中国史概説(下)

中国史概説(下):明朝〜現代


Ⅳ 近世

3. 明(1368〜1644)
1)洪武帝
 紅巾の乱で頭角を現した朱元璋(太祖洪武帝)は.1368年に金陵(南京)を都とし、明朝を開いた。その後大都に進撃して元を北方に駆逐し(北元)、漢民族による中国再統一を果たした。
 洪武帝の治世にはモンゴル人の風俗や習慣が禁止され、漢民族意識の高揚と伝統的中国文化の復興が図られた。年号を一代限りとし(一世一元の制)、中書省を廃止して宰相を置かずに皇帝自らが政務を統括し、行政機関である六部を皇帝直属とした。政治顧問として殿閣大学士が置かれたが、彼らは後に内閣大学士となり、六部の上に立って宰相の地位を占めるようになった。皇帝直属の軍事機関として五軍都督府、監察の最高機関として都察院が設けられた。
 地方は各省に分けてそれぞれ中央直属の布政使(行政)・都指揮使(軍事)・按察使(監察)が置かれ、臨時の官として総督・巡撫も設置された。軍人は軍戸という特別の戸籍により民間人(民戸)と区別され、その身分は世襲された(衛所制)。
 土地台帳である魚鱗図冊や戸籍・租税の台帳としての賦役黄冊が作成され、村落自治体は里甲制に組織された。律令では大明律・大明令が制定され、六諭によって民心を統制した。

2)永楽帝
 洪武帝の死後、孫の恵帝建文帝が即位すると、北平(北京)にいた叔父の燕王棣が反乱を起こし、恵帝を破って南京で帝位に就き、成祖永楽帝と称した(靖難の変:1399)。
 永楽帝は都を北京に移し、大運河を復旧・拡張して南北交通を促進し国力を充実させた。モンゴルに対しては積極的に遠征を行い、タタール部やオイラート部を討って北部からモンゴル勢力を一掃した。南方では貴州・雲南を支配し、安南へ遠征を行った。
 また、宦官の鄭和に命じて大規模な南海遠征を行わせ、南海諸国との貿易が急速に発展した。

3)明朝の衰退
 永楽帝以後、幼少や病弱な皇帝が続き、次第に側近の宦官が実権を握って政治を仕切るようになった。政治の乱れに乗じて南北から異民族の侵入が相次ぐようになった(北虜南倭)。
・北虜:西モンゴルのオイラート部の勢いが復興し、族長エセン・ハーン率いる大軍が侵入すると、永宗正統帝はこれに対して自ら遠征を行ったが、北京西北の土木堡で大敗し捕虜となった(土木の変:1449)。以後モンゴルに対しては消極策がとられるようになり、オイラート部に代わってタタール部が強勢となると、族長アルタン・ハーンは頻回に北の辺境に侵入してくるようになった。
・南倭:元寇以後武装した日本の密貿易者が朝鮮半島沿岸を荒らすようになり(倭寇)、明朝に被害をもたらした。室町幕府が成立し、明朝との間に勘合貿易が行われるようになると海賊行為が取り締まられたが、幕府の統制が衰えると倭寇は復活し、1550〜1560年代には中国人流民も加わって中国沿岸の都市を荒らすようになったため、東南沿岸地域は荒廃し、明朝の経済に大きな打撃を与えた。

 神宗万暦帝の時代には国家再建が試みられ、宰相の張居正は大胆な改革を行い、一条鞭法により税制を革新したが、彼の死後再び政治は混乱に陥った。官僚は宦官と結んで東林派・非東林派に分かれて政争を繰り返し、1592年には豊臣秀吉が朝鮮に出兵したために朝鮮救援の大軍を派遣し、財政はますます困窮するようになった。
 東北地方では建州女直が強大となって金(後金)を建国し、北の辺境に迫ってきた。重税に反発した農民一揆が各地で起こり、その中から陜西の李自成が頭角を現し、1644年に北京を陥落させると末帝の毅宗崇禎帝は煤山に逃れて自決した。
 その後明の遺臣たちは南方に逃れ、各地で明の王族を奉じて明朝の回復運動(復明運動)に従事したがいずれも成功しなかった。明の遺臣鄭成功は台湾を占領し、清朝に抵抗し続けた。

4.清(1636〜1911)
1)清朝の成立
 東北地方から興ったツングース系の女真(女直)族は12世紀に中国北部に進出して金朝を建てたが、その後元に圧迫されて東北地方へ退いた。やがて元を駆逐した明の国力が衰えると族長ヌルハチ(太祖)が近隣の諸部族を統合して後金国を建てた。
 ヌルハチの子ホンタイジ(太宗皇太極)はチャハル部を抑えて内モンゴルを平定し、朝鮮の李朝を服属させ、瀋陽(後の盛京)を都とし、国号を清と改めて皇帝の位に就いた(1636)。
 世祖順治帝が即位すると、明朝は李自成によって滅ぼされ、明朝の遺臣呉三桂が救援を求めてきた。順治帝はその要求を受け入れ、華北に進出して李自成を破り、北京に入城してここに都を移した(1644)。
 明の遺臣たちは南方で復明運動を続けたが、清朝は遷界令(1661)によって海岸封鎖を行い、ミャンマーに逃れた永明王が1661年に滅ぼされると抵抗運動も下火となった。
 次の聖祖康煕帝の時代には南部で明の降将呉三桂らが反乱を起こした(三藩の乱)。これを平定し、鄭氏台湾を1683年に滅ぼしてようやく台湾を含む中国全土が清朝の支配下に入った。

2)清朝の隆盛
 聖祖康煕帝(1661〜1722)、世宗雍正帝(1722〜1735)、高宗乾隆帝(1735〜1796)と続く3代の約130年間は清朝の最盛期となり、領土が著しく拡大した。
 康熙帝の時代に外モンゴルが服属し、東トルキスタンのジュンガル部およびチベットが征服された。乾隆帝は新彊を完全に領土化し、18世紀末には東北地方・中国本土・台湾を直轄地とし、モンゴル・青海・東トルキスタン(新彊)・チベットを藩部として支配する大帝国となった。領土は満州族・漢族・モンゴル族・トルコ族(ウイグル族)・チベット族の5族の住地にわたり、朝鮮・安南・タイ(シャム)・ミャンマー(ビルマ)は属国とみなされた。
 清朝ははじめ漢満通婚の禁止や辮髪令などで漢民族に高圧的に臨んだが、やがで懐柔策と威圧策を併用しつつ、明朝諸制度を受け継いで皇帝独裁による中央集権的な官僚制国家を完成した。
 行政機関としては複数の内閣大学士に宰相の任務を行わせ、六部を統括させたが、雍正帝の時代に軍機処を設けてからはこの大臣が事実上の宰相となった。
 官吏は全て科挙によって選ばれ、要職には漢人と満人を同数採用した(漢満偶数官制)。中国本土は18省に分けて政府の直轄とし、各省に布政使・按察使を置いた。異民族に対しては、原則的に藩部としての自治を許したが、満人による理藩院に統括させた。軍政では満州八旗を軍事力の基礎とし、モンゴル八旗や漢軍八旗も設けられた。
 文化政策としては漢文化を積極的に取り入れたが、満州民族や清朝に対する批判は厳格に取締り、排満思想を弾圧した(文字の獄)。

3)明清時代の文化
 明朝は中国の伝統文化の復興を目指したが、モンゴル人統治の影響が拭い去れず、学問は一般に実用と実践を旨としたものが発達した。
 明の洪武帝は儒教を復興・奨励して朱子学を国学とした。永楽帝は朱子学に関する学説を集大成して「四書大全」「五経大全」「性理大全」を編集させた。また、古今の文献を分類・編集した「永楽大典」という叢書を作らせた。
 王陽明は宋代の陸九淵の学説を発展させ、知行合一を旨とする新しい儒学を唱え、「伝習録」を著した(陽明学派)。
 実学では李時珍の「本草綱目」(薬学)、徐光啓の「農政全書」(農学)、宋応星の「天工開物」(産業技術)などが著された。
 大規模な国家的編纂事業も行われ、康煕帝時代の「康煕字典」、雍正帝時代の「古今図書集成」、乾隆帝時代の「四庫全書」などが作成された。
 清朝では古典の文学的研究が進み、考証学が発達した。19世紀になると考証学の瑣末主義を批判して実践を重視する公羊学派が出現することになった。
 文学は明代に口語文学が発達し、「水滸伝」「三国志演義」「西遊記」「金瓶梅」の四大奇書が成立し、清代になると「紅楼夢」「聊斎志異」「儒林外史」などの小説や「長生殿伝奇」「桃花扇伝奇」などの戯曲が著された。
 絵画では明代に北宋画の仇英、南宋画の董其昌らが有名であり、清代には正統な南宋画に対抗して独特な文人画が現れてくるようになった。

4)ヨーロッパ人の到来
 大航海時代の到来以来、ヨーロッパ人の東洋進出が盛んになり、ローマ・カトリックは布教のために多くの宣教師を海外に送り出した。イエズス会のフランシスコ・ザビエルは1549年に日本にわたり、その後中国に伝道しようと志したが果たせずして死亡した。彼以後、同派の宣教師が相次いで中国に来航したが、イタリア人のマテオ・リッチは1601年に明の万暦帝から布教の許可を受け、徐光啓ら有力な官僚たちを改宗させて彼らの協力のもとに「幾何原本」(ユークリッド幾何学)や「坤輿万国全図」(世界地図)を著した。
 明末にはドイツ人アダム・シャールが明朝に仕え、清代にも引き続き国立天文台長として重用された。康煕帝はフランス人ブーヴェらに命じて精密な中国全土図である「皇輿全覧図」させた。イタリア人宣教師カスティリオーネは西洋の絵画法を中国に伝えた他、北京郊外に円明園という西洋風の離宮を乾隆帝のために設計した。
 一般にイエズス会の宣教師たちは中国の伝統的習慣に対しては寛容な態度であったが、後に中国に進出してきたフランチェスコ派やドミニコ派の宣教師たちはそれをキリスト教の教義に反するものとして激しく非難した(典礼問題)。
 1704年にローマ教皇クレメンス11世が中国の祭祀を群像崇拝であるとして異端の宣告をすると、清朝はこれに激しく反発し、康熙帝は中国の典礼を否認する教団(イエズス会以外)の中国伝道を禁止し、雍正帝は学問や技術をもって清朝に仕える者以外はすべて国外に追放し、乾隆帝は1757年に貿易も広東(広州)一港のみに制限した。

5)イギリスの広東貿易
 ポルトガル、スペイン、オランダに遅れて17世紀末から中国貿易に参入したイギリスは、東インド会社によってインド産の綿花を輸出し、中国から絹・茶・陶器などを買い付けたが、しだいに貿易量が増加して18世紀中頃には広東貿易の中心勢力を占めるようになった。
 1757年に乾隆帝が貿易を広東一港だけに制限し、しかも広東十三行と称される政府の特許商人を介して取引を行わなければならなくなった。不利な貿易条件を改善するためにイギリスは2度に渡って清朝へ特使を派遣したが(1793年マッカートニー、1816年アマースト)成功しなかった。1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されると、イギリス政府から貿易監督官が赴任するようになった。

6)ロシアの南下
 ロシアが東進路への食料補給を目的として、1651年に黒竜江岸のアルバジンに城塞を築くと、清の康熙帝はこれに対抗して黒竜江岸にアイグン城を築き、ロシア人を排除した。1689年に両国はネルチンスクにおいて協定を結び(ネルチンスク協定)、両国人の自由な相互貿易を認めるとともに黒竜江流域を清領として認めさせた。
 しかしその後もロシア人が外モンゴル方面に進出してきたため、1727年雍正帝の時にキャフタ条約が結ばれ、ロシアとの間で正式な貿易路が開かれた。
 ピョートル大帝の時代にロシアは東北地方を避けてシベリア方面に進出し、1697年にベーリングらがカムチャッカ半島に達し、1741年にはベーリング海峡を発見してアラスカ方面に進出した。
 その後ムラヴィヨフが東シベリア総督になると、ロシアは再び黒竜江下流方面に勢力を伸ばし始めた。

7)アヘン戦争(1840〜1842)
 19世紀になるとイギリスが中国から買い付ける茶や絹の量が著しく増大し、中国に支払う銀が巨額に上るようになった。このため、イギリスは中国にインド産のアヘンを輸出するようになり、1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されるとイギリス本国の自由貿易商人が中国市場に殺到し、中国の茶・絹をイギリス本国へ、本国製品をインドへ、インド産のアヘンを中国へ運ぶ三角貿易が確立した。
 1839年、林則徐はアヘン貿易に対して強硬策に出、イギリスのアヘンを強制的に没収して処分し、英貿易監督官に輸入禁止の誓約を求め、英商人の一般貿易も禁止した。
 1840年、イギリスは本国から艦隊を送って清朝と交渉を行ったが、広東近郊の農民が平英団を組織し、イギリス軍を包囲攻撃した。そこでイギリスは武力で広東居留地を占領し、厦門・寧波などを陥落させ、長江を遡って南京攻撃を企てた。イギリスの近代的武力に屈服した清朝は1842年に南京条約を結んだ。
 南京条約は、①香港島の割譲、②広州・厦門・福州・寧波・上海の5港開港、③賠償の支払い、④公行の貿易独占制度廃止、⑤官吏の対等な交渉権などを定めた不平等条約であり、アヘンの密貿易はますます盛んになることになった。1844年にはアメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結び、イギリスとほぼ同じ通商条件を定め、中国の半植民地化が急速な勢いで進行しだした。

8)太平天国の乱
 清朝の国力が衰え始めた18世紀末には11年に渡る白蓮教徒の乱が起こり、政府の軍事力の衰退があからさまとなった。
 1850年に凶作が起こると、上帝会というキリスト教系の秘密結社を組織した洪秀全が「滅満興漢」を旗印に広西で挙兵し、翌年に太平天国という国号を立て、自ら天王と称した。1852〜53年には武漢三鎮を占領し、南京を陥落させて天京と改名して都とし、長江中・下流一帯を支配下に置いた。太平天国はキリスト教の平等思想と儒教思想とを調和させ、天朝田畝制度などの郷村組織改革、悪習の撤廃、男女平等、租税軽減、土地均分などを行って農民たちの支持を得た。しかし1856年を全盛期として、その後は内紛や違約などで次第に衰退していった。

9)アロー戦争
 太平天国の内乱中の1956年にイギリス船籍を持つアロー号の中国人乗組員が海賊の疑いで清朝官憲に逮捕されたのに対し、イギリス側は国旗侮辱を名目に釈放を要求したが清国側に拒絶されたアロー号事件が起こった。またフランスもカトリック宣教師殺害事件を口実にイギリスと共同し、1857年に英仏艦隊が広州を占領し、翌1858年には天津へ進攻した(アロー戦争または第2次アヘン戦争)。
 これに屈服した清朝は天津で英仏にロシアとアメリカを加えた4国との間に天津条約を結んだ(1858)。
 天津条約は、①戦費の賠償、②外交官の北京駐在、③外国人の中国内地の旅行の自由、通商の自由、④新たに10港の開港、⑤外国船の漢口までの遡行、⑥キリスト教の布教の自由と保護などであった。
 しかし1859年、天津条約の批准交換のために北京へ向かう途中の英仏使節が砲撃を受けたことから、翌年英仏は再び連合軍を組織し、北京に侵攻して円明園離宮を略奪して焼き払い、次いで北京を無血占領した。文宗咸豊帝は熱河に逃れ、北京に残った弟の恭親王奕訢がロシアの調停により英仏との間に天津条約の批准交換を行い、新たにロシアを含めた3国との間に北京条約を調印した(1860)。
 北京条約では、①英仏に対する賠償金の追加、②天津の開港、③九龍地区をイギリスに割譲、④沿海州をロシアに割譲などが定められた。
 清朝では外国との交渉を担当する総理各国事務衙門が設けられた。

10)同治中興
 1861年に文宗咸豊帝が亡くなると、穆宗同治帝が6歳で即位したが、幼少であったため、政治の実権は実母の西太后と叔父の恭親王奕訢が握った。
 長江流域を支配していた太平天国に対し、清朝の正規兵である八旗はもはや対抗する力を持たず、郷勇と称する義勇軍が代わって鎮圧の主力となった。曾国藩が組織した湘勇(湖南)、李鴻章が組織した淮勇(安徽)、左宗棠の楚軍(湖南)などが代表で、後に軍閥に発展していく。
 太平天国が上海に迫ると、アメリカ人ウォードが中国人の傭兵隊を組織して様式訓練を施し、後にイギリス人ゴードンに引き継がれ、たびたび太平天国軍を破って常勝軍と呼ばれた。
 1864年に天京(南京)が清軍の手に落ちると、洪秀全は自殺し、15年に渡る太平天国は終焉した。
 太平天国の乱が平定されると、ようやく国内に平和が取り戻された(同治中興)。
 しかし、功労を立てた曾国藩、李鴻章、左宗棠ら漢人の政府内における地位は次第に満州人を圧倒するようになり、なかでも李鴻章はやがで最大の軍閥勢力を形成していく。彼らは西洋式の武器や機械を輸入し、その製造技術を導入することに努め、また武器製造所や造船所を建設して次第に近代工業を立ち上げていくようになった(洋務運動)。

11)日清戦争
 1868年に明治維新を迎えた日本は西洋文化を積極的に輸入して速やかに近代化を果たし、早くも大陸に進出し始めた。1871年には清との間で日清修好通商条約が結ばれた。
 1875年、日本軍艦が漢江河口で砲撃された江華島事件をきっかけに、翌年日本は朝鮮と日朝修好条規(江華条約)を結び、朝鮮進出に乗り出した。朝鮮内部では清朝への依存派である事大党と親日的な革新派である独立党(開花派)の対立が生じた。
 1885年、日本は伊藤博文を中国に派遣し、李鴻章と天津条約を結び、両国の朝鮮からの撤兵と、将来派兵する場合の相互予告を取り決めた。
 1894年、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が発生すると日清両国が朝鮮に出兵し、やがで戦争状態に入った。日本軍は朝鮮から北上して東北地方を制圧し、遼東半島への上陸軍も圧倒的勝利を収め、清の北洋海軍も壊滅的損害を受けて降伏した。
 1895年、清朝は李鴻章を日本に派遣し、下関で講和条約を結んだ(下関条約)。清朝は日本に対し、①朝鮮独立の承認、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金の支払い、④4港の開港と工業企業権の承認、⑤最恵国待遇の供与などを約束した。
 しかし同年、ロシア・フランス・ドイツの圧迫によって遼東半島を清に返還することになった(三国干渉)が、その代償に賠償金を取得し、翌1896年に東北地方(満州)を横断してシベリア鉄道と連絡する東清鉄道の敷設権を獲得した。98年には旅順・大連を租借地とし、東清鉄道の支線(南満州鉄道)を同地まで延長する権利も得た。

12)列強の中国侵略
 ドイツは1898年、山東省で起こったドイツ宣教師殺害事件を口実に膠州湾を租借し、山東半島を横断する膠済鉄道の敷設権を得た。
 イギリスはロシアの南下に対抗するため、山東半島北岸の威海衛を租借地として獲得し、同時に香港対岸の九龍半島を租借地とすることにも成功した(1898)。
 フランスは1895年に雲南方面における鉄道・鉱山の利権を得た後、広州湾を租借した(1900)。こうして中国沿岸部に列強国が根拠地を築き、フランスは華南を、イギリスは長江流域を、日本は福建省を(1898)、ロシアは外モンゴルを自国の勢力圏とし、この地域を他の列強に割譲しないことを清朝に宣言させた(不割譲宣言)。
 中国進出が遅れたアメリカは米西戦争でフィリピン諸島を獲得し、国務長官ジョン・ヘイは中国に関する門戸開放宣言(領土保全・門戸開放・機会均等の三原則)を列強に対して提唱した(1899)。

13)義和団事件(北清事変)
 1898〜99年頃より、義和拳教という白蓮教系の宗教的秘密結社の信徒たちが「扶清滅洋」の旗印のもとに外国人・外貨の排斥やキリスト教会の破壊を行い始めた。山東省長官の袁世凱がこれを弾圧すると、義和団運動は天津・北京へと矛先を向け、次第に勢力をまして遂に北京に入城し、外国公使館区域を包囲するに至った。
 西太后政権はこれを支援し、諸外国に対して宣戦したため、日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリアの8カ国は連合軍を結成して北京に進撃し、清朝を屈服させた(1900)。
 1901年、清朝と列国との間に北京議定書(辛丑和約)が調印され、①犠牲者を出した日本・ドイツ両国への謝罪使の派遣、②責任者の処罰、③列強への賠償金支払い、④北京・天津などにおける外国駐屯軍の承認などが決定された。

14)清朝の改革
 日清戦争の敗北により、李鴻章、曽国藩らの洋務運動の限界が明らかになると、西洋流の立憲政体を樹立するための政治改革を求める運動(変法自強運動)が盛んになり、康有為・梁啓超らがその中心となった。
 1898年、徳宗光緒帝が彼らを登用し、革新政治を断行することにした(戊戌の変法)。しかし宮廷内の西太后を中心とする保守派の激しい反発を招き、クーデターが起こって光緒帝は幽閉され、変法派は弾圧・処刑された(戊戌の政変)。
 政権を握った西太后一派は保守排外を旨とし、義和団事件に乗じて列強に宣戦したがあえなく失敗に終わった。ようやく時勢の進展を認めた清朝は1900年末より諸制度の改革に着手し、科挙の廃止(0905)、新軍編成、海外への留学生派遣などを開始した。
 1908年には立憲政治を望む世論に押されて憲法大綱を発布し、憲法制定や国会開設を約束したが、時は遅く、すでに革命勢力が台頭しつつあった。

15)孫文の革命運動
 列強の進出により軽工業が海港都市を中心に起こり始めると、これに刺激されて中国人による工業も起こり、民族資本は紡績業を中心に発展したが、清朝の専制的支配がその障害となりはじめたため、清朝を打倒して漢民族国家を復興しようとする民族主義運動が次第に盛んとなってきた。
 1894年、孫文は革命団体興中会をハワイで組織し、95年に広州で清朝打倒の蜂起を行ったが失敗して亡命し、海外で革命勢力の糾合に努めた。1905年には東京で革命諸団体を結集して中国同盟会が結成された。海外の華僑や国内の進歩的資本家層の支持を受け、孫文は民族主義・民権主義・民生主義の三民主義を提唱し、機関紙「民報」によってこれを宣伝した。

16)辛亥革命(第1革命)
 1911年、清朝が鉄道国有化の名目で、民族資本の鉄道を一方的な条件で買い上げようとすると、各地で反対運動が起こり、四川では暴動に至った(四川暴動)。10月10日には湖北省で軍隊が蜂起し、黎元洪を首脳に軍政府を組織した(武昌起義)。すると反清朝勢力が湖南・広東・浙江など十余省で次々に独立を宣言し、同年末にはこれら各省の代表が南京に集まり、中国同盟会総裁孫文を臨時大統領に選出した。
 1912年1月1日に南京で中華民国臨時政府の成立が宣言された。

17)清朝滅亡
 清朝の幼帝宣統帝(溥儀)を補佐していた父親の醇親王は、革命を圧殺するために北洋軍閥の実力者袁世凱を総理大臣に任命し、全権を委ねたが、袁世凱は革命軍と密かに秘密交渉を進め、その結果1912年2月に宣統帝は退位させられ、清朝は滅びた。袁世凱は密約により、正式に成立した中華民国の臨時大統領に就任し、臨時約法が交付され、首都は北京と定められた。
 1913年の選挙では革命派が組織する国民党が大勝したが、袁は外国勢力と結んで革命派を弾圧し始めたため、革命派の主要人物たちは亡命を余儀なくされ、孫文は東京で中華革命党を結成した(第2革命)。
 袁は独裁的な専制政治を敷き、自ら皇帝の位に就こうと画策したが、これに対して革命派の反対運動が起こり(第3革命)、袁は大統領の地位から退くことを余儀なくされ、やがて失意のうちに病没した。その後中国は各地で強大な軍閥が割拠する形勢となった。


Ⅴ 現代

1. 中華民国(1912〜)
 1912年に清朝最後の皇帝宣統帝が退位させられ、袁世凱を臨時大統領とした中華民国が成立したが、やがて袁は革命派(国民党)を弾圧し、専制支配を行おうとした。しかし革命派の反発と軍閥の離反により彼は大統領職から退かざるを得なくなり、中心を失った中国は各地で軍閥が割拠する形勢となった。

1)第一次世界大戦中の中国
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、連合軍側に立った日本はドイツに宣戦し、いち早く山東半島に上陸して、ドイツの租借地膠州湾を占領した。ヨーロッパ列強の関心がアジアから逸れている間に日本は積極的に中国進出を図り、1915年1月に北京の袁世凱政府に対し、山東省のドイツ権益を日本へ譲渡する要求を含む包括的な21ヶ条要求の受諾を迫り、これを呑ませた。
 袁世凱に代わって段祺瑞が政権を取ると、日本は借款を与え(西原借款)、貿易資本を大量に中国へ進出させるなど帝国主義的膨張に余念がなかった。そのため、次第に中国の対日感情が悪化しはじめ、排日運動も始まった。
 日本の中国進出はアメリカとの対立も激化させたが、1917年、日米両国は石井・ランシング協定により一応の妥協に達した。

2)民族運動の高まり
 1915年に上海で陳独秀らが雑誌「新青年」を発刊し、ここを舞台に胡適・魯迅らが革新的な文学を展開し始めた(文学革命運動)。1917年にロシア革命が成功すると、中国の知識人たちは急速にマルクス主義に傾いていった。
 1919年にパリで開かれた講和会議が山東半島に対する日本の要求を認めると、5月4日に北京大学を中心に学生数千人がパリ講和条約調印反対と21ヶ条要求の廃棄をスローガンにデモ行進を行った。この運動が政府の弾圧にも関わらず全国へ拡がり、排日運動が勢いづいた(五・四運動)。
 1921〜22年のワシントン会議では、米英が協調して中国の領土と主権の尊重をうたった九カ国条約を成立させ、日本に圧力を加えて山東省における権益を中国に返還させた。

3)国民党による中国統一
 中国内部では軍閥勢力が分裂して相互に抗争し、さらに諸外国がこれに介入してきたため、政治状況がきわめて複雑な展開となった。
 1917年、革命派が孫文を大元帥として広東政府を樹立し、19年に国民党を正式に結成した。同年、ソ連はカラハン宣言により、民族解放運動を援助することを明らかにした。
 1921年には陳独秀らを指導者とする中国共産党が設立され、22年にはソ連の特使ヨッフェらが中国を訪れた。
 1922年以降、孫文は共産党員の国民党加入を認め、24年に開かれた第1回国民党大会には陳独秀・毛沢東ら共産党員も代表として参加した(第1次国共合作)。この大会を機に国民党は国民各層を基盤とする全国的な大衆政党に発展し、連ソ・容共・扶助工農をスローガンとして軍閥と帝国主義の打倒を目指すようになった。同年、革命軍養成のための軍官学校が設立され、蒋介石がその校長に就任した。
 20年代には労働運動も発展し、25年に労働組合の全国組織である全国総工会が成立した。同年5月、上海の日本内外綿工場でのストライキで死者が出たことに抗議する学生のデモ行進が警官隊と衝突し、多数の犠牲者が出た(五・三○事件)。これを契機に上海のストライキが全国に波及し、反帝国主義の民族運動となった。
 孫文は1925年に病死したが、翌26年に開催された国民党の第2回大会で革命運動はいっそうの盛り上がりを示した。国民政府の主席には汪兆銘が選ばれ、同年7月、北方の軍閥を打倒するために北伐が実行されることになった。蒋介石を国民革命軍総司令とする北伐軍は広東を出撃し、10月には武漢三鎮を陥落させ、翌年には南京・上海も落とした。しかし、やがて左右両派の対立が厳しくなり、武漢に拠点を移した汪兆銘の国民政府(国民党左派および共産党が支持)と、蒋介石率いる右派との抗争が表面化した。
 蒋介石は列強(米・英・日)と妥協し、27年4月に上海でクーデターを起こして共産党を弾圧し(国共分裂)、浙江財閥を背景に南京に国民政府を樹立した。武漢と南京に二つの国民政府が対峙することになったが、まもなく武漢政府内部に分裂が生じ、汪兆銘の国民党左派は共産党を弾圧して南京政府に合流した。
 1928年4月に北伐が再開されると、英米は蒋介石を支援したが、中国統一を恐れた日本は居留民保護を名目に出兵し(山東出兵)、中国軍と衝突した(済南事件)。北伐軍が迫ると、日本の援助を受けて北京を支配していた張作霖(奉天派)は奉天へ逃れたため、6月に蒋介石の軍隊は北京に入城し、北伐の完成を宣言した(国民革命)。同6月、張作霖を乗せた列車は瀋陽付近で日本軍の仕掛けた爆弾によって爆破され、張は死亡した(奉天事件・張作霖爆殺事件)。張作霖の子、張学良は国民政府に合流し、ここに国民党による全中国統一が完成した。

4)国民政府と共産党の対立
 1928年、北伐が完成すると、蒋介石が正式に国民政府主席に就任した。翌29年には第3回国民党大会が開かれ、蒋介石派が党の中枢機関を握ることになった。しかし国民党内部では軍閥が抗争を続け、汪兆銘・閻錫山・馮玉祥らが反蒋戦争を繰り返した。
 一方、27年の蒋介石による反共クーデターで打撃を受けた共産党は、同年に中央委員会を開いて、①労働者・農民を基盤とした革命的軍隊の建設、②徹底的な土地改革と、それを基盤にした農民運動の展開を方針とした。
 これと前後して南昌で朱徳らの指揮のもとに共産党が蜂起し、軍隊(のちの紅軍)が組織され、広東省に最初のソビエト政権を樹立した。また、湖南・湖北・江西・広東の四省にわたって農民の蜂起が繰り広げられ、毛沢東はその過程で湖南省と江西省の境にある井崗山に根拠地を築いた。こうして30年代初めに華南を舞台に数千万の人口を抱える解放区が作り出された。これに対し、国民党は大規模な包囲攻撃を紅軍に対して試みたが、解放区の拡大を阻止することはできなかった。

5)満州事変
 1931年9月、奉天郊外の柳条溝で満州鉄道が爆破されると、日本の守備隊はそれを口実に奉天を占領し、さらに戦線を拡大して東北地方のほぼ全土を関東軍が制圧した。
 1932年1月、日本軍は抗日運動の激化する上海に大軍を派遣して占領を企てたが、中国軍の激しい抵抗に会って目的を果たせず、イギリスの仲介によって停戦協定を結び撤退せざるを得なくなった(第1次上海事変)。
 同年3月には関東軍の方針によって満州国の独立が宣言され、宣統帝溥儀が担ぎ出されて執政の地位に就いた。中国政府は日本の侵略を国際連盟に提訴し、同年、国際連盟はイギリスのリットン卿を委員長としたリットン調査団を満州に派遣した。この委員会による報告書は、満州国の政権を承認せず、日本軍の撤退と新しい満州自治政権の樹立を勧告し、これが国際連盟総会によって採択されると、日本は国際的に孤立し、国際連盟を脱退した(1933)。
 1933年に日本軍は熱河作戦によって満州国の領土を万里の長城まで拡大し、続く関内作戦により北京を脅かした。同年5月、蒋介石は日本に譲歩して塘沽協定により、河北省東部の非武装化に同意した。翌34年には満州に帝政が布かれ、溥儀が皇帝に即位した。蒋介石との協定により、満州における既成事実を中国に承認させた日本は、35年に河北省に冀東防共自治政府とい傀儡政権を成立させ、36年には華北駐屯軍を一方的に増強した。国民政府は冀東防共自治政府に対抗するために冀察政務委員会を作り、日本軍との関係を悪化させた。
 1937年7月、演習中の日本軍が中国軍と衝突した盧溝橋事件をきっかけに、ついに日中戦争に突入した。

6)日中戦争と国共合作
 1937年7月、日本軍は北京・天津を占領し、8月には上海にも派兵した(第2次上海事変)。11月には杭州湾に上陸し、12月には南京を占領した。翌38年5月には徐州を攻略し、10月には武漢を陥落させ、広州も占領した。蒋介石の国民政府が重慶に移ると、南京に汪兆銘首班の政権を樹立した(1940)。

 日本が東北地方で勢力を拡大し続けている間、蒋介石は日本軍に正面切って抵抗はせず、共産党の指導する解放区への攻撃に主力を注いでいた。
 1931年に江西省の瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立され、毛沢東がその主席に選ばれており、江西省と福建省にまたがる地域を共産党は支配していた。33〜34年に蒋介石が中央解放区に包囲攻撃をかけ、紅軍に甚大な被害が出ると、共産党政権は本拠地の移動を決意した。34年10月より1万2千キロに及ぶ長征を行い、翌年陜西省・甘粛省にたどり着くと、ここに新しい解放区を築き、延安に本部を置いた。
 1935年1月、毛沢東が名実ともに共産党における指導権を確立すると、同年8月に共産党により、内戦の停止と抗日統一戦線結成を呼びかける八・一宣言が出された。しかし蒋介石はこれに応じず、旧東北軍を派遣して紅軍討伐に当たらせようとした。軍を指揮していた張学良は紅軍討伐より抗日運動を重視し、36年12月に蒋介石を幽閉する行動に出た(西安事件)。共産党の周恩来の仲介により、蒋介石は内戦の停止と抗日を条件に釈放され、これを機に翌37年に第2次国共合作が成立した。
 1937年12月に日本軍が南京を占領すると、蒋介石の国民政府は武漢から重慶へと本拠地を移して抗戦を続け、八路軍や新四軍などの紅軍も抗日戦争に加わって日本軍を苦しめた。
 1941年12月、日本がハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が勃発すると重慶の国民政府も連合国側に立って日本・ドイツ・イタリア3国に宣戦を布告した。連合国側の支援を受けた中国政府は、1943年に租借地の回収や不平等条約の撤廃も実現させた。
 1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、第2次世界大戦の終結とともに日中戦争も終了した。

2. 中華人民共和国(1949〜)
1)国共内戦
 終戦後、抗日統一戦線を結成していた国民党と共産党との間で再び指導権をめぐる抗争が激化しだした。国民党はアメリカの強力な支持を受けて旧日本軍の占領地域を回復しようとしたのに対し、共産党は東北地方や華北に進出してこれと対立した。
 1946年半ばより国民党軍が共産党軍を攻撃し、一時はその根拠地である延安を占領したが、その後共産党軍が反撃に転じ、47年後半には全面的な国共内戦に突入した。
 1947年末に蒋介石がアメリカの支援を受けて新政府(中華民国)総統に推挙されたが、戦後の混乱を制御できずに民衆の反感を買った。一方、共産党の毛沢東は新民主主義を旗印に農村に基盤を築き、次第に勢力を伸ばしていった。48年には東北と華北とが完全に共産党の手に帰し、49年には中国本土のほとんどがその勢力下に統一された。
 国民党政府は蒋介石のもとに、台湾に逃れてアメリカの保護下でその地を確保した。

2)中華人民共和国の成立と発展
 1949年9月、北京で共産党の指導下に人民政治協商会議が開催され、新国家の基本法として共同綱領が宣言された。翌10月に北京を首都とする中華人民共和国が成立し、中央人民政府主席に毛沢東が、総理に周恩来が選ばれた。
 ソ連を始めとする社会主義圏諸国はいち早く新政権を承認し、50年2月、毛沢東はスターリンとモスクワで中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、ソ連は中国に借款を与え、既得権益を返還することを約束した。
 新政権はただちに社会改革に着手し、強力な国家統制のもとに農業・工業の開発に努めた。1953年から始まる第1次五カ年計画では飛躍的な工業生産の増加をみたが、55年からの急速な農業集団化は期待外れに終わった。
 56年から毛沢東の主導による「百花斉放・百家争鳴」「長期共存・相互監督」の自由化政策は、翌57年には共産党の反撃による反右派闘争に転換し、政府内部の粛清や民主諸党派に属する文化人・知識人の弾圧を招いた。

  58年からは大躍進政策が始まり、農村では人民公社による集団化が推し進められたが、60年にソ連の援助が打ち切られ、59〜61年の自然災害などのためにこの政策は失敗し、中国経済は大きな痛手を受けた。そこで59年から毛沢東に代わって国家主席に就任していた劉少奇を中心に調整政策による経済の立て直しが図られた。
 64年には核実験にも成功し、核保有国となった。
 65年頃より最高指導部内の対立が先鋭化し、66年以降はプロレタリア文化大革命の名のもとに、毛沢東や林彪らによって劉少奇や鄧小平ら実権派への大規模な攻撃が始まった。毛沢東率いる学生主体の紅衛兵らが活躍し、68年には劉少奇は等から除名され失脚した。

 69年には文化大革命も収束し、毛沢東と林彪を中心とした指導体制が確立したが、その後林彪は反毛沢東のクーデターを企てて失敗し、ソ連への亡命途中で搭乗機が墜落して死亡した。
 対外的には71年に中華民国(台湾)に代わって、国際連合の代表権を認められたが、中ソの対立は激化していった。翌72年にはアメリカ大統領補佐官キッシンジャーの活躍により、中国への接近政策に転換したニクソン大統領が中国を訪問した。
 この間、一貫して首相の座を保持し続けていた周恩来が76年に死去し、毛沢東も同年に死去した。

 周恩来の死後首相となった華国鋒は、76年10月に人民解放軍の支持を得て毛沢東夫人の江青ら四人組を反党分子として追放し、党主席に就任した。
 77年には鄧小平が副首相に復活し、近代化路線を推進した。78年8月には日中平和友好条約が締結された。
 78年以降は農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」が内政の中心に据えられ、79年にはアメリカとの間で国交が樹立された。81年には胡耀邦が党主席となり、鄧・胡指導部が誕生した。82年の党大会で、党主席制は廃止され、総書記を最高指導者とする制度に改革され、総書記には胡耀邦が就任した。その後、趙紫陽首相らを中心に「改革開放」のスローガンのもとに人民公社の解体、外国資本の導入などで経済開放政策が取られた。
 89年6月には天安門事件が起こり、中国政府は人権抑圧として国際的避難を浴び、西側諸国から制裁措置を受けた。この事件後、趙紫陽総書記が解任され、後任に江沢民が選ばれた。同年11月、鄧小平が党中央軍事委主席を辞任し、後任に江沢民が就任した。
 97年に鄧小平が死去すると、江沢民総書記が指導力を強め、高度経済成長路線を定着させた。同年、香港がイギリスより返還された。
 02年には胡錦濤が江沢民に代わって総書記となり、03年に国家主席の座にも就いた。中国経済は、東部の沿岸地域を中心に急速に成長を続けているが、地域間の格差や失業者の増大などの社会問題が深刻化してきている。


【註記】


【参考】


【作成】2017-03-08