20世紀初頭のヨーロッパではドイツが積極的な世界政策を進め、ロシア・フランス・イギリスの三国協商側と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟側との対立が顕になってきた。
1914年6月、ボスニアのサラエボでセルビア人によるオーストリア皇太子暗殺事件が起こると、同年7月、オーストリアがセルビアに宣戦し、8月にはロシア・フランス・イギリスがセルビア側に、ドイツがオーストリア側に立って参戦し、第一次世界大戦が勃発した。
日本は日英同盟を理由に1914(大正3)年8月、ドイツに宣戦し、山東半島のドイツの軍事基地青島(チンタオ)やドイツ領南洋諸島の一部を占領した。
これに先立つ1911年、中国では辛亥革命が起こり、翌年には南京を中心に孫文(そんぶん)を臨時大統領とする中華民国が成立し、清王朝は滅亡した。しかし国内にはなお旧勢力が各地に分立し、軍閥の実力者袁世凱(えんせいがい)が孫文を退けて大統領となり、北京に政権を樹立した。
第2次大隈内閣はこの混乱に乗じ、1915(大正4)年、中国の袁世凱政府に中国における日本の権益を大幅に拡大する内容の二十一カ条の要求を提出し、最後通牒を発してその大部分を承認させると、中国国内ではこれに反発して排日気運が高まった。
その後日本は、寺内正毅内閣のとき、袁世凱の後を継いだ北方軍閥の段祺瑞(だんきずい)政権に莫大な借款を与えて日本の影響力を強めようとした(西原借款)。1917(大正6)年にはアメリカとの間に石井・ランシング協定を結び、中国の領土保全・門戸開放と中国における日本の特殊権益の承認とを確認し合った。
連合国の一員だったロシアでは、1917年3月、ロシア革命が起こって帝政は倒れた。同年11月にはレーニンの指導により、世界初の社会主義政権(ソビエト政権)が誕生し、翌年ドイツ・オーストリアと単独講和を結んだ。これに衝撃を受けた連合国は、1918年、シベリアに取り残された連合国側のチェコスロバキア軍救援を理由に、シベリアに出兵した。アメリカから共同出兵を要請され、日本も大軍をシベリア・沿海州・北満州に送り、革命を阻止しようとした。しかし日本は連合国の撤兵後も駐留を続けて内外の避難を浴び、1922(大正11)年にほとんど成果を上げることなく撤兵を余儀なくされた。
日露戦争後、藩閥・官僚勢力を後ろ盾とした長州出身の陸軍大将桂太郎と、衆議院第一党の立憲政友会総裁の西園寺公望とが交互に政権を担当し、政局は安定していた(桂園時代)。しかし1912(大正元)年、第2次西園寺内閣が財政事情の悪化から陸軍の要求する2個師団増設を承認しなかったため、陸軍の抵抗を受けて総辞職すると、代わって第3次桂内閣が成立した。これを藩閥勢力や陸軍の横暴とみなした立憲国民党の犬養毅、立憲政友会の尾崎行雄らは「閥族打破・憲政擁護」を唱えて倒閣運動を起こした(第一次護憲運動)。これに対し、桂は自ら政党(後の立憲同志会)を組織して議会の反対を抑えようとしたが成功せず、総辞職に追い込まれた(大正政変)。
次いで薩摩出身の山本権兵衛が立憲政友会を与党として組閣し、軍部大臣現役武官制を撤廃するなどの改革を行ったが、海軍の高官たちによる収賄事件であるジーメンス事件が原因となって1914(大正3)年に退陣し、大隈重信が立憲同志会の支持を受け、第2次大隈内閣を成立させた。
第一次世界大戦が起こると、連合国側はこの大戦を民主主義と専制主義との戦いと意義付けたが、これが世界的に民主主義的風潮を呼び起こし、日本にも大きな影響を与えた。東京帝国大学教授の吉野作造が民本主義を唱え、民衆の利益と幸福を目的とした民意による政治運営を説き、広く言論界の支持を集めると、元老・藩閥・軍部などによる特権的勢力に対する世論の反発が強まり、大正デモクラシーの気運が国内にみなぎってきた。
第一次世界大戦が長期化すると、ヨーロッパ諸国の東アジア市場への輸出が減少し、代わって綿糸・綿織物などの日本商品が市場を独占した。また、世界的な船舶需要の激増により造船・海運業が飛躍的に発展し、化学工業や電力事業もめざましく発展した。その一方で国内ではインフレ傾向が続き、1918(大正7)年になると米価が急上昇した。同年夏、富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止するための運動を起こすと、それが全国にたちまち波及し、各地で大規模な米騒動が起こるようになった。寺内正毅内閣は軍隊を出動して騒動を鎮圧したため、世論の非難を浴びて退陣した。
寺内内閣が総辞職すると、1918(大正7)年、衆議院第一党の立憲政友会総裁の原敬が元老の推薦で総理大臣となり、陸軍・海軍・外務大臣を除く全閣僚を立憲政友会党員から選んで本格的な政党内閣を組織した(平民宰相)。原内閣は1919(大正8)年に選挙法を改正して選挙権を拡大したが、小選挙区制のもとで絶対多数の議席を確保した立憲政友会の強力な政治運営は多数党の横暴と世間からみなされ、原は1921(大正10)年に暗殺された。
翌1920(大正9)年には、大戦中の好景気から一転して深刻な不況に見舞われ(戦後恐慌)、次いで1923(大正12)年の関東大震災が起こり日本経済は大打撃を受けた。大震災では東京・横浜の下町がほとんど壊滅し、死者・行方不明者は10万人以上、被災者は340万人以上に達した。被災地域には戒厳令が敷かれたが、大混乱のさなかに「朝鮮人暴動」の流言が広まり、住民の自警団などにより多数の朝鮮人が虐殺された。
大正時代には労働運動・社会運動が活気を取り戻した。1912(大正元)年に労使協調的な労働者組織として鈴木文治を中心に発足した友愛会は大戦後に拡大・急進化し、1921(大正10)年に日本労働総同盟と改称して労働争議や労働組合の組織化を指導した。1920(大正9)年には日本初のメーデーが行われ、1922(大正11)年には日本農民組合が結成された。
女性運動の面では、1911(明治44)年に平塚明(はる:らいてう)らが青踏社を結成し、雑誌「青鞜」を創刊して女性解放を主張したのを皮切りに、1920(大正9)年には平塚明・市川房枝を中心に新婦人協会が発足し、婦人参政権獲得運動が始まった。被差別部落の人々による部落解放運動も盛んになり、1922(大正11)年にはその全国組織である全国水平社が創立され、その後1955(昭和30)年の部落解放同盟に発展した。
1920(大正9)年には各派の社会主義者たちが集まって社会主義同盟が発足した。大杉栄らの無政府主義(アナーキズム)と共産主義とが対立したが、1922(大正11)年には密かに結成された日本共産党が、革命を目指す非合法活動を開始した。また、国家主義的立場から国家の改造を図ろうとする運動も現れ、北一輝・大川周明らは急進的国家主義者や青年将校に大きな影響を与えた。
1918年11月に第一次世界大戦がドイツ側の敗北に終わると、アメリカ大統領ウィルソンの提案した十四ヵか条の平和原則を基に、翌1919年、フランスのパリで連合国とドイツとの平和会議が開かれ、日本も西園寺公望らを全権として派遣した。この会議で民族自決の原則により東欧諸国などの独立が認められたため、朝鮮でも同年、民族独立を求める運き(三・一独立運動)が高まったが、日本は軍隊を出動させてこれを鎮圧した。
パリ平和会議の結果、日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承、国際連盟の委任による赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の統治が認められたが、中国ではこれに反発して、大規模な反日民族運動(五・四運動)が展開された。
1919(大正8)年、パリ平和会議で調印されたヴェルサイユ条約により、ヨーロッパではヴェルサイユ体制と呼ばれる新たな国際秩序が成立し、1920年には世界初の常設的国際平和機構として国際連盟が発足し(アメリカは不参加)、日本は常任理事国に選ばれた。
第一次世界大戦後、国際政治の主導権を握ったアメリカは1921(大正10)年に各国に呼びかけてワシントン会議を開き、日本は海軍大臣加藤友三郎・駐米大使幣原喜重郎らを全権として派遣した。この会議ではまず、日本・アメリカ・イギリス・フランスが太平洋の島々の安全保障を取り決めた四カ国条約を結び、日英同盟協約は廃棄となった。翌年、この4ヵ国にイタリアを加えた5ヵ国間にワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の一定期間建造中止や国別の保有比率などが定められた。また、この5ヶ国に中国など4ヶ国を加えて九ヵ国条約が結ばれ、中国の主権・独立・領土保全の尊重、中国に対する機会均等・門戸開放の原則が取り決められた。そして国際協調の方針に沿い、日本は中国に山東半島の権益を返還することになった(ワシントン体制)。
1920年代には世界的にも国内的にも国際協調の機運が高まり、日本は国際連盟の有力国として国際協調に努め、1924(大正13)年に加藤高明内閣の外務大臣に就任した幣原喜重郎を中心に、特にアメリカとの協調関係の維持に力を注いだ(幣原外交)。1925(大正14)年には日ソ基本条約を結び、革命以来初めてソ連との国交を樹立した。
原内閣の後を継いだ立憲政友会の高橋是清内閣が、党内の対立により半年余りで退陣すると、その後3代にわたって非政党内閣が続いた。
1924(大正13)年、貴族院勢力を基礎に清浦奎吾内閣が成立すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派はこれを激しく攻撃し、第二次護憲運動を展開したため、清浦内閣は衆議院解散により対抗したが、同年の総選挙で護憲三派が衆議院の絶対多数を占めたため、ついに退陣を余儀なくされた。選挙で第一党となった憲政会の総裁加藤高明は護憲三派の連立内閣を組閣した。
1925(大正14)年、加藤内閣のもとで衆議院議員選挙法が改正され、いわゆる普通選挙法が成立し、25歳以上の男性は納税額に関係なく選挙権を与えられたが、女性の参政権はまだ認められなかった。一方では同じ議会で治安維持法が成立した。
加藤内閣以後、1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊するまで政党内閣が続き、立憲政友会と憲政会(後の立憲民政党)の二大政党が交代で政権を担当し、政党政治が「憲政の常道」とみなされるようになった。