室町時代概説

 後醍醐天皇は天皇親政の理想のもとに、摂政・関白を廃し、意欲的な新しい政治をめざした(建武の新政)が、中央に記録所と幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)を置き、地方に国司と守護を併せ置いたように、その体制は公武両政治を折衷したものだった。
 一方、新政府に参加した御家人は武家政治を望んでいたため、新政府は公武諸勢力のさまざまな要求に対応できず混乱した。

 1335(建武2)年、北条高時の子時行が反乱を起こすと(中先代の乱:なかせんだいのらん)、その鎮圧のために鎌倉に向かった足利尊氏は、それを機会に武家政治の再興を図り、新政府に反旗を翻した。
 翌年、尊氏は京で持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を立て、建武式目を定めて施政方針を示し、1338(暦応元)年には征夷大将軍に任命されて室町幕府を開いた。
 一方、後醍醐天皇は大和南部の吉野に逃れて皇位の正当性を主張したため、この後朝廷は吉野の南朝と京都の北朝に分かれて対立することになった(南北朝時代)。

 南北両朝間の対立は、南朝側の北畠親房(きたばたちかふさ)らが東国や九州で抗戦を続けたために長引き、幕府内部では尊氏の執事高師直(こうのもろなお)と弟の直義(ただよし)が対立し、ついに全国的な動乱が引き起こされた(観応の擾乱:かんのうのじょうらん)。
 農村の領主となった中小の地頭・御家人や新興武士らは地域的な広い結びつきを強め、荘園侵略を繰り返し、その時時の情勢に応じてさまざまな勢力と結びつき、動乱にいっそうの拍車をかけた。
 その中から国ごとに置かれた守護が次第に大きな力を持つようになり、幕府による守護の権限の強化を背景に、地方在住の武士(国人:こくじん)らを家臣として勢力を伸ばした(守護大名)。
 1352(文和元)年に半済令(はんぜいれい)が発布され、守護が一国の荘園・公領の年貢を半分を得るようになると、守護はこれを国人に分け与える制度を作り、支配権をいっそう強化した(守護領国制)。尊氏はその傍ら、足利氏一門を諸国の守護に配置し、幕府の体制固めを図った。

 尊氏の孫義満は、1392(明徳3)年に南北両朝の合体を実現させ、南北朝の動乱を終息させるとともに、守護大名を抑えて幕府の全国支配を完成させた。室町幕府は諸国における守護の領国支配体制の上に築かれていたため、将軍を補佐し将軍と守護大名の間を調整する管領(かんれい)という役職が最も重視された。管領は足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の3家から選ばれ(三管領)、侍所の長官(所司:しょし)は山名・赤松・一色(いっしき)・京極(きょうごく)の諸家の中から選ばれた(四職:ししき)。
 義満は朝廷や寺社への支配を強めて太政大臣となり、京都の行政・裁判権などを朝廷から受け継ぐと、その力と権力によって守護大名の勢力を削ることに努めた。明徳の乱において、六分一衆(ろくぶんのいちしゅう)と呼ばれた山名氏が倒され、応永の乱においては領国6カ国を持つ大内義弘が倒された。
 地方機関としては鎌倉に鎌倉府、九州に九州探題などが設置された。鎌倉府は関東8カ国に伊豆・甲斐を加えた10カ国を統轄し、その長官は鎌倉公方と呼ばれ、足利尊氏の子基氏の子孫が世襲し、その補佐役の関東管領(かんとうかんれい)には上杉氏が歴代その職に就いたが、独立性が強く、しばしば幕府と対立・抗争した。

 14世紀後半に元が倒れ、明が建国されると九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人らによる海外貿易が盛んになった。彼らの一部は海賊的な行動に走り、倭寇(わこう)と呼ばれ恐れられた。
 倭寇の活動を恐れた明は私貿易を禁止し、日本に倭寇の取り締まりを求めてきたため、義満は1401(応永8)年に九州探題に倭寇の制圧を命じ、明との国交を正式に開いた。
 日明貿易は私貿易と区別するために合札(あいふだ)の勘合(かんごう)が用いられた(勘合貿易)。
 勘合貿易の実権は、やがて幕府から大内氏や細川氏の手に移った。大内氏は博多商人、細川氏は堺商人と結んで激しく争い、ついに1523(大永3)年に寧波(ニンポー)で両者が衝突し(寧波の乱)、大内氏が貿易を独占するようになった。
 高麗を倒した李成桂(りせいけい)が建国した李氏朝鮮とは、対馬の宗氏(そうし)を介して国交が開かれ、1510(永正7)年の三浦の乱に至るまで、順調に貿易が続けられた。
 15世紀前半に、中山王国の尚氏(しょうし)が南山・中山・北山の3王国を統一して建国した琉球王国は、東アジア諸国間の中継貿易により栄えた。

 足利義満の死後、義持が将軍に就くと守護大名の勢力が増し、将軍自らが後継者を決められないほどになった。弟の義教がくじ引きで跡を継ぐと、その直後の1428(正長元)年に京都近郊の農民たちによる正長の土一揆が起こった。
 その後義教は将軍権力の強化と守護大名勢力の弱体化を図り、鎌倉府の足利持氏を攻めて自害させた(永享の乱)。義教の圧政は守護大名の反感の買い、1441(嘉吉元)年、播磨の守護大名赤松満祐に殺害された(嘉吉の乱)。その直後にも徳政一揆が起き、幕府はやむなく徳政令を出すことになり(嘉吉の徳政一揆)、幕府の権威は低下した。

 義教の死後、幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は将軍義政の後継をめぐる、弟義視(よしみ)と義政の妻日野富子の嫡子義尚(よしひさ)との争いを中心に、諸守護大名の後継問題で抗争を繰り広げた。指導力を失い、権威が失墜した幕府に家督争いの解決は望めず、二大勢力は東西に別れてついに戦闘状態に入った。戦闘は1467(応仁元)年から11年に渡って続き(応仁の乱)、戦場となった京都は荒廃し、幕府・貴族・寺社の没落・衰退が決定的となった。諸国の荘園・公領は在国の守護代や国人に実権を奪われかねず、それを危惧した守護大名が京都から引き上げたことで応仁の乱はようやく終結を迎えた。
 1485(文明17)年には南山城の国人が宇治の平等院で集会を開き、同地で抗争を続けていた守護大名畠山氏の政長(まさなが)と義就(よしひろ)の両軍を国外に退去させ、約8年に渡る自治が行われた(山城の国一揆)。
 諸国にはこうした国一揆や土一揆が頻発し、また主君を実力で倒す家臣が次々と現れ、世は下剋上の風潮を強めていった。

 応仁の乱後、諸国には実力によって領域を支配する大名が次々に生まれ、互いに争いを続けた。彼らは戦国大名と呼ばれる。
 戦国大名の魁となった北条早雲(伊勢宗瑞:いせそうずい)は、関東で鎌倉公方から分裂した下総の古河公方(こがくぼう)と伊豆の堀越公方(ほりごえくぼう)の抗争に乗じ、まず堀越公方を滅ぼして伊豆を奪うと相模に進出して小田原を本拠地とし、その子孫が関東の大半を支配する基盤を築いた。
 16世紀半ばには越後の守護上杉氏の守護代長尾景虎は主家の上杉氏を継いで上杉謙信と名乗り、関東に進出し、甲斐から信濃へと勢力を伸ばしていた武田信玄(晴信)としばしば戦った。
 戦国大名のうち、守護大名自身が国人や守護代を抑えて戦国大名に成長したのは東国の武田・今川、九州の大友・島津ら少数に限られており、その多くは国人や守護代から成り上がった者たちだった。戦国大名たちは約100年に渡って戦乱を繰り返すうち、次第に全国統一への道を歩んでいった。

 戦国大名の領国は分国(ぶんこく)と呼ばれ、その統治の第一目標は富国強兵であった。大河川の治水・灌漑により平野部の開拓と農業生産の安定・増大が図られ、産業の開発にも力が注がれた。経済の中心として城下町が建設され、道路が整備されて宿駅・伝馬制度が整い、関所も撤廃された。
 領内の国人から地侍に至るまで、すべての武士を家臣団に編入する強兵策も採られ、惣村の直接支配と荘園制度の解体が図られた。各分国では独自に分国法(家法)が定められ、家臣団と農民とが厳しく統制された。

 戦国の世が始まる頃、1488(長享2)年に加賀では一向宗(浄土真宗)の宗教組織に基づいた一向一揆により守護大名の富樫氏が倒され、農民たちはその後約1世紀に渡り合議に基づく一国支配を行った。やがて一向宗は惣村の形成が進んだ東海・近畿地方にも広がり、近畿地方の坊主・武士は石山本願寺の司令によって一向一揆を起こして大名と争った。
 京都では、応仁の乱後に町の復興を担ったのは日蓮宗徒の商人が中心となった町衆(まちしゅう)であった。彼らはいくつかの町の連合である町組をつくり、これを自治組織の単位として町掟を定め、月行事(つきぎょうじ)という指導者を選び、京都を支配する幕府や管領の細川氏に対抗し、周辺から押し寄せてくる土一揆から町を自衛するなどの自治的運営にあたった。
 また、伊勢の桑名や安濃津などの港町・宿場町、宇治・山田のような門前町に自治組織を持った都市が各地で誕生した。貿易の要港であった堺は細川氏と、博多は大内氏と手を組んで日明貿易を行い、富み栄えた。堺では会合衆(かいごうしゅう)、博多では年行司(ねんぎょうじ)が中心となり、次第に領主の支配から独立して自治市政を行うようになった。

 1543(天文12)年、九州の種子島にポルトガル人を乗せた1隻の中国船が流れ着き、これをきっかけにポルトガル人は毎年のように貿易船を九州の諸港に派遣するようになった。後にはスペイン人も肥前の平戸に来航し、日本との貿易に加わった。貿易は肥前の平戸・長崎、豊後の府内(現、大分市)などで行われ、南蛮貿易と呼ばれた。
 種子島に漂着したポルトガル人から、島主の種子島時尭(ときたか)は鉄砲を買い求め、家臣にその製法を学ばせたのが鉄砲伝来の始まりとなった。鉄砲の影響は大きく、戦国大名は争って鉄砲を求め、それまでの騎馬隊を主力とする戦法は、銃を持った歩兵隊を中心とする戦法に切り替わった。
 イエズス会創立者の一人であるフランシスコ・ザビエルは、1549(天文18)年に鹿児島に到着し、各地を回って布教の準備をした。その後宣教師が相次いで来日し、熱心に布教を行ったので、キリスト教は西日本を中心に広まり、信者数は数十万人に及んだ。貿易を望む大名は進んでキリスト教を保護し、中には洗礼を受けてキリシタン大名と呼ばれる者もあった。大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の3大名は、宣教師ヴァリニャーニの勧めで、1582(天正10)年に少年使節をローマ教皇のもとに送った(天正遣欧使節)。