建武の新政

建武の新政


【歴史】

〈元弘3年/正慶2年(1333年)〉
5月22日(西暦7月4日) – 元弘の乱東勝寺合戦によって鎌倉幕府滅亡
5月25日 – 光厳天皇を廃し、元号を元弘に一統
6月5日(西暦7月17日) – 後醍醐天皇が入京し、建武の新政を開始
 同日 – 足利高氏(尊氏)を鎮守府将軍に補任
6月8日 – 新政後、初めて議定(公卿会議)を行う
6月12日 – 前右大臣久我長通・前内大臣洞院公賢・前参議坊門清忠を還任、
 右大臣近衛経忠・権大納言西園寺公宗を罷免、万里小路宣房を按察使・
 北畠顕家を弾正大弼・足利高氏(尊氏)を左兵衛督・足利直義を左馬頭に昇任
6月13日 – 護良親王が征夷大将軍に補任される
6月20日 – 政始(まつりごとはじめ)、新政後初めての外記政(最も正式な会議)
7月19日前後? – 恩賞方が設置される
8月5日 – 叙位除目(元弘の乱の論功行賞)、足利高氏に「尊」の偏諱を授与、
 北畠顕家・新田義貞・楠木正成・千種忠顕らも官職を得る
9月10日 – 雑訴決断所が設立され、同時期に窪所・武者所なども設置、記録所も再興される
9月中 – 護良親王が征夷大将軍の職を離れる
10月20日 – 北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じ、父の親房や結城宗広と共に陸奥に赴く(いわゆる陸奥将軍府の始まり)
12月11日 – 大光寺合戦、大光寺城(青森県)で翌年まで北条氏残党との戦闘
12月24日 – 足利直義が成良親王を奉じ、鎌倉へ出発(いわゆる鎌倉将軍府の始まり)

〈建武元年(1334年)〉
1月23日 – 恒良親王を立太子
1月29日(西暦3月5日) – 建武に改元
1月中 – 雑訴決断所の条規が定められる
1月中 – 奥州式評定衆、引付、諸奉行の設置
1月中 – 関東廂番の設置
3月17日 – 諸国疲弊のため、2年間、荘園の検注を停めることを命じる(実施されず)
3月28日 – 乾坤通宝の新銭および楮幣(紙幣)の発行を定める
5月3日 – 検非違使庁が徳政令を発布
5月18日 – 恩賞方4番を定め、記録所寄人を置き、雑訴決断所の条規を定める
8月10日 – 中御門宣明が鋳銭長官に任じられ、後日、五条頼元が鋳銭次官に任じられる
8月中 – 雑訴決断所を8番に拡充
10月5日 – 公卿万里小路藤房が出家
10月22日? – 護良親王が捕縛されて失脚
10月中 – 紀伊国飯盛山で反乱、楠木正成が部下を派遣して鎮圧に当たる
同月中 – 新税「二十分の一税」が行われた史料上の確実な初見
11月15日 – 護良親王が鎌倉に流される
12月30日 – 足利高経(斯波高経)が紀伊飯盛城反乱に大将として当たり、反乱軍に敗北

〈建武2年(1335年)〉
1月29日 – 足利高経(斯波高経)が紀伊飯盛城反乱の鎮圧に成功
1月中 – 僧官の官位相当を定める
2月5日 – 信濃国で北条氏残党との小競り合い、7月の中先代の乱の前兆
2月中 – 雑訴決断所の条規を定める
3月17日 – 伝奏と記録所の結番(けちばん、当番の日と規則)および記録所の式日を定める
6月15日 – 造大内裏行事所始
6月22日 – 大納言西園寺公宗の謀反が発覚し、楠木正成や高師直に捕縛される
7月14日 – 北条時行、諏訪頼重ら北条氏残党が決起、中先代の乱勃発
7月22日 – 足利直義が北条時行に敗退
7月23日 – 鎌倉に幽閉中の護良親王が殺害される
7月25日 – 北条時行が鎌倉入り
8月2日 – 足利尊氏が中先代の乱に参戦、征夷大将軍位を願うが許されず、
 のち征東将軍に任じられる
8月18日 – 足利尊氏が北条時行を相模川で撃破
8月19日 – 足利尊氏が鎌倉を奪還、中先代の乱の終結
8月30日 – 足利尊氏が従二位に昇叙
8月中 – 足利尊氏が恩賞を独自の権限で徐々に配布し始める
 30日、尊氏が斯波家長に奥州管領の地位を与える
8月中 – 『二条河原の落書』による世相風刺
9月27日 – 足利尊氏が大々的に独自の裁量で恩賞を配り始める
10月11日以前 – 臨済宗高僧夢窓疎石に「夢窓国師」の国師号を与える
10月15日以前 – 中院具光を鎌倉に派遣し、足利尊氏に帰京を促すが、
 足利直義の進言により拒否される
10月15日 – 鎌倉若宮大路の旧将軍家跡地に足利尊氏の御所が完成し、尊氏は同所に遷る
11月2日 – 足利直義が新田義貞を討つと称して諸国の兵に参集命令をかける
11月12日 – 北畠顕家が鎮守府将軍となる
11月18日 – 足利尊氏を称し、新田義貞を討つことを請う書状が京に届く
11月19日(西暦1336年1月2日) – 建武の乱勃発。足利尊氏追討が発せられ、
 尊良親王、新田義貞、ショウ王、洞院実世らが出陣
11月22日 – 尊氏追討のため諸国の兵に参集命令をかける
11月25–27日 – 矢作川の戦い。建武政権の勝利
11月26日 – 足利尊氏・直義の官爵を剥奪する
12月5日 – 手越河原の戦い。建武政権の勝利
12月11日 – 箱根・竹ノ下の戦い。足利方の勝利
12月22日? – 北畠顕家が陸奥から京都に急進を始め、途上、足利方の鎌倉駐留部隊を撃破

〈延元元年/建武3年(1336年)〉
1月初頭 – 第一次京都合戦の開始
1月10日 – 後醍醐天皇が比叡山に逃れ、大宮彼岸所を行宮とする
1月11日 – 足利尊氏が入京、建武政権の結城親光が足利方の大友貞載と相討ちして戦死
1月13日 – 北畠顕家が建武政権本軍に合流
1月30日 – 第一次京都合戦が建武政権側勝利で終結、後醍醐天皇が京に還幸
1月中 – 「後の三房」の一人万里小路宣房と「三木一草」の一人千種忠顕ら重臣が出家
2月6日 – 建武政権の楠木正家が常陸国で足利方の佐竹氏を撃破
2月10–11日 – 打出・豊島河原の戦い、建武政権の勝利、足利方は九州に逃れる
2月29日 – 延元に改元。足利方はこれを認めず、建武の使用を続ける
同日 – 九州で、足利方の小弐貞経が建武政権の菊池武敏らに敗北し自害
3月2日 – 多々良浜の戦い、菊池武敏が足利尊氏に敗北、足利方が太宰府を掌握する
5月25日(西暦7月4日) – 湊川の戦い、足利方の勝利、建武政権の楠木正成戦死
6–8月 – 第二次京都合戦。足利方の勝利。建武政権の名和長年、千種忠顕戦死
8月15日 – 足利方に擁立され、持明院統(のちの北朝)の光明天皇即位
9月中旬–29日(西暦10月下旬–11月3日) – 近江の戦い。足利方の勝利
10月10日(西暦11月13日) – 後醍醐天皇が建武の乱に敗北して投降、建武政権の終焉
12月21日(西暦1337年1月23日) – 後醍醐天皇が吉野に遷幸、南北朝時代へ


【新政の機構】

【中央】
・太政官
・八省
後醍醐は八省の長官である卿を、前関白左大臣二条道平や右大臣鷹司冬教といった高位の上級貴族に兼任させた。これは、八省の管轄事項が上級貴族の合議体を通じて天皇に伝えられる律令制以来の体制を解体して、後醍醐が八省の長官となった上級貴族を通じて八省を統括することで天皇親政の強化に繋げる目的であったが、位階の伝統を無視した動きに公卿達は反発した。

【諸官司】
・記録所
 記録所は、平安時代に藤原摂関家から権力を取り戻そうとした後三条天皇が延久元年(1069年)に記録荘園券契所を設置したことに由来する。建武政権における中央官庁の最高機関として設置された。記録所は後醍醐の親政時代に再興した。建武政権では荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当。構成員は楠木正成、名和長年、伊賀兼光など。
・恩賞方
 恩賞方は鎌倉幕府の討幕運動に参加したものに対する論功行賞を処理。記録所や恩賞方は調査機関であり、個々の政務に関する判断を下すための先例や意見が答申され、それらが後醍醐の決裁を経て「綸旨」の形で発せられた。
・雑訴決断所
 所領関係を管轄、鎌倉幕府の引付衆に相当。地域別に担当する4〜8番編成で設置され、偶数日、奇数日にそれぞれ開廷された。成員は公家のほか足利家家臣の上杉氏や足利尊氏の執事高師直、旧幕府の官僚二階堂氏など公家・武家双方から多くの人材が登用された。
・検非違使庁
 主に京での民事裁判を担当するが、徳政令の執行では全国的な権限を得た。建武政権では国衙(現在の県庁に相当)に優越する中央官庁として活躍した。
・武者所
 天皇の親衛隊。長には新田義貞が任じられた。近年では義貞を長にしたのは尊氏の意向とする説もある[81]。現在伝わる「武者所」の名簿は、建武の乱発生後の記録のため、新田氏派閥の人物が多く見えることは注意が必要である。
・窪所

【地方】
・陸奥将軍府
 義良親王を将軍として、北畠親房・北畠顕家父子に補佐させた。陸奥国府多賀に置かれた。
・鎌倉将軍府
 成良親王を将軍として、足利直義(尊氏の弟)に補佐させた。
・守護・国司
 これまで中下級貴族が就いており、知行国制度などに見られるように単なる権益と化していた国司制度を地方支配の柱と位置づけた。側近や有力者が国司に任じられ、権能の強化が図られた。守護は軍事指揮権を扱う役職として残った。(併置)