安土桃山時代概説

 激しい戦国争乱の中で室町幕府の支配力は完全に失われ、戦国大名の中には京にのぼって朝廷や幕府の権威を借りて全国に号令しようとする者が現れた。
 尾張の織田信長は1560(永禄3)年、上京を企てて進撃してきた駿河の今川義元の大軍を尾張の桶狭間の戦いで破り、1568(永禄11)年には自ら京にのぼって足利義昭を将軍に立てた。その後、比叡山延暦寺や石山本願寺と戦って寺院勢力を抑え、1573(天正元)年には信長の命令に従わなくなった将軍義昭を京から追放し、ここに室町幕府は滅亡した。
 信長は次いで近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、1575(天正3)年、甲斐の武田勝頼を三河の長篠合戦で破った。まもなく信長は交通の要地である近江に安土城を築いて全国統一の拠点とし、城下に多くの商工業者を集め、楽市・楽座の制により商人が自由に営業できるようにすることで領国内の経済力を高めた。
 1582(天正10)年、信長は武田氏を滅ぼした後、中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)。

 信長が本能寺で倒れたとき、家臣の羽柴秀吉は備中の高松城で毛利氏の軍と対戦していたが、直ちに和を結んで軍を返し、京都の西、山崎の戦いで明智光秀の軍を破った。次いで翌1583(天正11)年には、信長の重臣であった柴田勝家を近江の賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継者の地位を確立した。
 同年、秀吉は石山本願寺跡に壮大な大阪城を築き始めた。1585(天正13)年には長宗我部元親を降伏させて四国を平定し、1587(天正15)年には九州の大半を領地としていた島津義久を従えた。また、この間に秀吉は関白・太政大臣となり、朝廷から「豊臣」の姓を与えられた。1590(天正18)年には関東の大部分を領有していた小田原の北条氏を滅ぼし(小田原攻め)、さらに伊達政宗ら東北の諸大名もことごとく服従させて全国統一を成し遂げた。
 1588(天正16)年、京都の聚楽第(じゅらくてい)に後陽成天皇を迎え、その機会に諸大名に秀吉への忠誠を誓わせるなど、自らの武力と朝廷の権威を背景に諸大名を圧倒した。秀吉の直轄地(蔵入地:くらいりち)は約200万石余に及び、京都・大阪・堺・伏見・長崎などの重要都市を直轄して財政的基盤を固めた。
 秀吉は中央から役人を派遣し、全国に渡ってほぼ同一の基準で耕地や宅地の面積・等級を調べ、それを耕作者とともに検地帳(水帳)に登録した(太閤検地)。これにより秀吉は全国の土地を確実に把握し、大名の配置換えも容易になり、近世封建制の基礎が固まった。
 また、1588(天正16)年に刀狩令を出して農民から全ての武器を没収し、1591(天正19)年に身分統制令を出し、武士・農民・町人などの身分や職業を固定する方策を進めた。秀吉の晩年には、側近である石田三成らの五奉行、有力大名の徳川家康を始めとする五大老の制度がようやく軌道に乗りだし、支配組織が安定した。
 秀吉はキリスト教の拡大に対して警戒心をいだき、1587(天正15)年の九州出兵の際に博多でバテレン追放令を出し、宣教師の国外追放と布教の禁止を命じた。このとき大名のキリスト教信仰も禁止され、信仰を捨てなかった明石城主の高山右近は領地を没収されたが、一般の武士や庶民の信仰は禁止されなかった。
 秀吉は外交面でも積極的で、倭寇を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助した。さらに、明の征服を企て、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導を求めたが、朝鮮がこれに応じなかったため、2度に渡って朝鮮出兵を試みたが、激しい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3)年、秀吉の死により全軍は撤兵した。

 三河の小大名だった徳川家康は、今川氏滅亡後に遠江・駿河を併合して次第に勢力を伸ばし、豊臣秀吉の下で五大老のひとりとなった。1590(天正18)年、秀吉を助けて小田原の北条氏を滅ぼした家康は、秀吉から関東の地を与えられて江戸に本拠地を移し、約250万石の大大名となった。
 秀吉の死後、後を継いだ秀頼は幼少だったため、家康が次第に政治の実権を握るようになった。そのため、五奉行のひとり石田三成は小西行長らと図って家康を退けるために兵を起こしたが、家康は1600(慶長5)年に美濃の関ヶ原の戦いでこれを破り、三成方についた大名は処刑されたり領地を没収されたりした。