中国史概説(上)

中国史概説(上):先史時代〜元朝


Ⅰ 先史時代

1. 黄河文明
 前4000年頃から前1600年頃、黄河の中・下流域の黄土地帯に原始農耕文明(新石器文化)が発展し、これを黄河文明と呼ぶ。

1)彩陶文化(仰韶ヤンシャオ文化)
 前4000〜前2000年頃に黄河の中・下流域に栄えた文明で、原始的な氏族共同体による村落を構成し、半地下式住居に住んで農耕と牧畜を行った。住民は体質的にも文化的にも現在の中国人と深い関係があり、原中国人 proto Chineseと呼ばれる。
 日用的に灰陶(灰色土器)を用い、また装飾的な彩陶(彩文土器)も作成した。磨製石器を用いて粟・キビなどを栽培し、豚・犬などを飼育した。

2)黒陶文化(竜山ロンシャン文化)
 前2300〜前1600年頃に大村落農耕文化に発展し、黄河下流域の山東方面に文化の中心が移った。住民は土塁を巡らせた都市国家(邑)を形成し、牛・馬の飼育も始まった。
 製陶技術も進み、黒陶(黒色土器)と呼ばれる薄手の土器が制作されるようになり、後の青銅器の祖形をなした。
 大邑のうちから大小の国家が誕生し、伝説的な三皇五帝や夏王朝はこのような原始国家を支配したと考えられる。それらの諸国家を制圧して、最初の確実な国家である殷王朝が誕生した。

2. 長江文明・四川文明
 前1400〜前1000年頃には黄河文明と並行して、長江流域に水稲栽培を中心とする新石器文化が栄え、これを長江文明と呼ぶ。
 また、1986年に四川盆地の三星堆(さんせいたい)遺跡から大量の青銅器が発見され、黄河・長江とも異質な文明であることから四川文明と呼ばれるようになった。

3. 夏王朝
 伝説的な三皇(伏羲・女媧・神農)および五帝(黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜)の後を継いだ禹により開かれた王朝で、末帝桀王の時に殷に滅ぼされた。考古学的に確実な証拠が発見されていないため、伝説的王朝として扱われている。


Ⅱ 古代

1. 殷(商)王朝(前1600〜前1050頃)
 殷王朝は夏王朝を滅ぼした後、前1300年頃に氏族共同体集落(邑)連合の盟主として商邑(殷墟)に都し、祭政一致の政治(神権政治)を行った。初期には兄弟相続が行われたが、後に父子相続へと移り、王は宗教的・世俗的権力を一身に集めるようになった。
 経済の基本は農耕で、キビ・粟・麦などを栽培し、戦争捕虜を奴隷として使役し、複雑な動物文様をもつ精巧な青銅器が作成された。
 前1050年頃、末帝紂王のときに西方の周族の攻撃を受けて滅亡した。

2. 周王朝(西周)
 西方の渭水流域に興った周族(姫姓)は西北方面の民族と交流して次第に勢力を増し、前1050年頃に殷王朝を滅ぼし、鎬京を都として黄河中流域(中原)を支配した。
 王は直轄領として畿内を支配し、その他の領土は主として同族の諸侯に封土として分配した(封建制度)。諸侯は主に血縁的な氏姓制度を基礎とし、世襲が認められたが、功臣や古くからの土豪らも含まれていた。また、王と諸侯の下には卿・大夫・士などの世襲家臣が置かれ、一定の封土(采邑)が与えられた。
 政治は礼によって行われ(礼政一致)、王は天の人格化したもの(天子)と考えられ、道徳の実践的表現が政治の根本とみなされた。
 支配階級は姓と呼ばれる血縁団体を形成し、同姓の婚姻は許されなかった(同姓不婚)。後に姓は氏に分かれて実質的な社会単位となり、姓・氏を同じくする一族(宗族)は独自の規約(宗法)を定め、本家の家長による祖先祭祀を中心として団結した。
 一方、被支配者階級は土地神の「社」を中心とした村落共同体によって結合した。領主は直接農民を支配せず、村落共同体に一定の土地を割り当てて耕作させ、その収穫の一部を収めさせる労働地代の方式が取られた(井田法)。また、農民には多くの徭役も課せられた。最下層には奴隷(奴婢)があり、支配者階級に隷属した。
 8世紀頃になると、周王と一族諸侯の血縁関係が薄れて、次第に諸侯が独立敵勢力を獲得していった。また、北部からの周辺民族の侵入も盛んになったため、前770年に周王朝は東方の洛邑に遷都した(周の東遷)。これ以前を西周、以後を東周と呼ぶ。

3. 春秋戦国時代(東周)
1)春秋時代(前770〜前403)
 周王朝は洛邑付近の領土を支配し、諸侯もまだ周室を尊ぶ風を失わなかった。斉の桓公を中心に、諸侯は同盟を結んで(会盟)周室を擁護し、周辺民族の侵入を防いだ(尊皇攘夷)。会盟を率いた有力諸侯は覇者と呼ばれた。
 斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王夫差、越王勾践を春秋の五覇と呼ぶ。

2)戦国時代(前403〜前221)
 周王朝の権威は零落し、有力諸侯が自ら王を名乗って覇を競った(下克上)。周初には約800、春秋初期には約140あった諸侯国は次第に統合され、戦国時代には斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の七国となった(戦国七雄)。やがて西方の秦が強大となり、他の六国は蘇秦の合従策により対抗したが、秦は張儀の連衡策によりこれを破り、前256年に秦は周を滅ぼし、他の六国を次々に破って前221年に天下を統一した。

3)春秋戦国時代の社会と文化
 春秋戦国時代には各諸侯たちが激しい争乱を通じて自国の富国強兵化を積極的に推し進めたため、商業・手工業は発展し、鉄製農具の普及と治水・灌漑事業の進展により農業生産も高まった。戦国時代には鉄製の犂を牛に引かせる牛耕も始まった。
 村落共同体による共同耕作は、次第に家族単での農耕へと移り変わり、家父長制家族による自立した農家が出現し、土地の私有傾向が強まって貧富の差が拡大した。
 経済の発展に伴い、青銅貨幣が使用されるようになり、大商人たちが巨富を築いた。
 周王室の封建制度が崩れると、諸公国においては郡県制が発達していった。
 古い身分制度が崩れ、庶民階級にも立身出世の機会が与えられるようになり、各諸侯が競って有能な人材を求めたため、多くの思想家たちが登場し、諸子百家と呼ばれた。前6世紀後半に孔子が現れ、儒家の基礎を築くと、やや遅れて登場した墨子は博愛主義(兼愛)を説いた。前4世紀から前3世紀にかけて、道家(老子、莊子)、法家(商鞅、韓非子)、兵家(呉子)、名家(公孫竜)らが登場した。
 西周から春秋までの詩歌を集めた、中国最古の文学「詩経」が誕生し、戦国末には楚の詩人屈原による「楚辞」が作られた。

4. 秦(前221〜前206)
 前8世紀に中国西方に興った秦は、戦国時代初めに商鞅を用いて富国強兵を図った孝公の時代に中央集権を強化し、次第に戦国七雄のなかで最も強大となり、都を咸陽に定めて前256年に周を滅ぼした。続いて秦王政は前221年に天下を統一し、自ら皇帝と号した(始皇帝)。
 始皇帝は法家李斯を用いて中央集権・君主独裁の官僚支配体制を樹立した。中央には丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)を置いて権力分立を図り、中国全土を直轄地として36郡(のち48郡)に分け、中央から官吏を派遣して統治した。
 反乱防止策としては民間の兵器を没収し、全国の主な都邑の城壁を破壊し、多くの富豪を首都咸陽に集めた。
 また、貨幣・度量衡・車の幅を統一し、文字を篆書に統一した。一方、言論思考を統一するため、儒家を始めとする諸学派を圧迫し、焚書坑儒を行った。
 始皇帝自らは国内を巡幸して人心の統一を図った。北方民族匈奴に対して将軍蒙恬を派遣してオルドス地方を奪い、匈奴の侵入を防ぐために万里の長城を築いた。南方では越族を討って桂林・象郡・南海の3郡を置いた。
 厳格な法治主義、阿房宮や長城の建設による労役等で次第に人民の不満は高まり、前210年に始皇帝が東方巡幸の途上で病死し、二世皇帝が立つと、陳勝・呉広の乱を始めとして各地に反乱が起こり、前206年に秦は滅亡した。

5. 漢
1)前漢(前202〜後8)
 秦朝が滅びると、楚の貴族出身の項羽と平民出身の劉邦が有力となって覇を競った。前202年に垓下の戦いで劉邦が項羽を破って天下を統一し、長安に都を置いて漢王朝を開いた(前漢)。
 高祖劉邦は秦の法律を緩め、租税を軽減した。首都長安を中心とする地域は直轄地として郡県制を敷き、他の地域は封建制を取り入れて一族功臣を王に封じた(郡国制)。しかし、その後異姓の諸侯を次々に廃し、同族劉氏を王に封じた。冒頓単于の下で強大化した匈奴に対しては融和策を行った。
 その後次第に同族諸王の勢力が増してくると、第5代文帝・第6代景帝はかれらの封土を削減しようとしたために諸王の反感を買い、前154年に呉・楚など7国が乱を起こした(呉楚七国の乱)。これが平定されると、諸王はほとんどが廃され、実質的な郡県制の移行した。
 第7代武帝は推恩の令を発して諸王の力を弱め、全国的な郡県制を確立した。武帝は郷里選挙による中央集権的官僚支配体制を固め、初めて年号を制定し、儒教を尊重した。
 対外的には将軍衛青・霍去病らに命じて匈奴を北方に駆逐し、西方の大月氏を同盟を結ぶために張騫を西域に派遣した。やがて中央アジアのオアシス都市国家(西域36国)を服属させるに至った。南方では南越を征服してインドシナ北東部まで進出し、東方では衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など4郡を設置した。
 後年、国家財政が逼迫すると、武帝は重税を課し、貨幣を改鋳し、塩・鉄・酒を専売にし、均輸法・平準法により経済を統制しようとした。
 武帝の後は凡庸な皇帝が相次ぎ、皇帝の擁立などを巡って外戚と宦官が権力を争い、地方では大土地を所有する豪族が勢力を伸ばしていった。

2)新(後8〜後23)
 後8年、宮廷の権力争いに勝利した外戚の王莽は、漢を滅ぼして自ら帝位に就き、国号を新と称した。王莽は極端な復古主義的政策を実施しようとしたが、社会は混乱し、農民や豪族の反乱を招いたうえ、対外的には匈奴討伐の失敗、高句麗の侵入、西域諸国の反乱、雲南の反乱が相次ぎ、農民反乱(赤眉の乱)に乗じて豪族たちが蜂起したため、後23年に新は崩壊した。

3)後漢(23〜220)
 新の滅亡後、天下は乱れたが、後25年に漢の一族である劉秀が全国を統一して漢を復興した。劉秀は光武帝と名乗り、国都を長安から洛陽に遷し、対外的には消極策を取る一方、儒教を奨励して文治主義をとり、内政の充実に務めた。
 その後の皇帝たちは南匈奴を服属させ、中央アジアを再び支配下に置き、和帝のときに西域都護班超の活躍により西域経営はめざましく発展した。班超の部下甘英を大秦国(ローマ)に派遣しようとしたり、大秦王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が到着するなど東西交流も活発化し、倭との交渉も見られた。
 後漢末期には幼帝が続き、外戚と宦官が政治を左右し、これに対立する官僚勢力(党人)は弾圧され(党錮の禁)、国政は乱れた。
 圧政と重税に苦しんだ農民の反乱が頻発し、184年に張角を指導者として起こった黄巾の乱をきっかけに各地の地方豪族たちが互いに相争うようになり、混乱のうちに220年に後漢は魏に滅ぼされた。


Ⅲ 中世

1. 三国時代
 後漢の末期に国内が混乱し、地方豪族たちが勢力を伸ばし始めたが、やがてそれらの豪族勢力を結集したのが魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権らであり、三国分立の形勢が開かれた。
1)魏(220〜265)
 曹操は後漢末に献帝を擁して実権を握り、河北の大部分を平定した。その子曹丕は献帝に譲位させて自ら帝位に就き、洛陽を都とした。
 魏は東北に出兵して高句麗を討ち、東北から朝鮮半島にかけて領土を拡大した。

2)蜀(221〜263)
 劉備は黄巾の乱を討伐して功を立てて勢力を伸ばし、諸葛亮を軍師に招いて天下三分の計を立て、四川・湖北を領有して成都を都とした。

3)呉(222〜280)
 長江流域の豪族孫権は魏・蜀に次いで呉を独立国となし、建業を都とした。湖南・江西・福建地方を開拓し、台湾や海南島を攻め、インドシナ半島にまで勢力を伸ばした。

 蜀は諸葛亮の死後、263年に魏によって滅ぼされたが、魏も権臣司馬炎によって265年に滅ぼされた。

2. 晋
1)西晋(265〜316)
 司馬炎(武帝)は265年に魏帝に譲位させて帝位に就き、国号を晋と改め、洛陽を都とした。280年には呉を滅ぼして天下を統一した。
 晋は皇族諸王に領土を分割したが、8人の有力な諸王が政権を争って八王の乱(290〜306)を引き起こし、国土が乱れた。空論にふける上流階級の風潮(清談の風)や、相次ぐ民衆の反乱で晋朝は動揺した。やがて勢力を盛り返した匈奴が洛陽に攻め込み、晋帝とその次帝を捕らえて殺害したため、316年に晋はいったん中断した(永嘉の乱)。

2)東晋(317〜420)
 江南の司馬睿は河北から避難してきた貴族や土着の豪族らの支持を得て317年に建康を都として晋を再興した(晋の南渡、または東遷)。

3. 五胡十六国時代(304〜439)
 晋が南渡すると、権力の空白地帯となった華北にトルコ系の鮮卑が南下し、次いで匈奴・羯、チベット系の氐・羌などの異民族(五胡)が次々と侵入し、漢民族と入り乱れて数多くの小王国を建てた。匈奴の劉淵による漢の建国(304)から、鮮卑の北魏による華北統一(439)までの135年間を五胡十六国時代と呼ぶ。
 氐の前秦の王苻堅は長安に都して長江以北を支配下に置き、西域諸国も服属させ、その勢いで東晋を征服するために大軍を率いて南下したが、淝水の戦い(383)で敗退し、南北対立の形勢が固定することになった。

4. 南北朝時代
 分裂状態にあった華北は、鮮卑拓跋氏の建てた北魏により統一された(439)。一方、江南では東晋の武将劉氏が国を奪って宋(劉宋)を建国し、南北の対立が鮮明となった。
1)北朝(439〜581)
 華北を統一した北魏は孝文帝の時代に国力が充実した。孝文帝は均田制を制定し(485)、都を洛陽に遷し(493)、鮮卑人の姓を中国風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど徹底した漢化政策を断行した。しかし光武帝の後は内紛によって国力が衰え、東魏と西魏に分裂した(535)。
 西魏(535〜556)は長安に都し、府兵制を開始したが、やがて宇文氏に国を奪われ、北周(556〜581)となった。東魏(534〜550)は高氏による北斉(550〜577)に代わったが、やがて北周に滅ぼされた。

2)南朝(420〜589)
 東晋末には皇帝に失政が多く、反感を抱いた貴族らに支持された鮮卑の軍人出身の劉裕は晋帝を廃し、宋(420〜479)を建国した。その後、斉(蕭氏)・梁(蕭氏)・陳(陳氏)と短命な四王朝が続き、589年に北周を継いだ隋により統一された。

5. 魏晋南北朝(六朝)時代の社会・文化
1)社会制度
 後漢末の混乱期に困窮して流民となった人々を耕作民として受け入れ、勢力を拡大した地方豪族たちは次第に各王朝で主要な官職を独占するようになり、有力豪族同士で通婚して門閥貴族を形成するようになった。中央集権の強化をめざす歴代王朝は貴族・豪族勢力の抑圧と大土地所有の抑制に苦心することになった。
 三国時代の魏では所有者のない荒田を流民や一般農民に割り当てて耕作させる屯田制が敷かれた。西晋では貴族・豪族の土地所有をその官爵によって制限する占田法や、農民に年齢に応じて一定の土地を給付する課田法が施行された。北魏の孝文帝は、土地を一定の基準で農民に給付し、自作農を育てる均田制を実施し、これは後に隋・唐に受け継がれた。
 官吏任用制度としては九品中正法が実施されたが、官人を推薦する中正官自身が豪族であったため、次第に有力豪族の子弟のみが上級官職を独占するようになり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われた。
 西魏において開始された府兵制は、兵農一致の精神に基づく徴兵制度であり、これも後に隋に受け継がれ、唐に至って整備・完成をみた。

2)六朝文化
 主に江南において受け継がれた貴族的性格の文化を六朝文化という。文章では四六駢儷体が好まれ、梁の蕭統が編纂した「文選」はこの時代の代表作が多く収録されている。詩文では陶淵明(東晋)や謝霊運(宋)らの詩人が現れ、絵画では画聖または中国画の祖と呼ばれる顧愷之(東晋)、書では書聖と呼ばれた王羲之(東晋)が現れた。
 漢代に国教的地位を得た儒教は後漢末になると次第に権威を失い、代わって老荘思想が人々の心を捉えるようになった。しかし、やがて世俗を避けて空論をもてあそぶ傾向(清談)が流行するようになり、河南省北部の竹林に集まった阮籍ら七人の老荘思想家(竹林の七賢)が有名になった。
 仏教は4世紀初めに洛陽に渡来した西域僧仏図澄により仏教隆昌の元が開かれた。5世紀始めには鳩摩羅什が長安で布教や経典翻訳に努め、6世紀初めには達磨が梁の武帝に迎えられ、華北に禅宗を伝えた。東晋の僧法顕は経典を求めてインドに出向き、後に「仏国記」を著した。仏教の黄龍に伴い、仏寺・仏像の造営も盛んとなり、敦煌の千仏洞や、雲崗・竜門・麦積山の石仏・壁画が作成された。
 道教は、民間信仰や神仙思想が混淆した後漢末の五斗米道や太平道などを源流とし、やがて老荘思想と結びついて5世紀(北魏時代)に教義や教団を備えた宗教として確立された。北魏の太武帝は寇謙之を信任し、道教を国教として採用し、仏教を弾圧した(三武一宗の法難)。

6. 隋(589〜618)
 北朝北周の外戚楊堅は北周の幼帝に位を譲らせて帝位に就き(文帝)、国号を隋とし、長安を都として南朝の陳を滅ぼし、南北統一を実現した(589)。
 文帝は均田制や府兵制を受け継ぎ、律令格式を整備して人民の安定を図り、大土地所有を抑えて中央集権の確立に努めた。また、九品中正法に替えて、試験による官吏任用制度を初めて採用した(科挙の起源)。
 子、煬帝は南北を結ぶ運河を開墾し、長江下流の米産地帯と政治の中心である華北の洛陽・長安を直結した。
 中央アジアではトルコ系の突厥が東西に分裂していたが、文帝・煬帝は東突厥と結んで西突厥を圧迫した。隋の国力が増すと、突厥支配下にあった西域諸国が入貢するようになり、西トルキスタン地方の胡人(イラン系)商人が往来し始めた。煬帝は林邑(南ベトナム)、流求(台湾)を討ち、東南方面にも勢力を伸ばした。しかし朝鮮半島の高句麗が恭順しなかったため、高句麗討伐を繰り返したがこれに失敗した。その結果各地で不満を持つ豪族たちの蜂起を招くことになり、618年、江都に避難した煬帝が殺害され、隋は滅亡した。

7. 唐(618〜907)
 北周の武人貴族李淵(高祖)は隋に対して蜂起し、長安を占領して618年に帝位に就き、国を唐と号した。高祖の次男李世民(太宗)は各地の群雄を平定し、均田制・府兵制を採用して唐朝の基礎を築いた(貞観の治)。この時代に三省(尚書省・中書省・門下省)六部(吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部)を中心とした中央官制・科挙制度・律令格式が完成し、中央集権体制が確立した。
 太宗は東突厥を滅ぼし、吐蕃(チベット)を服属させ、西域諸国を従えた。太宗の子高宗は中央アジアの西突厥を平定し、高句麗・百済も討滅して東北・朝鮮地方を支配下に置いた。大帝国となった唐は支配下の周辺地域に六都護府を設けて辺境の防備と治安に当たらせた。
 高宗の末期には皇后の武后(則天武后)が実権を握り、高宗の死後、実子の中宗・睿宗を廃して自ら帝位に就き、国号を周と改めた(武周革命)。その後中宗が復位して唐が復活したが、中宗も皇后の偉氏に毒殺された(武偉の禍)。この内紛の時代に唐の対外発展は行き詰まり、次第に都護府が有名無実と化していったため、それに替えて辺境の要地には節度使(藩鎮)を設け、辺境守備に当たらせた。
 この政治的混乱は睿宗の子玄宗によって収拾され、開元の治と呼ばれる安定した時代が現出した。内紛の時代に府兵制が乱れ、その維持が困難となったため、玄宗は723年に募兵制(傭兵制)を採用して兵力の充実を図った。玄宗治世の後半は楊貴妃を寵愛して政治をないがしろにするようになったため、安史の乱(755〜763)を招いた。華北から東北地方西南部の節度使安禄山が反乱を起こし、洛陽・長安を陥落させた。安禄山の死後、反乱は武将史思明に引き継がれ、鎮圧までに8年を要した。
 安史の乱の反将系節度使は、反乱鎮圧後も中央政府の弱体化に乗じて地方政治を専断し、軍閥勢力を形成して政府の命令に従わず、租税を中央に送らなくなった。
 徳宗は不服従の節度使を抑圧し、宰相楊炎の献策を容れて租庸調に替わる新しい税法(両税法)を実施したが、中央の権威を回復することはできなかった。両税法により均田制が崩壊すると、むしろ大土地所有が進展し、有力者たちは公然と広大な荘園を所収するようになった。

 唐朝末、朝鮮半島では新羅が強勢となり、半島から唐勢力を駆逐した。東北地方ではモンゴル系の契丹やツングース系の靺鞨が勢力を伸ばし、渤海国を建てた。西北ではアッバース朝が興隆し、タラス河畔の戦いで唐軍を破り、唐はパミール高原以東に後退を余儀なくされた。外モンゴルでは突厥に代わってウイグルが強盛となり、チベットでは吐蕃が西辺に侵入するようになった。雲南地方ではチベット・ビルマ族の南詔が興って西南辺の脅威となった。
 節度使割拠の勢いが激化すると、政府内では強権派と妥協派が党派を作って対立し続けた。両党派は互いに宦官を味方に付けようとしたため、宦官の勢力が次第に増大し、その結果皇帝の廃立さえ左右するようになった。
 874年に王仙芝が河北で反乱を起こすと、黄巣がこれに応じて山東で挙兵した(黄巣の乱:875〜884)。突厥出身の武将李克用の援助を得てこの乱をかろうじて平定したものの、貴族や豪族たちは没落し、各地でますます節度使の勢力が強まっていった。
 河南地方の節度使朱全忠は唐の宮廷内で勢力を伸ばし、唐の末帝に迫って位を譲らせ、907年に帝位に就いた(後梁)。

 唐代には北朝系の剛健な法制的文化(均田制・府兵制・律令格式など)と南朝系の繊細華麗な芸術的文化が融合し、さらにインド・イスラーム系の西方文化が加わって国際色豊かな文化が花開いた。
 西域諸国の政治的安定化により東西貿易が盛んとなり、陸路および海路での交通路が整備された。陸路は天山南路を経由し、ソグド商人の中継貿易によりイラン系の文化が唐にもたらされた。海路は南海経由により、アラビア人(大食)の商人が盛んに往来し、市舶司も設けられ、揚州・泉州・広州などが港湾都市として発展した。

 詩文では玄宗時代の李白・杜甫が唐代を代表する詩人であり、その後に現れた白居易(白楽天)も有名である。また王維、孟浩然、杜牧らも輩出した。文章は六朝以来の四六駢儷体が流行したが、韓愈や柳宗元は古文(漢以前の文体)を復興した。
 書では唐初の三大家である欧陽詢・虞世南・褚遂良および玄宗時代の顔真卿らが代表的存在である。絵画では唐初の閻立本は人物画の、玄宗時代の李思訓・呉道玄らは山水画の名手であり、詩人の王維は南宋画の祖とされている。
 工芸では陶芸が勃興し、唐三彩と呼ばれる優れた作品が制作された。

 儒学は訓詁学の域を出ず、太宗の命により孔頴達らが編纂した「五経正義」が権威あるテキストとして重んじられた。
 仏教は唐初、三蔵法師玄奘が陸路より、義浄が海路よりインドに到達し、それぞれ「大唐西域記」と「南海寄帰内法伝」を著した。道教は唐室により手厚く保護され、9世紀中頃には一時仏教を弾圧した(会昌の廃仏)。また、東西交易の発展により三夷教(ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教)と呼ばれる西方宗教が伝来した。特に太宗時代に伝わったキリスト教は景教と呼ばれ、長安には波斯寺(後の大秦寺)が建立され、781年にはその境内にキリスト教の流行を記した「大秦景教流行中国碑」が建てられた。

8. 五代十国時代(907〜960)
 907年、抃梁の節度使朱全忠が唐を滅ぼして後梁(907〜923)を建てた。続いて後唐(923〜936)・後晋(936〜946)・後漢(947〜950)・後周(951〜960)と、中原を中心とする華北の一部を支配領域とする短命の王朝が続いた。この内、後唐・後晋・後漢は沙跎突厥出身の武将による王朝であり、後唐が洛陽に都した以外はすべて抃州(開封)を首都とした。
 五代王朝の支配領域以外では、唐末以来の節度使などの藩鎮勢力による前後十国に及ぶ小国が割拠して抗争を続けた。十国は、四川の前蜀・後蜀、江蘇の呉・南唐、福建の閩、湖南の楚、湖北の荊南、広東の南漢、浙江の呉越、山西の北漢をいう。
 五代の君主はすべて武将で、もっぱら武断政治が行われ、同じ王朝内でも勢力争いが絶えず、中原には争乱が続いた。中原から地方への人民の流出に伴い、中央の文化が地方都市へ普及し、農業生産力の上昇も加わり、むしろ地方で平和な状態が出現した。特に南唐の都金陵、呉越の都杭州、前蜀・後蜀の都成都などで貴族文化の伝統が保存された。かつての門閥貴族は没落し、武人・富商や農民の中から実力者が台頭し、士大夫階級(地主階級)を形成し始めた。


Ⅳ 近世

1. 宋(960〜1279)
1)北宋(960〜1127)
 960年、後周の節度使であった趙匡胤(太祖)が抃州を開封と改めて都とし、宋を建国した。太祖とその弟太宗は、燕雲十六州を除く中国のほぼ全土を統一し、徹底した文治主義を採用した。彼らは節度使の権限を削減し、その支配下の州を中央に直属させ、節度使に欠員が生じると文官を後任に任じた。兵員は皇帝直属の中央軍に改変し、親衛隊の強化を図るとともに、地方に精鋭な軍隊を配置しないようにした。科挙の制度では、皇帝自らが試験を行う殿試を創設し、皇帝側近の中書省が民政を扱うようにして、君主専制の官僚政治体制を確立した。
 対外的には消極策を取ったため、北方からの異民族国家の侵入に悩まされることになった。まず北方の遼(契丹)が侵入すると、毎年多額の貢納を約して和睦した(澶淵の盟:1004)。北西から西夏が侵入するとやはり同様の和睦を結んだ(慶暦の和:1044)。仁宗の時代はこうして平和が続き、多くの文化人を輩出して文運隆盛となった(慶暦の治)。

 官僚組織の肥大により人件費が増大し、異民族国家への多額の貢納も重なって宋朝の財政を圧迫した。神宗は王安石を宰相に登用し、改革政治を断行させた。王安石は新法と呼ばれる一連の法(均輸法・青苗法・市易法・募役法・保甲法・保馬法など)を次々と実施した。しかし、改革が性急すぎたために保守派官僚の攻撃を受け、実効が上げられないままに失敗に終わった。
 王安石を重用した神宗の死後、保守派の司馬光が宰相となると、新法は全面的に廃止されて従来の旧法に戻った。しかし、その後新法党と旧法党との対立が激化し、次第に権力闘争へ進行していった。

2)北方民族
① 契丹
 モンゴル系の契丹は5世紀頃から内モンゴルに住み遊牧生活を送っていたが、10世紀初めに唐が滅亡し、中国本土が混乱状態にあるとき、族長耶律阿保機(遼の太祖)が契丹諸部族を統合して遼を建国し、内モンゴルを支配するとともに962年に勃海を滅ぼして東北地方東部を手に入れた。太宗は後晋建国に際して武力援助を与え、その代償として燕雲十六州の割譲を受けた。
 11世紀初めに遼帝自ら大軍を率いて宋に侵入し、澶淵の盟(1004)により毎年多額の貢納を受けることになった。華北を支配するようになった遼は、契丹人を中心とする遊牧民族には固有の部族制を存続させ、契丹の慣習法を持って統治し、漢人などの農耕民族には中国の州県制を採用し、中国の法をもって統治する二重統治体制を採用した。
 12世紀初めに東北地方に勃興した金に滅ぼされた(1125)。

② 西夏
 チベット系のタングート族が建てた西夏は初代皇帝李元昊の時代に中国製北部に領土を拡張し、中継貿易を主な財源として栄えた。11世紀中頃に宋に侵入し、仁宗と和議を結び多額の貢納を受けるようになった(慶暦の和:1044)。

③ 女真(金)
 ツングース系の女真は靺鞨を前身とし、その一部は勃海を構成したが、10世紀前半に勃海が滅亡すると、東北地方北東部から朝鮮半島東北部にかけて定住し、半漁半農の生活を営んでいた。
 12世紀に完顔部の族長完顔阿骨打(金の太祖)が遼から独立し(1115)、国号を金とし、会寧を都とした。阿骨打は猛安・謀克と呼ばれる部族組織に基づく兵農一致の軍事社会体制を編成し、宋の徽宗と同盟して遼を南北から挟撃した。その後単独で遼を滅ぼし(1125)、宋を攻撃していったん滅亡に追い込んだ(1127)。
 南に逃れた南宋との間に和議を結び(1142)、12世紀中頃に国都を燕京(現在の北京)に遷した。12世紀後半の世宗時代に最盛期を迎えたが、次第に女真族の支配階級が中国文化に心酔して文弱となり、女真語も忘れられていった。仏教が栄え、全真教が起こるなど漢化が進行し、モンゴル系遊牧民族討伐や宋との紛争による軍事費が国家財政を圧迫し、紙幣を乱発して経済が混乱して国力が衰え、1234年にモンゴルの攻撃を受けて滅亡した。

3)南宋(1127〜1279)
 徽宗時代は平和な状態が続いていたが、12世紀初めに遼の支配下にあった東北地方北部に女真族の金が勃興し、次第に勢力を拡大した。徽宗は燕雲十六州奪回を企てて金と同盟を結び、遼を南北から挟撃したが、宋軍は敗退した。1125年に金は独力で遼を攻め滅ぼした。同盟中に金との約束を守らなかった宋は、その後金の攻撃を受け、国都開封が陥落し、徽宗・皇帝欽宗以下多数の皇族・重臣らが捕虜になり、宋はいったん滅亡した(靖康の変:1127)。
 同年、徽宗の子高宗が即位し、江南に逃れて臨安を行在(あんざい:仮の都)として宋を再興した(宋の南渡)。南宋では主戦論と和平論とが対立を続けたが、結局武将岳飛らの主戦論が敗れ、宰相秦檜らの和平論が用いられ、1142年に金との間で和議が結ばれ、西は大散関、東は淮水の線をもって国境とし、宋帝は金帝に対して臣下の礼をとり、毎年多額の歳貢を贈ることになった。
 やがてモンゴルが金を攻撃した時に宋はモンゴルに協力したが、金を滅ぼして華北に進出したモンゴルに対して対策を怠り、1276年に臨安を攻め落とされ、1279年に滅亡した。

4)宋の社会と文化
 唐末から五代にかけて門閥貴族が没落すると、士大夫階級からなる新興の地主階級(形勢戸)が台頭し、広大な大土地を所有して荘園を経営し、佃戸制(小作制)の発達をもたらした。農産物の内、米の増産がめざましく、養蚕や茶の栽培も盛んになった。喫茶の流行とともに陶磁器の生産が盛んになり、景徳鎮(江西省)・磁州(河北省)が有名となった。都市の商工業者は行(商人組合)・作(手工業者組合)を結成し、貨幣経済も発達して交子や会子と呼ばれる紙幣が使用されるようになった。
 士大夫階級によって儒教が著しい展開を見せ、北宋の周敦頤に始まり、程顥・程頤を経て南宋の朱熹により大成され、朱子学または宋学と呼ばれるようになった。史学では司馬光の「資治通鑑」、類書では「太平御覧」などが著された。
 仏教では禅宗と浄土宗が盛んになり、道教では全真教が興隆した。
 文学では欧陽脩や蘇東坡ら唐宋八大家が現れ、絵画では院体画と呼ばれる写実的彩色画や文人画(水墨画)も流行した。

2. 元(1271〜1368)
1)モンゴル帝国の成立
 モンゴル系の遊牧民は13世紀初めにテムジンにより諸部族が統合され、1206年にモンゴル帝国が形成された。テムジンは自らチンギス・ハーン(太祖)と称し、契丹人の耶律楚材を登用して国家体制を整備した。チンギス・ハーンは西方ではホラズム王朝を滅ぼし(1220)、次いで南方の西夏を征服した(1227)。
 チンギス・ハーンの死後、クリルタイの推戴を受けて第3子オゴタイ・ハーン(太宗)が即位し、カラコルムを都に定め、東方の金を滅ぼし(1234)、朝鮮の高麗を属国とした。
 1236年にオゴタイの命を受けたバトゥは大軍を率いてロシアに侵入し、モスクワ・キエフを占領した。さらにポーランド・ハンガリー・オーストラリアへと進撃し、1241年にドイツ諸侯連合軍をポーランドのリーグニッツで大破した(ワールシュタットの戦い)が、オゴタイの死により1243年にモンゴル軍はヨーロッパより撤退した。
 南西アジアではフラグがペルシアを占領し、バグダッドを陥落させてイスラーム帝国アッバース朝を滅ぼした(1258)。

2)モンゴル帝国の分裂
 チンギス・ハーンの4子は、長子ジュチがアラル海・カスピ海の北方地方を、次子チャガタイが東西トルキスタン(チャガタイ・ハーン国)を、三子オゴタイが西北モンゴリア(オゴタイ・ハーン国)を、末子トゥルイは直轄地のモンゴル本部を継承した。その後、ジュチの子バトゥは西方遠征により父の領土を拡大してキプチャク・ハーン国を建て、トゥルイの子フラグは西アジアを征服してイル・ハーン国を建てた。
 トゥルイの次子フビライ・ハーンが兄モンケ・ハーンの死により、クリルタイの推戴を受けてハーン位に就くと反対派諸王はオゴタイの孫ハイドゥを中心に反乱を起こし(ハイドゥの乱)、以後長年に渡って抗争を続けた。
① オゴタイ・ハーン国
 ハイドゥの乱によって衰え、チャガタイ・ハーン国に併合された(1310)。
② チャガタイ・ハーン国
 アルマリクに都して東西トルキスタンを領有したが、ハーン家の内紛により統一を失い、後にティムールにより滅ぼされた(1369)。
③ キプチャク・ハーン国
 ヴォルガ河畔のサライを都とし、西シベリアから東ヨーロッパ地方を領有し、ロシア諸興国を支配するとともに、ビザンツ帝国と通商したが、次第にティムール帝国に圧迫されるようになり、1480年にモスクワ大公イヴァン3世が独立すると、権威の喪失により1502年に崩壊した。3つの分国(カザン、アストラハン、クリム)も後にロシアによって滅ぼされた。
④ イル・ハーン国
 タブリズに都し、イラン・イラク地方を支配し、ビザンツ帝国や西ヨーロッパ諸国とも通称したが、次第にイスラム化し、14世紀末にティムールの攻撃に会い、分裂・紛争で崩壊した。

3)元朝の盛衰
 モンケ・ハーンの死後、クリルタイの衰退によりハーン位に就いたフビライ・ハーン(世祖)は、1264年に大都(北京)に遷都し、国号も元と改めて皇帝となった(1271)。1276年に南下して南宋の都臨安を占領し、宋を滅ぼした(1279)。その後中国全土を征服し、東南アジアも支配下に置き、日本遠征も行った。
 元は領土内の各民族をモンゴル人、色目人(西域人)、漢人(金治下の漢人・契丹人・女真人)、南人(南宋治下の漢人)に四分し、官吏の採用にはこの順序が取られた。中央では中書省(行政)・御史台(監察)・枢密院(軍事)の三権分立による合議制を採用し、地方には10の行中書省を設けて地方行政に当たらせた。公用語にはモンゴル語が用いられ、チベット仏教僧パスパによるパスパ文字が使用された。
 しかし、皇位継承をめぐる内紛やチベット仏教信仰による莫大な出費、色目人の横暴と経済政策の失敗等により、国力は次第に衰えた。末期には非支配階級である漢人の不満が募り、各地で暴動が発生し、なかでも白蓮教徒による紅巾の乱は最も勢いが強く、江南地方は群雄割拠の状態となった。その中から現れた朱元璋は、1368年に国都大都を制圧し、モンゴル勢力を追放した。

4)元朝の社会・文化
 元朝の時代には東西交易が発達し、西方の文化が伝わり西洋人も多く渡来した。
 ヴェネチア商人のマルコ・ポーロは陸路大都にきてフビライ・ハーンに仕えた。教皇インノケンティウス4世の使節僧カルビニや仏王ルイ9世の使者ルブルックらもモンゴル高原を訪れた。イタリア人のモンテ・コルヴィノは大都でキリスト教を布教した。
 宗教に寛容であった元では、ネストリウス派キリスト教(景教)、イスラーム教(回教)、チベット仏教などが広まり、道教の全真教も漢民族の間で信仰を集めた。
 郭守敬はイスラーム歴を基に授時暦を作成し、朱思本はアラビア描法による地図を作った。
 江南の漢人社会では庶民文化が発達し、元曲と呼ばれる戯曲では「西廂記」「琵琶記」「漢宮秋」などの傑作が生まれ、口語文学では「三国志演義」や「水滸伝」の原型が成立した。絵画では趙孟頫らが南宋画を確立した。


【註記】


【参考】


【作成】2017-02-25