取り戻した。
 翌享徳4年3月に持国が没すると、義就は名実ともに畠山氏の当主となった。一方反対派は長禄3年(1459)に弥三郎が他界すると、その弟政長(まさなが)を擁立した。

【長禄・寛正の戦い】
 義就が次第に南山城や大和で勢力を拡大するようになると、これを警戒した将軍義政は長禄4年9月に義就から畠山家の家督を取り上げて政長に与え、細川勝元以下の諸大名と機内の国人衆に義就討伐を命じた。
 将軍の支持を失った義就は河内に下向し、牧城から若江城に入った。追討に向かった政長は奈良を経て竜田に布陣すると、義就方が先制攻撃をしかけ、両軍は神南山で激突した。その後義就は河内の嶽山(だけやま)城に立て籠もり、徹底抗戦の構えをみせたが、寛正4年(1463)4月、若江城に入った政長により義就方の嶽山城と金胎寺城が落城すると義就は高野山を経て吉野へと逃れた(長禄・寛正の戦い)。同年8月には義政の母日野重子死去に伴う大赦により義就も赦免されたが、義就はそのまま吉野で雌伏し続けた。

 寛正5年(1464)、継子のない義政は出家していた弟の義視(よしみ)を還俗させて後継と決めたが、その直後に正室の日野富子が男子を出産(後の義尚:よしひさ)した(1465)。
 その頃、将軍側近の伊勢貞親や季瓊真蘂(きけいしんずい)らは守護大名の二大勢力である山名宗全、細川勝元と対立していた。義尚の乳父(めのと:養育係)となった伊勢貞親は義尚を次期将軍に就けよう図り、真蘂とともに山名派でも細川派でもない斯波義敏(しばよしとし)を味方につけた。

【文正の政変】
 文正元年(1466)、貞親・真蘂は将軍義政に進言し、斯波氏の家督を現当主の義廉(よしかど)から義敏に変えさせると、義廉と姻戚関係にあった山名宗全がこの人事に反発した。また貞親が細川勝元と敵対関係にあった守護大名の大内政弘を赦免したため、細川勝元の不満を買い、その結果山名・細川の二大勢力が共闘して義政側近勢力と対立するようになった。
 同年8月、山名・細川らが両国から軍勢を呼び寄せ、吉野で雌伏していた畠山義就も上洛する動きをみせはじめたので、京都の情勢は緊迫した。
 9月5日、貞親が義視に謀反の罪を着せて誅殺しようとしたが失敗し、翌日山名・細川を始めとする諸大名の抗議を受けて貞親・真蘂ら側近勢力は一斉に失脚した(文正の政変)。これにより自身の勢力を失った将軍義政は次第に政治への意欲を失っていった。

【上御霊社の合戦】
 文正2年(1467)正月15日、細川勝元・京極持清(もちきよ)・赤松政則(まさのり)ら諸将が将軍義政に畠山義就討伐を迫った。この動きを察した斯波義廉・山名宗全・畠山義就らは室町殿に参集して警護を固めた。
 17日、義政が調停に乗り出し、細川勝元に対して畠山政長への支援を禁じると、勝元は山名宗全の畠山義就支援の禁止を条件にこの命令を受け入れた。将軍義政はこの対立を畠山家の私闘とみなすことによって抗争の拡大を抑えようとしていた。
 しかし、18日午前4時頃、畠山政長は自邸に火を放ち、相国寺北方の上御霊社に陣を構えた。午後2時頃、後土御門天皇・後花園上皇が室町殿に避難した。午後4時頃、義就軍が上御霊社を襲撃した。細川勝元や京極持清らは義政の制止に従って軍を留めたが、山名宗全や斯波氏の家臣朝倉孝景らが義就の軍に加勢して上御霊社を包囲した。敗れた政長は拝殿に火を放って撤退し、細川勝元の邸に身を寄せた。

<応仁の乱>
 上御霊社の合戦において、山名宗全が将軍の制止にもかかわらず義就を支援したのの対し、政長支援に動かなかった細川勝元は派閥の首領としての面目を潰され、以後それまで協力関係にあった細川・山名両家の間に対立が起こるようになった。
 文正2年(1467)3月に山名教之(のりゆき)の家臣が細川成之(しげゆき)の家臣に殺害される事件が起き、細川・山名の対立はますます先鋭化していった。4月下旬になると細川勝元側が諸国から兵の動員を開始した。

【洛北の合戦】
 応仁元年(1467)5月26日午前4時、細川方の武田信賢(のぶかた)と細川成之が一色義直の邸を急襲した。喜直は事前に察知して山名宗全邸に逃げ込んだ。京極持清、赤松政則らが山名邸を襲撃したが山名方はこれを退け、斯波義廉とその家臣の朝倉孝景らが一条大宮の細川勝久邸を攻撃し、細川一族は苦戦を強いられた。
 細川救援に向かった京極持清勢に向かって斯波勢が攻めかかり、京極勢はこれを支えきれずに細川成之邸に退こうとしたが、その途上で一条戻橋にて多数の人馬が転落して死亡した。赤松政則(細川方)が斯波軍に攻撃をしかけると斯波勢は耐えられずに退却をはじめ、この間に細川勝久は細川成之邸に逃れた。
 山名軍は勝久邸に放火し、成之邸に攻め寄せ、知恩寺(百万遍)や行願寺にも火を放った。そのまま山名方と細川方の軍勢は押しつ押されつの乱戦となり、翌27日の午後6時頃まで続いたが、その後両軍は兵を引いて戦闘は終息した。

 応仁元年(1467)6月1日、細川勝元は将軍義政に牙旗(将軍旗)と山名宗全治罰の綸旨(天皇の意を受けて発給される朝敵討伐の命令書)を求めた。将軍側近の日野勝光(かつみつ)らは一連の合戦を私闘とみなしてこれに反対したが、最終的には勝元の要求が通った。
 細川方は室町殿周辺に陣を布き、山名方は一条大宮一帯に陣を布いたため、細川方が東軍、山名方が西軍と呼ばれるようになった(西軍が布陣していた一帯が現在の西陣)。両軍勢は京都を中心にたびたび激戦を重ね、地方でも両軍に属した守護代や国人勢力が戦いを繰り広げた。将軍義政はたびたび停戦命令を出したが守られず、ますます政治への関心を失っていった。
 東軍は天皇・上皇および将軍義政を擁していたため、東西両軍の兵力はほぼ均衡していたものの、大義名分の点で西軍に勝っており、序盤は優勢に戦った。
 しかし、7月になると山名宗全の招聘に応じ、周防の大内政弘(まさひろ)が上洛の動きを見せはじめ、8月20日に大内軍は入京し、北野の船岡山に陣を構えた。同月23日に後花園上皇、後土御門天皇が室町殿に避難し、同日に幕府内で孤立していた東軍の総大将足利義視が室町殿より出奔して伊勢に下国した。

【東岩倉の合戦】
 応仁元年9月1日、内裏を警護していた東軍の武田元綱側から、西軍の畠山義就が陣を構える等持寺(とうじじ)へ矢が打ち込まれた。義就方は武田方の者を追い詰め打ち取るが、武田方の一部の者は醍醐寺の塔頭である三宝院に逃げ込んだ。このため、義就方とそれに加勢する朝倉孝景の軍勢は三宝院を焼き、9月13日に内裏・上皇御所に陣を構えた。それに呼応して、山名方も室町殿、細川勝元邸を包囲した。
 9月14日、東軍の赤松政則の家臣や細川氏の軍勢が上洛し、東岩倉の南禅寺山に布陣した。18日に山名勢・大内政弘・畠山義就ら西軍による南禅寺山攻撃が始まったが、東軍が激しく抵抗したため、10月2日に西軍は軍を引き上げた。

【相国寺の合戦】
 応仁元年10月3日、相国寺の勝定院(しょうじょういん)に陣を構えていた武田信賢勢(東軍)に対し、西軍の畠山義就・朝倉孝景の軍勢が攻撃をしかけた。武田信賢は退却し、西軍は相国寺に火を焼き討ちにした。山名宗全も室町殿を包囲して火を放った。相国寺は三日間燃え続け、その焼け跡には六角高頼・一色義直ら西軍が陣を布いた。すると東軍の畠山政長が奇襲をかけたため、一色勢の多くが戦死した。しかし西軍の朝倉孝景と古市胤栄(ふるいちいんえい)らが相国寺を奪回することに成功し、10月19日には大内政弘も相国寺に布陣した。
 相国寺の戦いは応仁の乱の中でも最大の激戦となったが勝敗を決するには至らず、この後両軍の衝突は散発的となり、戦闘の舞台も京都から地方へと移っていった。

【足利義視の寝返り】
 朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全追討の治罰院宣を発し、12月には正親町三条公躬ら西軍派とみられる公家たちが官爵を剥奪された。
 応仁2年(1468)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦し、3月21日には稲荷山の稲荷社に陣を張って山名方の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。
 同年9月22日、伊勢に滞在していた足利義視が上洛し、将軍義政に足利義尚派の日野勝光排斥を訴えたが受け入れられなかった。その後義政は義視と対立していた伊勢貞親を政務に復帰させ、義視と親しい有間元家を殺害するなど義尚擁立に動き出したため、義視は比叡山に出奔した。11月に西軍は義視を迎え入れて新将軍に擁立し、西幕府が成立することになった。義視が寝返ると、西軍に付いていた日野富子が東軍に移り、息子義尚の将軍職継承(9代)を実現させた。

【西軍の山城国制圧】
 文明元年(1469)4月、山城国谷の堂を根拠とする西岡国人衆が西軍を襲撃すると、ただちに畠山義就が出撃して西岡を含む乙訓郡を制圧し(西岡の戦い)、6月には大内政弘も摂津へ向かって東軍の拠点をほとんど奪い取り、山城周辺は西軍に抑えられた。大内政弘の圧倒的な軍事力によって制圧されつつあった東軍は地方での反大内活動を活発化させ、九州では大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して大内領に侵攻し、翌文明2年(1470)には教幸自身が反乱を起こしたが、いずれも留守居の陶弘護に撃退された。
 文明2年7月には大内政弘が南山城に侵攻し、山城国の大半が西軍の制圧下となった。これ以後、東西両軍の戦いは膠着状態に陥り、長引く戦乱と野盗の跋扈により京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大してきたため、両軍の間に厭戦気分が漂うようになってきた。

【細川勝元と山名宗全の死去】
 文明3年(1471)5月、管領斯波義廉の重臣朝倉景孝景が将軍義政による越前守護職補任をうけて東軍に寝返った。一方西軍は8月に後南朝勢力の小倉宮(おぐらのみや)皇子を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。同年、関東の幕府軍が成氏の本拠地古河城を陥落させると西軍は不利となった。
 文明4年(1472)になると細川勝元と山名宗全の間で交渉が始まったが、山名氏の領土に侵攻していた赤松政則の抵抗により決裂した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡し、実子で宗全の外孫にあたる聡明丸(細川政元)を後継として出家した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡男政豊に譲って隠居した。
 文明5年(1473)3月に宗全が、5月に勝元が相次いで死去し、東西両軍の和睦交渉が再開されたが、畠山政長と畠山義就の反対により頓挫し、宗全の死後には西陣南帝も放擲された。
 同年末には将軍義政が義尚に将軍職を譲って隠居し、侍所頭人(所司)に赤松政則が就任、侍所頭人(執事)伊勢貞宗により政所業務も再開されて幕府機能が回復し始めた。管領には畠山義政が就任したが、すぐさま辞任したため、日野富子の兄日野勝光が管領職務を代行し、富子の勢力が次第に拡大していった。

【乱の終息】
 文明6年(1474)3月、義政は小河の新邸に移り、室町御所には富子と義尚が残った。
 同年4月、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立し、政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。西軍の一色義直の子義春や丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則らが、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼らが中心となって惰性的な小競り合いを続けた。
 東軍の赤松政則、西軍の斎藤妙椿は細川・山名の和睦に反対し続け、斎藤は越前で西軍斯波義廉の重臣甲斐敏光と東軍に寝返った朝倉孝景の戦闘を停止させた。
 文明7年(1475)2月、甲斐敏光が東軍に寝返り、孤立した西軍の斯波義廉は守護代織田敏広を連れて尾張国に下国した。
 文明8年(1476)9月、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すことで和睦の流れが加速した。
 文明9年(1477)9月には主戦派の畠山義就が政長追討を名目に河内国に下国した。11月には大内政弘が将軍義尚より周防・長門・豊前・筑前の4カ国の守護職を安堵されて京から撤収したことで西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。足利義視・義材親子は土岐成頼、斎藤妙椿らと共に美濃国に退去した。11月20日、幕府により「天下静謐」の祝宴が催され、11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。

【その後】
 応仁の乱の最中、諸国では国人や地侍が幕府の奉公衆や公家、寺社の荘園を横領していった。有力守護の六角高頼(ろっかくたかより)は自国の近江の荘園を押領して勢力を拡大し、同時に近江国内の国人・地侍に荘園を横領させることで彼らを六角家家臣団として取り込もうとしていた。応仁の乱後、幕府は横領された土地の奪回を図り、1487年、9代将軍足利義尚は自ら大軍を率いて出陣した。しかし、戦いが長引くにつれて義尚は政治に関心を失い、幕府軍の士気が衰え始めた1489年に義尚が急死しため、幕府軍は一旦近江から撤退した。その2年後(1491)、10代将軍義稙(よしたね)が再度高頼に対し討伐軍を差し向けると、高頼は甲賀郡に逃れた。1493年に細川政元にクーデター(明応の政変)により義稙が失脚すると、六角高頼は勢いを取り戻し、1520年に死去するまで近江一帯を支配し続けた。

 1485年、奈良を中心に大規模な土一揆が起こった(山城の国一揆)。応仁の乱後も近畿地方では畠山義就と畠山政長の抗争が続き、主戦場となった南山城は大きな被害を被っていた。1485年末、山城の15歳から60歳までの国人、農民36人(36人衆)が結集し、義就・政長両軍の撤退等を強く要求し、その結果両軍は宇治川北方へ退却していった。翌年2月、山城の国人たちは宇治平等院に集合し、「国中掟法(こくちゅうのじょうほう)」を定め、宇治川以南の南山城を「惣国(そうこく)」として支配し、「月行事」がひと月交代で政治を行った他、裁判などを独自に行い、以後約8年間にわたる自治支配をおこなった。しかしやがて国人同士や国人と農民との間で対立が起こり始め、新たに山城国守護となった伊勢貞陸(さだみち)が守護権を強化すると国人層にも分裂が起こり、1493年に自治放棄を余儀なくされた。

 1488年、加賀で一向宗(浄土真宗)門徒による大規模な一揆が起こり、守護の富樫政親(とがしまさちか)に迫って自刃させた(加賀の一向一揆)。浄土真宗では1457年に蓮如(れんにょ)が本願寺住持を継ぎ、八代法王となると、本願寺教団は近畿を中心に各地で勢力を増し、組織力と団結力により軍事的な力も強めて一向一揆を頻繁に行うようになっていた。1465年に大谷本願寺を破却された蓮如は加賀と越前の境にある吉崎に赴き道場を建設した(1471)。1474年に加賀で一向一揆が蜂起し、翌年に富樫政親と戦って敗れたが、1477年には一揆は能登へ拡大した。87年には富樫政親が加賀国守護に就任し、一向宗徒に備えて鷹尾城を修築したが、88年、20万におよぶ門徒連合軍が高尾城を包囲し、正親を倒した。以後、加賀は16世紀後半に織田信長により平定されるまで、約100年間、一向宗徒の農民を中心とする国人が支配する国となった。

 9代将軍義尚が六角氏遠征の途上で死去すると、再び後継問題が再燃し、管領細川政元は義政の弟政知(まさとも)の子義澄(よしずみ)を推したが、日野富子は義視の子義稙(よしたね)を推挙し、義政の支持を得て義稙を10代将軍に立てることに成功した。
 1490年に隠棲していた義政が亡くなると、義視・義稙父子の専横が目立つようになり、日野富子も二人を距離を置くようになった。
 管領畠山政長は、応仁の乱で対立した畠山義就の子基家(もといえ)討伐を義稙に進言し、政長、義稙らが基家が支配する河内へ出陣すると、そのすきに京都で細川政元が政変を起こした。政元は日野富子と組んで11代将軍に義澄を擁立し、義稙・政長に攻撃を仕掛けると、政長は敗死し、義稙は将軍職を追われ、越中へ落ち延びた(明応の政変)。これにより将軍の権威はますます失墜し、斯波氏・畠山氏も没落したため、以後細川家が管領を独占し、幕府の実権を握ることになった。